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 美術室には誰もいなかった。

 照明はすべて消えており、加えて日が陰っているため薄暗い。

 先生は準備室の鍵を開けると俺に目配せをし、中へと入っていった。

 彼に続いて俺も中へと入る。

 より薄暗く、少し埃っぽい美術準備室。片付けの途中ではあるが、備品を外に出していることもあり中は意外とスッキリしているようだ。

 先生は窓際で立ち止まりこちらへと向き直ると、顎で部屋の奥を指し示す。

 それに釣られるようにそちらを見て、俺は目を見開いた。

 絵だ。

 イーゼルの上に一枚の油彩画が置かれている。

 そのとき窓から眩い光が差し込み、まるで自然のスポットライトの様に室内を、そして絵を照らし出した。

 俺はふらふらとその絵に近づく。

 青空の絵。

 一面に青空が広がり、夏を思わせる白い雲が浮かんでいる。

 その空の中にはひとりの男性の姿。空を見上げるように佇み、その背には身の丈を遥かに超える大きな翼が生えている。

 写実寄りの空や人物に対してその翼は様々な物体や風景、抽象的な色面がまるでコラージュの様に集まって形作られており、実体はどこか不安定で、具象表現の中において唯一異質に感じた。けれど寧ろそれが俺の心を引き目が離せなくなる。

 誰が描いたかなんて訊くまでもない。この色使い、タッチには見覚えがある。この一年の間、俺が一番見てきた絵だ。


「東雲さんの絵だ。分かっているだろうけどね。ここ一週間この場所でずっと描いていた」


 その言葉に驚く。部活には出ずに帰っていたのではないのか? 全く気が付かなかった。

 皆知らなかったのか? そう思いかけたところで、恐らく知らなかったのはまた自分だけなのだろうと察した。


「……何故こんな隠れるみたいに」

「さあ? その心意までは分からないよ。ただ、彼女に頼まれてね」


 俺が隣の部屋にいる中、俺に気付かれないようにここでこの絵を描いていたのか? 何故そんなことをする必要があるのだろう? 何故俺に隠す?

 疑問と共に目を彷徨わせていると、そこでイーゼルの足下にクロッキー帳があるのに気付いた。拾い上げそれが彼女のものであることを確認する。

 開くとページを一枚一枚捲った。そこにはこれまで彼女が描いた作品のエスキース、そして俺が教えたことが書き込まれている。


「この絵は彼女ひとりで描いた。僕は何もしていない。指導も講評もその他の補助的なことも何もね。それが彼女の希望だったからだ」


『生徒の希望には極力沿わないとねぇ』とは以前からの在原先生の弁で、俺もそれが分からない訳ではない。

 けれどこのサイズの油彩画を今の彼女が何の手助けもなしに描くのは少々酷だと思った。


「必死に描いていたよ。大きな画面に一生懸命手を伸ばして。色を何度も作り直して。車椅子なのに何度も画面から離れて確認して、手を入れてまた確認して。汗をかきながら、涙を流しながら、それでも諦めずに必死に」


 彼女の姿を想像し胸が締め付けられる。


「そのクロッキー帳も何度も見ていた。空君から教わったことを忠実に守ろうとしていた。だからそのクロッキー帳はそんなにも汚れているんだ」


 表紙にも中のページにも生乾きの絵の具が付いており、中にはページ同士が張り付いてしまっている個所もある。それらを剥がしながら一枚一枚捲っていく。

 これまで描いたエスキースとメモ。それを読むに伴いこれまで彼女と過ごした日々、その光景が頭に途切れず淀みなく流れていく。作品の記録はその作品、そして彼女本人の記憶を呼び起こし、彼女と共にいた記憶は今も消えずに俺の中にあるのだと改めて実感した。

 やがて目の前の絵のエスキースが描かれたページになり、それ以降は白紙となった。残りのページをパラララと送っていく。すると


「……ん?」


 不意に通り過ぎたページの中に何か文章の様なものがあったのに気付き、慌ててページを戻した。そして


 空くんへ


 俺は息を呑んだ。













 空くんへ


 ごめんなさい。

 まずは謝らせてください。

 黙って転校してしまったこと本当に申し訳なく思っています。

 どうしても空くんには話せませんでした。

 一つは勇気がなかったから。

 もう一つは空くんにはいつもと変わらず同じ様に接してほしかったからです。

 私が転校することで余計な気を遣ってほしくなかったし、同時に私もこれまで通り空くんと過ごしたかったんです。

 全部私のワガママ。

 ごめんなさい。


 空くんは私にとって特別なんです。

 人に順位なんて付けちゃいけないんだろうけど、それでも空くんは私にとっての一番だって自信をもって言えます。

 空くんと過ごした時間は私にたくさんの気持ちをくれました。

 楽しいもの、嬉しいもの、中には辛いものもたくさんあったけど……それらすべてひっくるめて私にとって掛け替えのないものです。

 空くんにとって私との時間はどうでしたか? 楽しかったですか? それとも大変でしたか? たくさんワガママ言っちゃったし大変だったかもしれませんね。ごめんなさい。

 でも私にとっては本当に大切なものなんです。

 感謝しています。ありがとう。


 でも、だからこそこれ以上空くんに迷惑はかけられません。

 私の身体のことで空くんが大変な思いや辛い思いをするのは耐えられないです。

 私がこう言うときっと空くんは「そんなこと気にするな」と言ってくれるんだと思います。素直じゃなくて、愛想もないけど、それでも優しいから。

 けれど、そのことを他でもない私自身が許せないんです。私を大切にしてくれる人に私が迷惑をかけてしまうことが許せない。

 私と一緒にいたらきっと空くんを縛ってしまいます。

 大空を飛ぶことのできる大きな翼があるのに、その身体を翼を鎖でがんじがらめにして地上に繋ぎ止めてしまう。

 そんなこと絶対にしたくない。

 そんなの空くんには似合わない。

 私と一緒に地に落ちるなんてそんなこと許せない。

 だから私は空くんの前からいなくなります。

 空くんの夢を邪魔したくないから。

 空くんには幸せになってほしいから。


 私のことは忘れてください。

 私は大丈夫だから。

 ひとりでも何とかやっていくから。

 パパやママ、その他たくさんの人達に助けてもらうことになってしまうだろうけど何とかやっていくから。

 だから気にしないでください。

 もっとずっと時が経ってから『そう言えばあんな子いたな』くらいに思い出してもらえたらそれだけで嬉しいです。



 けれど

 最後にもう一つだけワガママを言わせてください。


 私は空くんのことを覚えています。


 私にとって一番大事な人。

 私のことを本当に大切にしてくれた人。

 一年にも満たない、一生からしたらほんの僅かな時間だったけど、大切な時を共に過ごせたこと。

 どうか覚えていさせてください。


 空くんはすごい人だよ。

 空くん自身は否定しそうだけど、私はそう思っている。前に私が連れて行ってあげるなんて言ったけど、そんな必要きっとないんだよ。

 今は少し休んでいるけど、十分休んで力を取り戻したら、またその大きな翼を羽ばたかせて大空を高く遠く自由に飛んでいくのだと信じているよ。

 そんな私の願いを込めて絵を描きます。

 上手く描けているかな(笑)

 大空を飛ぶ空くんをこの同じ空の下で私も見上げたいな。

 いつの日かこの空の向こうにある『何か』を見つけることができますように。



 あなたの教え子  東雲 玲愛













 細く長く息を吐き出す。

 クロッキー帳から顔を離すと改めてページを眺めた。

 ページはその紙のいたる所が不自然に歪んでいる。まるで一度水で濡れそれが乾いたかの様に所々が皺になり、文字も滲んでいる。

 顔を上げれば目の前に東雲さんの絵。

 青い青い大空へと臨む翼の生えた人。


 これは俺だ。


 自惚れなどではなく確かに感じる。この絵は他でもない彼女が描いたのだから。


「良い絵だね」


 それまで黙っていた先生が呟いた。


「絵ってさ、その人の立場によって誰に向けて何のために描くかが異なるんだよ」


 ゆっくりと歩み寄り俺の隣に立つ。


「一番多いのは圧倒的に自分のためかな。描くことによって自分が満たされる。そこから周りの反応を求めるようになると不特定多数の誰かが対象になってくる。楽しんでほしい、感動してほしい、もしくは認めてほしいという思いで描くようになる。仕事になるとクライアントのため、そしてその先にいる客のためだ。それが上手くいけばお金になるし実績にもなる。受験や何かのショーレースなら大学の教授や審査員に向けたものになり、求めるものは合格判定や賞の獲得だ。その人の立場によって描く対象と目的は変わってくる。けれど、過程はどうあれ結局最後に求めることは自分が満たされることだ。描くことによる楽しみ、周りからの評価、進学、就職、名声、金……まぁ色々だね。色々なもので自分を満たす。みんなそれぞれの都合で描いていてそれらはどれも正しい。それら同士を混ぜようとすると色々と軋轢があるかもしれないけど、個々に見れば少なくとも間違ってはいない。みんな多かれ少なかれ自分のために絵を描いている…………けれど」


 先生は東雲さんの絵を見つめ目を細めた。


「この絵は、君に、唯一人君だけのために描かれている。見返りなんて求めていない。自分が何か満たされることなんて考えていない。ただただ君のことだけを想って描かれている。だからなのかな? こんなに胸に響くのは。君の心を震わすのは」

「……大袈裟じゃないですか?」

「そう? でも……じゃあ何で」


 先生が俺を見下ろした。


「君は泣いているの?」

「え……」


 頬に手を当て気付く。指を濡らす温かいものに。それは頬から顎へと伝い、雫となって東雲さんのクロッキー帳のページにパタ、パタパタとシミを作る。


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― 新着の感想 ―
私も泣いてしまいました(:_;)
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