重なる鼓動
あと少しだけ話がしたいと言うので、駅の改札前でもう少しだけ話すことになった。
帰りの時間が気になったが、しっかりと許しは得てきたらしく今日は遅くなっても大丈夫だそうだ。
丁度帰宅ラッシュの時間帯だけあり改札前は混雑している。都心に比べればずっとマシなものであるが、俺からすればこれでも十分辟易する。
そのためコンビニの出入り口の脇、人の流れから外れた所に並び話をした。
手にはそれぞれいつものコーヒーとココア。
会話はやはり特別なことなんて何もないただの雑談だ。けれどそれでいい。その何でもないものの積み重ねが、きっと後に振り返ったときに大事なものになるのだろうから。
それから幾つかの電車を見送り、混んでは引く人の波が収まった頃、ふと時計を確認するともう一時間程が経っていた。
「流石にそろそろ帰りましょう」
俺が言うと東雲さんは表情を硬くした。けれどそれも一瞬のことですぐにその表情を崩す。
「残念だけど……仕方ないね」
そう苦笑する彼女にまた僅かな違和感を覚えるも、それが何なのか確信が持てず、俺は次の列車での彼女の乗車介助を駅窓口に頼んだ。
列車が来るまでおよそ十分。それを確認しながら俺は東雲さんの下へと戻り、コーヒーを飲み干した。
「空くん」
そこで不意に東雲さんが俺を呼んだ。
振り向くと彼女がジッと俺のことを見上げている。その目は真っ直ぐに俺の目へと合わさり、顔にはいつもの笑みがない。
ただそれだけのことで心が僅かにざわつく。
そんな俺の心情を知ってか彼女がにへっと笑った。
「空くん、ちょっとしゃがんでくれる?」
「え?」
「いいから。お願い」
訳も分からず言われるままにしゃがみ込み、目を彼女の目の高さに合わせた。
目の前には彼女の顔。目は潤み、頬は微かに上気している。
その様に息を呑んだ。
「ああ、この子はやっぱり可愛いんだな」そんなことを今更ながらに改めて実感していると、不意に彼女の腕がこちらへと伸びる。そしてそれは俺の首に回されたかと思うとそのままグイッと俺の身体を引き寄せた。
思考が停止する。
周りの景色は消え、音は消え、あらゆるものが消え失せ、ただ自分と彼女だけが残った。
上手く頭が回らない中、ゼロ距離に彼女を感じ「ああ……俺は彼女に抱きしめられているらしい」という事に漸く気付いた。その途端に身体が一気に熱を持つ。
「東雲さん、何やって———」
慌てて離れようとするも、彼女はより一層の力で俺に抱き着いてきてそれを許さない。
鼓動が速く大きくなる。ドッ、ドッ、ドッという音が脈動と共に聞こえる。
それが身体を通して彼女に伝わることへの戸惑いと羞恥から再び離れようとしたそのとき
ドッ、ドッ、ドッ
俺のものとは異なる音を感じた。
やはり速く大きな音。それが身体を通して俺に伝わってくる。
「東雲さ———」
俺の首に回された腕にまた僅かに力が籠った。身体は更に密着し彼女の表情を伺うことは叶わない。
異なる音がそれぞれのリズムを刻み、やがて混ざり合いひとつになっていく。
俺の両手は行き場を失い暫く宙を漂っていたが、やがて彼女の背におずおずと伸ばされそっと控えめに添えられた。
どれくらいそうしていただろうか?
随分と長いことそうしていたように感じるが、きっと僅かな時間だ。
やがて東雲さんはゆっくりと俺から身体を離した。
それに伴い周囲の景色が戻り、音が戻り、駅の雑踏が返って来る。
彷徨っていた目の焦点が合うと目の前には彼女の顔。
目を潤ませ、真っ赤な顔で微笑んでいる。
「ふふっ……ドキドキしたね」
恥ずかしそうにはにかむ彼女から目を逸らした。
全身が熱く、鼓動が速い。高鳴る心臓はこの身を弾ませるかのようだ。きっと俺の顔も彼女同様真っ赤だろう。こんな様では言い訳のしようもない。
「何やっているんですか、こんな人の往来のあるところで」
恨めし気に彼女を見るも彼女の方はどこ吹く風だ。
「充電だよ。久しぶりだからたっくさん充電しとかないと。あと空くん成分も」
「その成分まだあったんですね……」
「これでまたこれからも戦えるよ!」
「何と戦っているんですか?」
「うーん……これからの人生とか?」
「何ですかそれ……」
こんな冗談めかしたやり取りもきっと照れ隠しだ。彼女はともかく少なくとも俺は。
速くなった鼓動と、身体の熱は未だ治まりそうにない。
そこで俺達の下に駅員がやって来て、もう間もなく列車が到着する旨を伝えられた。
東雲さんは一瞬寂しそうな顔をするも、すぐに笑みを戻すと俺へと向き直った。
「じゃあ行くね」
真っ直ぐに俺を見る。
「はい。気を付けて帰ってくださいね」
「うん!」
彼女は元気に頷くと右手を胸の高さまで上げパタパタと振った。
「じゃあね。バイバイ空くん」
微笑み手を振る彼女に俺も同様に手を振って返す。
東雲さんは目を細めやわらかな笑みを浮かべると、車椅子の向きを変え改札へと向かった。駅窓口の前より改札を通り、そのままホームの方へと進んで行く。
そして人の流れに乗るとやがて行き交う人々の中へと消えていった。
俺は手を胸の高さに上げたまま彼女を、彼女の姿が見えなくなっても暫く見送っていた。




