きっと大丈夫なんだよ
その後、数回休憩を挟みつつおよそ三時間描き続け、絵は完成した。
彼女が自分で希望しただけあってなかなか上手く、それを素直に伝えると彼女は嬉しそうに胸を張った。
「空くんのことはずっと見てきたからね。誰よりも描けるよ」
得意げな彼女に苦笑が漏れる。大きく出たなと思いつつも案外その通りかもしれないとそう感じた。
片付けを終えると、残りの時間は二人で話をして過ごした。彼女がそれを望んだからだ。普段と同じ他愛もない話だったが彼女はいつも以上に楽しそうだった。
日は傾いていき窓から差し込む西日も徐々に弱まっていき、気付けば外は真っ暗に。下校時刻を迎えたところで俺達は帰ることにした。
「東雲さん、行きましょう」
帰り支度を済ませ、彼女に声を掛けた。が、彼女は何も応じず美術室内を眺めている。
何の変哲もないいつも通りの美術室。
それをただただ黙ってジッと見渡している。
「……東雲さん?」
怪訝に思いながら再度声を掛ける。
やはり返事はなく、三度声を掛けようとしたところで漸く彼女は振り返った。
「帰ろっか」
彼女の表情はいつも通りの笑顔だった。
住宅の向こうに微かに西日の気配の残る夜道を二人でいつもよりゆっくりと歩いた。
今日はたくさん話がしたいと東雲さんが望んだからだ。美術室であれだけ話してもまだ足りないらしい。
話をしながらゆっくり、ゆっくり歩く。
今日の東雲さんはいつも以上に口数が多く、よく笑った。まるでこれまで会えなかった時間を埋めるように、そしてこれから先の時間をも満たすように。
俺達の付き合いはきっとこれからもまだ暫くは続いていくし、いくらでも話などできる。だから焦る必要なんてない。
そんな俺の思いを他所に彼女は話し続けた。
やがていつもの横断歩道まで来ると赤信号に立ち止まった。
彼女は無言となり、それに合わせて俺も無言となる。
止まっていた自動車が動き出し、右へ左へと忙しなく流れていく。
「空くん」
やがて東雲さんが前を向いたまま口を開いた。
「絵は描けそう?」
俺は黙って流れていく自動車を眺めるが、当然そこに答えはない。答えはいつだって自分の中だ。
「分かりません」
ゆっくりと首を振った。
「そっか……」
「すみません」
散々背中を押してもらって、いや、手を引いてもらっておいて未だ俺はその答えを出せていない。歩き出せていない。そんな自分が不甲斐なく、何とかしなくてはと思うものの、では実際何か行動できるかと言ったらそれは難しい。
未だ空は深い闇に覆われている。どこに向かえばいいか分からず、俺は一歩も動けていない。
いったいどれ程の時間が経った?
何度同じことを語った?
何も進歩していないじゃないか。
俺はどこまで———
「大丈夫!」
そこで前を向いたまま彼女が声を上げ、俺はビクリと身体を震わせた。
丁度そこで信号が青になり、東雲さんが左右を確認すると自ら車輪を回しひとり走り出したため、急いで手を貸そうとする。が、
「そこにいて!」
彼女の声に俺は伸ばしかけた手を止め、足も止めた。
東雲さんは自身の手で車輪を回し、ひとりで横断歩道を渡っていく。そして渡りきるとこちらに車椅子ごと向き直った。
「私だってひとりで歩ける! だから……空くんだってきっと大丈夫!」
自動車の音にも負けない大声で言う彼女の姿。
遠目だが確かに浮かべた笑みに鼻の奥がツンとなり、身体に微かに震えが走った。
信号が再び点滅を始め、俺は横断歩道を走って渡る。渡りきると目の前の彼女が俺を見上げて「ふふっ」と笑った。
「きっと大丈夫なんだよ」
彼女はいつも俺を信じてくれる。こんな俺なんかを、だ。
何を根拠に……などと思うところもあるが、俺にはそれを口にすることはできない。人は人を無条件に信じることが、信じたいと思うことがある。俺はそれを知っている。他でもない俺が彼女のことを信じているのだから。
そこからはお互い黙って歩いた。
夜空には微かな星の瞬き。周囲には強い街の輝き。様々な光に照らされ見守られながら俺たち二人は歩いた。
やがて道の先に駅の明かりが見えてくる。
遊歩道の脇に立ち並ぶ街路樹が、電柱から電柱へと伸びる電線が、闇をはらい道を照らし出す街灯が俺達二人の道を示し、先を急かしてくるけれど、その中を俺達はいつもよりゆっくり、ゆっくり歩いた。
お互いがここにいることを感じるように。




