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その背中はずっと先に


「……何笑っているんです?」

「いや、そんなに怒るなんて珍しいなぁって思ってさ」

「……僕だって怒ることくらいあります」

「あはは、そりゃそうなんだけどね。それでもやっぱり珍しいし、それに……嬉しい」

「嬉しい?」


 意味が分からず益々顔が歪む。


「うん。嬉しい。だってそれだけ私のこと信用してくれてるんだなぁって思うから」

「それはそうですよ。君のことですからね」

「ええ~? 本当の私は空くんが思っているような人間じゃないかもしれないよ? それこそあの子達が言っていたような人間かもしれないよ?」


 振り返り下から見上げてくる東雲さん。こちらを試すような表情だ。


「確かにそれは有り得ますね」

「でしょ? それなのに私を信じてくれるの?」

「ええ、信じます」


 迷わず答えた俺に東雲さんは驚いたように目を見開いた。


「確かに君のことをほとんど知りません。人の心を読むこともできませんし、君にもし本性というものがあったとしてもそれは僕には分からないでしょうね」

「……じゃあ、何で信じてくれるの?」


 俺は暫く黙って彼女の車椅子を押した。下から彼女の視線を感じる。そして前を向いたまま答えた。


「君なら信じてみてもいい……そう、感じただけです」


 彼女は何も言わず、前へと向き直った。

 東雲さんは黙って車椅子の背もたれに身体を預け、俺は黙って彼女が座る車椅子を押す。

 ぼんやりと光る街灯に照らされる。進むにつれてその光が徐々に弱まっていき、やがて次の街灯の光が強まっていく中で


「……そっか」


 彼女が小さく呟いた。

 それきり俺たち二人は黙ってただ歩いた。


 半年前に比べて日は短くなり、太陽はもうすっかりと街の向こうへと沈みその残り香も感じられない。

 日の光から引き継ぐかのように夜空にはポツリポツリと星の光が瞬き始め、街灯やコンビニの人工の過剰な光が闇に沈む街を浮かび上がらせる。俺達を追い越す自動車のテールランプがまるで流れ星の様に流れては消えていった。

 気温はぐっと下がり、以前まで半袖シャツだったのが今や長袖に厚手のコートを羽織るようになっている。

 身の回りの変化に否応なく時の経過を感じさせられる。

 そして変わったのは俺達二人も。

 下校する生徒達が俺達を避け次々と追い越して行く。彼女の友人らしき生徒が手を振って去って行くのに彼女も手を振って応えた。

 俺達の歩みは随分とゆっくりになった。

 バラバラだった歩幅は今や自然と同じだ。

 ただそれでも彼女が前を行き、俺がその後ろに続くのは変わらない。境遇やその在り方は大きく変わってしまったが、それでも自分達の立ち位置は変わらない。

 共にいることは変わらない。

 行く先、横断歩道の信号が点滅し始めた。彼女は以前の様に駆け出すことはなく俺の歩幅でそれを眺めている。やがて信号が赤になり俺達は立ち止まった。止まっていた自動車が走り出し、俺は一歩分彼女の車椅子を後ろに引いた。

 目の前を右へ左へと自動車が横切っていくのを眺めていると


「私……負けないよ」


 東雲さんが小さく呟いた。


「あんな声になんて負けない。陰口なんて前からあったんだし今更だよ。そのレパートリーが増えただけ。私は私としてしか生きていけないもん。陰口を気にして無理に自分を変えることなんてない。本当に悪いところは勿論直さないとだけど、そうでないならこれまで通りでいい。自分でできることはちゃんと自分でやって、どうしても無理なところは……まぁ、ちょっと迷惑かけちゃうかもだけど……。それでもちゃんとみんなに感謝しながら私の人生を生きていく!」


 力強く語る彼女は堂々としていて、それはまるで宣言のようだ。


「それに私まだまだやりたいことたくさんあるもん。今いる友達ともっと一緒に過ごしたいし、今の学校で勉強して、受験もして、それでちゃんと卒業したい。それに……空くんともっと絵が描きたい!」


 心臓が大きく脈打つ。身体が微かに震えた。


「たとえこんな身体でも、私は……何も諦めない!」


 強いな……本当に。


 理不尽な目に合い、心が折れてしまってもおかしくない境遇でありながらも、彼女は何も諦めない。時に俯くことはあってもしっかりと前を見て、ゆっくりでも確実に先へと進んで行こうとしている。

 改めて感じる。彼女は強い。俺なんかよりずっと。

 同じ歩幅で歩いている?

 いや、違うだろ。

 自分の人生において立ち止まったままの俺と、歩みを止めない彼女とではまるで違う。

 今に始まったことではなく、振り返ってみれば前からそうであった。前を行く彼女は俺のずっと先を歩いていた。

 時折振り返っては手を振り手招きし俺のことを呼んでいた。時には俺の手を取り引っ張りさえしていた。そして今その差はどんどんひらいていっている。ずっと先で立ち止まり俺が来るのを待っている。

 俺が彼女に合わせているんじゃない。彼女が俺に合わせている。


 私が連れていくから


 まるであの言葉を守るように。


 何やっているんだ……俺。


 自分の不甲斐なさに俯き歯噛みする。

 それ程差がある訳でなくとも年下の女の子に頼りきりではないか。

 車椅子のグリップを強く握り、けれどすぐにふぅ……と細く長く息を吐いた。それに伴い手の力は緩んでいく。


「なら……」


 俺は顔を上げた。


「応援しますよ」


 彼女がまた振り向いた気配を感じる。けれど俺は真っ直ぐ前を見据えた。

 負の感情を向けるのは不甲斐ない自分自身にだけでいい。彼女に向けるのは労わりと敬意、そして彼女の未来に対する期待、それだけでいい。


「うん! 期待しててね!」


 彼女がにっと歯を覗かせて笑った。

 信号が青になる。

 未だ自分が歩き出せているとは思わない。けれどいつまでもこのままではいられないのは分かっている。

 彼女に置いていかれ見失ってしまったら応援してやることもできないのだから。

 俺は左右の安全を確認すると、グリップをしっかりと握り直した。そして車椅子を押しながら歩き出す。

 横断歩道の先で笑顔の東雲さんが手を振っている気がした。




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