負けたくないんだ
空が青い。
冬の空は空気が澄んでおり、夏場に見るものよりも更に高く、広く感じる。細切れの雲は空気を纏っていて透明感そして存在感があり、そこには確かに空間があるのだという当たり前のことを改めて感じた。
こうして実物の空を眺めていると、透明感や壮大さにおいて自分の絵はまだまだ遠く及ばないのを実感する。
やはり現実には敵わない。
それでも挑む必要はあるのか?
諦めない理由はあるのか?
空に月が浮かぶ。白い、まるで化石のような無感情な月。
まるで俺のようだ。気力を抜かれ、空っぽで、石化したような俺と。
嘲笑い、同時に嘲笑われているようで自嘲気味な笑みが漏れる。
「空青いね」
「青いですね」
「日差しが暖かいね」
「暖かいですね」
「風が気持ちいいね」
「気持ちいいですね」
「ふふ」
「ん?」
不意に微笑んだ彼女に振り向くと目が合った。
彼女は何が嬉しいのか微笑むばかりで何も言うことはなく、やがてその目を空へと向けた。釣られて俺も再度空を見る。
高く広く澄んだ青い空。
冬の空気の中、僅かにこの身を包み込んでくるような日差しの暖かさと、肌を撫で髪を揺らす風の心地良さ。それは確かなものとして俺の感情を撫でていく。
「何だかさ、こうして空を見てるとあまりに大き過ぎて現実感がなくなるんだ。おかしいよね? 現実なのに。何だかさ、敵わないなぁ……って思うんだ」
自分と同じことを言い出す彼女に心臓が大きく跳ねる。
それは挑み続ける彼女には似つかわしくない言葉に感じた。けれどその一方で少しだけ安堵している自分もいる。彼女も自分と同じなのだと。
「でもさ……」
彼女の目は空へと真っ直ぐに向けられている。その目には何が映っているのだろう?
「負けたくないんだ」
膝の上の手をぎゅっと握る。
「負けてほしくないんだ」
俺は目を見開いた。
それはどういう意味なのだろう? 言葉通りなのだろうか、それとも……
彼女に何と言ったらいいか言葉を探していると、やがて彼女の方が先に「私ね」と口を開いた。
「描きたい絵があるんだ」
目を空に向けたまま言葉を紡ぐ。
「もし完成したら……空くん、見てくれる?」
そしてこちらへと振り向く彼女。
吸い込まれそうな大きな瞳。この空に負けない程に透明な瞳。
「ええ、楽しみにしています」
そう答えると、東雲さんは微笑み再び空を見上げた。
不意に彼女のミディアムの黒髪が風になびいた。ふわぁと微かに良い香りがする。
青い空の中、陽の光に照らされ輝く艶やかな黒髪を手で押さえ目を伏せる彼女、その横顔。
「綺麗だ……」
呟いたのは無意識だった。そして次の瞬間その言葉にハッとする。
俺は何を言った?
「……何が?」
こちらに振り向きキョトンと首を傾げる東雲さん。
「そこに植えてある花のことです」
俺は咄嗟に誤魔化し指を差した。陽の光を浴び風に揺れる花は幸いにも本当に綺麗だった。
「本当だ。キレイだね!」
そして微笑む東雲さんが花に向けるどこか慈しむような表情、その眼差しはその花以上に綺麗だった。
その後、周りで遊ぶ子供達のはしゃぎ声を聞きながら、西へと傾き始めた午後の日差しを浴びながら、春へと向かっていくのを感じさせる風に撫でられながら東雲さんと過ごした。
先程の映画のこと、学校の勉強の遅れを取り戻すのが大変であること、父親が過保護で少し鬱陶しいこと等様々な話をした。
取り分け印象的だったのが映画の話だ。
感想の言い合いなんて昔、家族と映画を観たときを除けば初めてのことだったが、意外と悪くないかもしれないと、ほんの少しだけ思った。
そうして話をしながら二人で過ごし、ふと気が付くと随分と時間が経っていたため、そろそろ次へ行くことにした。
「たこ焼き残っていますよ?」
東雲さんの舟に残っているたこ焼きを指差す。
「あ、本当だ」
彼女はその残りの一個にようじを刺し、そのまま食べると思いきや、こちらへと差し出した。
「あーん」
「いや……僕はいいです」
「あーーん」
「だから、遠慮します……」
「あーーーん!」
まるで引かず、ずいっとたこ焼きを差し出す彼女に折れ、少し躊躇いながらもそれを頬張った。幸い殆ど冷めていたため、先程の様に苦しむことはなかった。そして冷めていてもたこ焼きは美味しい。
「美味しい?」
「……美味しいですよ」
「ふふっ……共有できたね!」
どこか得意気な彼女に、俺は目を逸らした。




