人生という絵画
「な、何で……」
戸惑い手で涙を拭うもそれは止まることなく瞳から溢れ出てくる。まるでせき止められていたものが決壊するかの様に。
こんなことは初めてだ。俺はそんな簡単に泣いたりしないはずなのに。卒業式でも、皆に敵意を向けられたときも、あの日筆を折ったときですら涙など出なかったのに。何故こんなにも溢れて止まらないんだ。
「良い絵ってたくさんあるよね。上手い絵はもっとたくさんある。多くの人が絵を描いていて、それぞれの上手さや魅力がある。……けれど本当にすごい絵っていうのはそうそうない。それこそ涙を流してしまうような、そんな絵はね。そう、この絵のように」
絵を見るが涙で霞んでしまい良く見えない。ただただ青い色が入り込んでくる。
「技術はすごく大事だよ。見る者に正しく魅力を伝えるために必要なものだ。その点で言うとこの絵は確かに技術的にはまだ未熟だよ。大分上手くなったけどね。それでもこれ以上に上手い絵は世の中に幾らでもある。上手い下手だけで評価してしまったらきっと数多の作品の中に埋もれてしまうだろうね……けれど」
言葉を切ると先生は俺の隣にしゃがみ込み、改めて絵を眺めた。
「この絵には技術なんてものよりももっと大事なものが込められている。彼女が抱いた、抱いている、これから抱くかもしれない感情、過ごした時間、願い……それらのものがすべて込められている。そしてそれらがたったひとりの人に向けられている。だからこそこんなにも心が震える。技術なんてものを度返ししてここにくる」
先生の拳が俺の胸をトントンと叩いた。
「これはそうそう簡単にできることじゃない。技術は誰でも身に着けられるけど、こっちはそうはいかないものだよ。そんな絵を高校生の女の子が描いてしまうのだからすごいものだ。羨ましくあり……悔しくもあるね」
苦笑いする先生はその言葉通り悔しさが滲み出ているように感じる。いつも飄々としている彼には似つかわしくない意外な表情に僅かに驚いた。
けれどそんな先生は溜め息を一つつくと一転、表情を緩めた。今度はどこか誇らしげだ。
「すごい絵だよ」
ああ……その通りだ。
すごい絵だ。そして彼女はすごい人だ。やはり俺なんかよりずっとすごいじゃないか。絵だけじゃない。きっと彼女は何だってできる。望めば何だってできる。勿論限界はあるだろうけれど、それでも障がい者だろうが関係なく彼女は自分の望むように生きられる。
なのに
何、諦めてんだよ?
地に落ちるって何だよ?
縛るって何だよ?
忘れてって何だよ⁉
クロッキー帳を握りしめる。歯を食いしばる。涙はとめどなく溢れてくる。
彼女が俺を嫌いになったのなら、別にいい。俺に愛想つかしてもう一緒にいたくないと言うなら別にそれでいい。それなら納得できる。悪いのは全部俺だ。
けれど、離れる理由がこんなのでは納得できない。
俺は、どうすればいい?
「東雲さんに頼まれたからこの絵を君に見せた。けど、僕がするのはここまでだ」
先生は立ち上がり、棚に寄りかかった。
「君はどうしたい?」
俺がどうしたいか……。
「何もしたくないならしなければいい。絵やクロッキー帳が欲しいならあげるよ。いらないなら置いていけばいい。君が望むなら処分してあげてもいいよ? もしその他何か行動を起こしたいならそうすればいい。君の人生なんだから君のやりたいようにやればいい」
「後悔のないようにってやつですか?」
「いや? そうは言わないよ。何で後悔するかなんて分からないんだから。『やらないで後悔するより、やって後悔する方がいい』なんて言うけど、必ずしもその限りではないでしょ。やった結果とんでもない大後悔をすることだってあるんだろうし。そしてその責任は誰も取ってくれない。君が何か行動を起こすことが必ずしも正しいとは限らない。何を選んでも後悔するかもしれないし。分からないよ、誰にも。僕にもね」
それはそうかと納得する。そんなのは所詮は傷付いた自分を納得させる後付けの言葉、もしくは行動した結果が少しはマシだった人間の言葉に過ぎない。それですべてが救われる訳ではない。きっとその影で馬鹿を見た人間が大勢いる。
「だからこそもう頼りになるのは自分の気持ちしかない。自分がどうしたいか、だよ」
「……それでもしダメだったら責任取ってくれますか?」
「嫌だよ。言ったでしょ? 責任は誰も取ってくれないって」
「教師として教え子に対するそれはどうなんですか?」
「君は元教え子だからなぁ」
この野郎。
「うえっへへ」と先生は笑うが、こちらは笑い事じゃない。自分の人生が掛かっているのだから。
「君は失敗しない様に進み過ぎなんだよ」
「それに越したことはないでしょ? 失敗なんて誰もしたくない」
「まあ、それはそうだけどね。けど、失敗せずに生きるなんて無理な話でしょ。……人生を絵に例えるって話あるじゃない? 知ってるかな?」
俺は頷く。確か過去にどこかで聞いたことがある。
「自分の自由に描いていけばいい、生きていけばいい……みたいにさ、まぁ大抵は前向きな意味合いで取り上げられることが多いんだろうね。けれど、きっとね? 人生を絵に例えたりなんかしたら、その描かれた絵はどいつもこいつもドロッドロだよ」
先生は歯を覗かせ意地の悪い笑みを浮かべる。
「歪で、濁っていて、雑然としていて……まあ見るに堪えないだろうね。それは何も悪人に限らずだ。どんな善人だって、成功者だって決して綺麗なばかりじゃあない。どれだけ美しいものを求めていてもその過程で様々な雑味が混じっていく。形を崩し、色を濁し、バランスを崩しドロドロになる。拭き取り、削り、叩きつけ、ちょっと冷静になってまた新しく形を取り直し、新しい色を乗せていく。絵の具の層は増していき、その中で僅かばかり綺麗になった形や色に一喜一憂し価値を見出していく。それがきっと人生だ。紙の白を大事にした終始綺麗な透明水彩の様なものじゃない。咽るようで、扱い間違えればドロドロになる油彩の様なものだ」
油彩の様というのはしっくりきた。人生はきっと一発決めはできない。
「失敗したり、上手くいかないときは不安だ。内心ハラハラしながら描いていくことになる。どれだけ年を取ってもそこは変わらない。不安と戦いながら悩み考え描き進めていくしかない」
大人になれば悩みなどなく何でもそつなくこなせる様になると、そんな風に思っていた頃がある。けれどそんなことは有り得ないのだと今なら分かる。きっとその年代ごとに悩みはあって、それは一生尽きることはない。
「上手くいかないとき、絵だったら投げ出すこともできるだろう。その絵に見切りをつけてまた次の一枚を描き始めればいい。けれど人生はそうはいかない。用意された人生という支持体は一つだ。その一枚を捨てて次の一枚という訳にはいかない。そのたった一枚を不安と希望を抱きながら信じて描いていくしかない」
「それこそ一生ね」そう言った先生の笑みは正負両方の感情が込められて見えた。
「もっとも、もう一枚描いていいと言われて描くつもりはないけどね。描き始めが一番大変なんだ。それに何だかんだ人生をもう一度やり直すのはしんどい」
真っ白なキャンバスと対峙し、そこに一手入れるときは多少の緊張感が伴う。ワクワク感もあるが、やはり不安が上回るのではないだろうか。描き進め絵ができ上がってきて漸く少し安心できる。
きっと人生も一緒だ。
世の中が未知で溢れていて自分のことすらよく分からなかった頃は、今となっては不安しかない。
小、中、高と学生時代をもう一度なんて御免だ。その道程がなかなかに険しく面倒くさいことを今の俺は知っているから。同じ顔ぶれの学校生活も、受験も二度としたくない。世の中を一から知り直したくはない。
それに比べればここまで人生走ってきた今の方が多少マシに感じる。
相変わらず未知に満ち、後悔の多い人生ではあるが、それでも『自分』という存在は確立できているから。
「そう考えられるのは幸せな事なのだろうね。人生を初めからやり直したいと思うような絶望を味わっていないということなのだから。僕も……君も」
先生は一瞬苦笑いを浮かべるが、すぐに引っ込めると俺を見据えた。
「君はもう描き出している。一手でも入れてしまえばそれはもう始まってしまっているということだ。それをなかったことにはできない。初めからやり直すことはできない。けれどここからその上に新たに描いていくことは幾らでもできる。まぁ描いたものを潰すのは抵抗があるかもしれないし、下に描いたものの絵肌によってはなかなか新たに描くのはしんどいかもしれないけどね。そして新たに描いたことによる結果は未知数だ。描くか描かないか、それは君の自由だ。けれどもし、その描いた先、進んだ先に何かを求めているのであれば」
そこで先生はおもむろに懐から何かを取り出しこちらへと差し出した。
筆だ。
油彩用の筆。大分使い込まれ、汚れが目立つ。
「ここで筆を折るのは勿体ないんじゃない?」
受け取り気付く。
これは俺のものだ。
卒業の際、美術部の伝統にならい先生に渡した俺の筆。今思い出した。
そうか……俺も渡していたのか……。
筆を握る。
それは久しぶりのもののはずなのに驚く程に手に馴染んだ。たかが絵筆のはずなのに、まるで自分の身体の一部かの様に自然だ。
東雲さんの絵に目をやる。
青空の中、男は異形の翼を大きく広げ、遥か彼方を見据えている。
俺がしたいこと。
俺が求めるものは。
俺は
彼女のクロッキー帳を胸に抱きしめる。
立ち上がりコートの袖でグイッと涙を拭い、先生へと振り向く。そして
「ありがとうございました」
俺は深く頭を下げると、走り出した。
準備室を飛び出す直前「うえっへへ」という癖のある笑い声が聞こえた気がした。
走る。
風を切り、景色を人々の目を置き去りにしただ走る。
頭に浮かぶのは東雲さんのこと。
これまで彼女と過ごした時、光景、その記憶が頭の中に満ち、溢れていく。
彼女への意識していた想い、そして無意識の想い。そのすべてが自分の中に溢れ渦を巻く。
日の昇らない暗闇の中、自分がどこにいるのか分からない。
けれど
自分がどこへ行きたいのか、そして何を求めているのかはハッキリと分かる。
だから走る。
それを手にするために。
今度こそ手放さないように。
家に着くとそのまま自室へと向かった。
荒く肩で息を吐く俺の前にはクローゼット。
あの日から一度も開けることのなかった扉に手をかける。
躊躇ったのはほんの一瞬。
俺はその扉を思い切り開け放った。




