踏み出すか、引き返すか
東雲さんの傷は二週間程で治るらしい。ただ、傷の治療とその他もろもろの検査のため暫く学校は休むことになり、復帰後も部活動は少しの間休むそうだ。
彼女の自宅を訪問した日から数日経ったが、未だにあの日のことが繰り返し思い浮かぶ。特に彼女の父親の言葉は俺に重くのしかかった。
分かっているつもりだった。彼女が障がい者だということは。
けれど前向きで、将来に大きな展望を持つ彼女を見ていて、俺はそのことを忘れていた。
だから油断した。
結果がこれだ。
彼女に辛い思いをさせ、ご両親を心配させ悲しませた。
ご両親はあくまで本人の責任だと言っていたし、彼女自身も自らの責任としていたが、それに甘えるのは違う。
周りには周りなりの責任があるのだ。近く深く関わるのなら尚更それは大きくなる。それをまっとうできなかったのだからやはり俺の責任だ。
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俺は彼女に言った。その気持ちに嘘はない。今だってそうだ。
けれど、本当にできるのか? 俺に。
自分自身のこともままならないのに。
「空先生!」
ハッと我に返ると美術部の部員が覗き込んでいた。
「ああ……すみません。ここの色が———」
謝り改めて絵の指導をしていく。
ここのところ仕事に集中できていない。無意識に考え込んでしまうことが増えた。理由は分かっている。それだけ俺にとって大事なことであることも分かっている。
ただ、それはここの生徒には関係ない。
今の俺は美術部の講師だ。そうである限り仕事が疎かであってはならない。
俺は気合を入れ直すと生徒一人一人の指導にあたった。
その際ふと一枚の絵が目に留まる。イーゼルに置かれた描きかけのデッサン。東雲さんのものだ。
今はまだ残してあるが、やがてモチーフを下げれば片付けることになるだろう。
未完で終わってしまう絵など今更珍しくないはずなのに、それを無性に寂しく感じた。
部活が終わりひとり片づけをしていると、美術準備室から在原先生が出てきた。腕に抱えていた大きな段ボール箱を床に下ろすと大きく息をつく。
「片付けですか?」
「んー、まあね」
美術室の一角には準備室にあった備品やモチーフ等が所狭しと積まれている。
「思い立ったときにやらないといつまでもやらないからねぇ」
「それ何度も言っていませんか?」
昨年の夏頃に始めた片づけは未だに終わっていない。少し整理して滞り、結局年を跨いでしまった。ずっと放置したままであったが、ここ最近になってまた急に片づけを始めたようだ。
「手厳しいねぇ」
先生は気を害した様でもなく「うえっへへ」と笑った。
それから二人ともそれぞれ黙って作業していたが、やがて俺は手を止めた。
「先生」
「んー?」
「僕、このままここにいていいんですかね?」
先生は一瞬手を止めたがすぐに作業に戻る。
「別に東雲さんも親御さんも君のことは責めてないと思うよ? 実際そう言われたんでしょ?」
「そんなの分からないじゃないですか」
言葉と本心が必ずしも同じでないのはこの世の常識だ。東雲さんはともかく両親は俺に対して思うところがない訳がないのだ。
「まあ、確かに? 分からないねぇ」
何だよ。同意すんなよ。
自分で言い出したことではあるが。その明確さのない態度に僅かに落胆する。そして先生が自分の欲しい言葉をくれることを僅かでも期待している俺自身にも。
「でも、分からないなら信じてやるべきことをやるしかないんじゃない?」
「分からないからこそ最悪の場合を考えて判断すべきなんじゃないですか?」
他人の心を自分にとって都合よくは考えられない。俺はそんなに前向きにはなれない。
そんな俺に先生はどこか呆れたように溜め息をつく。
「君はそういうとこ昔から変わらないねぇ」
「うえっへへ」と笑いながら先生は段ボール箱の中の資料をまとめ始めた。
「……どういう意味ですか?」
机でトントンと資料を揃えると先生はこちらへと振り向く。
「踏み出すのではなく、そうやって引くところだよ」
そしてニヤリと笑った。
その言葉と笑みに少し鼓動が速まる。
「何かの判断を迫られたとき、君はリスクを恐れて挑戦しないよね。全てとは言わないけど、その方が圧倒的に多い」
「それは……そうでしょう」
リスクなどできれば負いたくない。そのリスクが小さいならまだいい。けれどそれが大きければ大きい程それによる痛みは大きなものとなる。取り返しのつかないことだってきっとある。目先の利益に目が眩んでリスクを冒すなんて愚かだ。
「まぁ間違っているとは言わないよ? それが身を守ることにだってなるからね。それによって角が立たず、危険もなく、平穏無事に過ごせるなら良いことかもね」
「そうですよ。だからリスクなんて取るべきじゃ———」
「けど、それだけだね」
先生の言葉が俺の言葉を掻き消す。
「前に進むことはなく、何も変わらず、本当に欲しいものは手に入らず……。悪いことはないが、良いこともない。『何も事が無い』それは本当に良いことなのかねぇ」
どこか試すような目でこちらを見つめる先生。
「覚えておきな。現状維持に努めても現状維持はできないんだよ?」
窓から入り込んだ強い風がカーテンを大きくはためかせ、机の上の資料を舞い上がらせた。白い紙が美術室にバラバラと音を立てて散っていく。
「そして、それによって本当に大切なものを失ってしまうこともあるんだ」
その顔にどこか寂しそうな色を感じるのは、折角まとめた資料が散らかったからなのか、はたまた別の何かによるものなのか俺には分からない。けれどそれは俺の胸をざわつかせた。
「人生の先輩からのお節介だよ」
先生は散らかった資料を手早く拾い集めると、後ろ手を振って準備室へと消えていった。
およそ二週間が経ち、東雲さんが再び学校に来るようになった。傷も治ったようで元気な姿を見て安心した。
ただ、事前に聞いていた通り部活動は暫く休むらしい。そのため彼女の私物の一部を持ち帰るということで、復帰初日に部のみんなで手分けして彼女の画材や絵を彼女の母親が運転する自動車に運び込んだ。
「また一週間後ね!」
そう笑顔で手を振り彼女は帰っていった。
彼女がいない間も美術部は通常通り活動していく。
時折私語を交えながら制作する部員達。ボヤキながらも片づけをする先生。雑用をこなしながら指導する俺。いつもの部活風景。見慣れた光景。
ただ、東雲さんだけがいない。
それだけのことで心にポッカリと穴が空いてしまった様に錯覚する。自分は寂しいのだと自覚し戸惑うものの、しかし納得するしかなかった。ここで何も感じない程彼女との時間は薄くはない。
けれどその一方でそんな彼女がいない光景に徐々に慣れていくのを感じ、それがまた別の寂しさを感じさせた。
そんな喪失感を抱きながら俺は東雲さんのいない日常を過ごし、そして長い長い一週間が経った。




