悪意と雑音
「ここの形の狂い、分かりますか?」
モチーフと見比べながら彼女の絵を丸く指で示す。
「あ……うん、分かるよ」
「まずはここの修正をしましょう。大きな形や明暗、パースをよく見てください」
「うん……分かってるんだけどね」
「この画面サイズだと至近距離では気付かないものです。だからこそ離れて……」
そこでハッとする。今の彼女にそれはなかなか難しいということに。
「……すみません。それは君も十分に分かっていることですよね」
絵を彼女のイーゼルに戻す。
「ううん、私の問題だし。それに怠ったのは確かだよ」
彼女は自嘲気味に笑った。
車椅子で頻繁に離れて画面を確認することは難しい。不可能ではないもののなかなか手間だ。ただ、それでもそれを避けることはできない。
「いつでもどこでも手助けがあるとは限りません。今後仮に予備校に通ったとして、受験本番を迎えたとして、そこでどこまで配慮されるかは分からないです。自分で何とかしなければならない場面は必ずあるでしょう。それに慣れておくのは大事です。ただ、その一方で頼れるものは頼るのも大事です。ここには僕がいます。君の手伝いはいくらでもしますよ。だから遠慮せずに頼ってください」
「空くん……」
「応援するって言いましたからね」
「……ありがとう」
彼女の礼に俺は頷いた。
普段の学校生活はクラスメイトが手助けしているらしい。
例えばこの学校には昇降機等はないため階段は長身のバレー部女子が彼女をおぶり、他の者が車椅子を運んでいる。そして放課後はその役目を俺が担っている。
初め、男である俺がおぶるのはどうかと反対したのだが、東雲さんたっての希望とのことで押し切られた。
「おっぱい当たって嬉しい?」
「バカなこと言わないでください」
「あははは!」
部活動が終わり、東雲さんをおぶって階段を下りる。
大袈裟ではなくまさに彼女の命を預かっているため細心の注意払いながら、そしてその他のことを極力意識しないようにしながら階段を下りると、あらかじめ降ろしておいた車椅子に彼女を座らせた。
そして彼女の車椅子を押して来客用玄関に向かおうとしたところで
「アイツ調子乗ってない?」
不意にそんな女子の声が聞こえた。
「そう! それ思った」
複数の女子の声。どうやら近くのトイレかららしい。
「何でも周りにやらせてさ。 女王様きどりかって感じ」
「周りの迷惑も考えろってね。車椅子も邪魔だし」
「自分のこともできないなら学校来るなよ」
思わず舌打ちする。そのままその声の方へ向かおうとしたところで不意にコートが引っ張られた。見ると東雲さんが俺のコートの袖を掴んでおり、ふるふると首を振った。
「……行こ?」
彼女が笑みを浮かべる。どこか寂しそうな笑みだ。
暴言を見逃すことを不服に思いながらも、彼女の気持ちを尊重し再び車椅子を押そうとして
「つーかさ、きっと罰が当たったんだよ」
そこで再び足を止めた。
「ちょっと顔が良くて胸がデカイからってチヤホヤされて調子乗ってさ」
「なんか明るく愛想良くしてるけど、内心では周りのこと見下してるでしょアレ。透けて見えんだよ」
「そうそう。それに男子に色目つかってるじゃん」
「それそれ、それで本気になったらバッサリでしょ。きっと楽しんでるんだよ。ホント性格悪っ!」
「そういうやつホント無理」
「だからざまぁって感じ」
「ぷっ! 確かに」
「でも、まあ? あんな身体なんだし? 周りに面倒見てもらうくらいは許してあげてもいいんじゃない? それが慈悲ってもんでしょ」
「じゃあアンタ面倒見てやんなよ」
「えぇ? 私が? 絶対イヤ~」
響く下品な笑い声。
奥歯がギリリィと鳴り、車椅子のグリップを痛いくらいに握りしめる。
俺は再度振り返ろうとし、けれどそこで再び彼女にコートを掴まれた。やはり彼女はふるふると首を振る。
「放してください。僕は———」
「ダメ!」
彼女の言葉に足が止まった。
「ダメ……」
なおも首を振る彼女。その表情は必死で、顔にはうっすらと汗も浮かんでいる。踏ん張りのきかない身体で俺を止めようとコートを引っ張る。
そんな彼女の姿に俺は顔を歪めた。
奥歯を噛みしめ、目を瞑ると上を扇ぎ二度、三度と深呼吸する。ゆっくりと息を吐き出すと目を開いた。
「……帰りましょう」
そう微笑んだ俺に彼女は安堵の表情を浮かべた。
車椅子のグリップを握り直すと足早にその場を去る。
廊下には未だ下品な笑い声が響いていた。
人間とは様々だ。
皆それぞれの価値観を持っており、一つとして同じものはない。
それにより仲良くできる者がいる一方、どうしたって受け入れられない者はいる。
そんな人間達が一つの社会の中で生きていこうというのだからそこかしこで悪感情が生まれるのは当然だ。
『みんな仲良く』などといった幻想は早々に捨て、そういうものとして割り切り上手く生きていくしかない。
たとえどれだけ胸糞悪かろうと。
「空くん、顔こわい」
東雲さんがこちらに振り向いた。
薄暗い帰路を彼女が乗った車椅子を押しながら歩いていく。
「そんなに気にしないでよ。私も気にしないから」
「そういう訳にもいかないですよ」
車椅子の進む先を見据えながら俺は顔を顰めた。先程の女子たちの声が頭から離れない。何度も反響する下品な笑い声。
「あの子達が私のことを良く思っていないのは前から知っていたし、ああいうのも初めてじゃないから私は気にしないよ?」
そう笑おうとする彼女だが、そのどこか空回りした明るさが寧ろ彼女の今の心情を表しているようで、俺は余計に顔を顰めた。
「だからって許していいことではないでしょう? あんなのただの嫉妬や僻みではないですか」
人間だれしも嫉妬する。たとえどんな善人であってもだ。こんな俺でも例外ではない。
嫉妬するだけならそれは必ずしも悪とは言えないだろう。それを力にし努力したことで大きな結果を残す人間もいることから、時に人生において必要な感情になることもあるだろう。決して必要悪などと認めるつもりはないが、消せない感情に意味を求めるならそういう見方もできる。
内心に留めているなら少なくとも他人にとって害にはならないのだから。
けれどそれを表に出し、人に向けるのであれば話は別だ。
「ましてや事実無根の言い掛かりじゃないですか」
それは最早侮辱だ。ただただ人を傷付ける行為に他ならない。
「事実は関係ないんだよ。私がどういうつもりかじゃなくて、相手がどう感じたか……どう感じたいかなんだよ」
それは真理だ。どれだけ正しさや高い志、善意があってもそれを受け取る側がそう感じ取れなければ意味がない。
そしていかようにも捻じ曲げられる。
「私は……自分で言うのもなんだけど、まぁ、結構モテるんだよ」
「まぁ、そうでしょうね」
「そういうのを気に入らないって子はやっぱりいてね。陰で色々言われているのは分かってた」
彼女は俺から見ても容姿が良く、性格も明るく前向きだ。分かりやすい魅力があり、それ故に周りから人気なのも頷ける。その一方で嫉妬や僻みの対象になるのも分かる。人気者はその人気の裏で悪感情に晒されるものだ。
「それを気にしてって訳じゃないけど、これでも上手くやろうとしてたんだよ。必要以上に目立たないようにしたり、あまり男子に思わせ振りな態度を取らないように気を付けたりね」
「男子の告白を断り続けているのもそういうことですか?」
「それはただその男子に興味がなかっただけ。付き合いたいと思えない相手とは付き合えないもん」
「まぁ賢明ですね」
そこで彼女がこちらに振り返りジッと俺のことを見つめてきた。
「ん?」と目で問うと「何でもなーい」と前を向いてしまった。そして話に戻る。
「でも、そういうのも私のことを良く思っていない子達からしたら気に入らないみたい。さっき話していたみたいにね。一度嫌いになったらきっともう事柄は関係ないんだよ。『私』なんだ。『何が』ではなく『私』の全てが嫌なんだと思う」
悪印象を与えるのは一瞬だ。信用というものはすぐに地に落ちる。そして一度目を付けられたら最後、どう振舞おうがどれだけ正しかろうが、その者達の都合で捻じ曲げられ嫌悪の対象となる。嫌悪は新たな嫌悪を生み、次第に増幅していく。
終わることはない。人の負の感情に際限はない。
それを人間らしいと言えばその通りだが、許せるものにも限度がある。
東雲さんの境遇は笑い話ではない。労わりはあっても嘲りがあってはならない。それを利用して自らを肯定しようというのなら尚更だ。
罰が当たった?
慈悲?
何様だ。
己の勝手な感情で事実を捻じ曲げ、あたかもみんなの総意であるかのように嘯き、徒党を組んで陰でコソコソ侮辱するあの連中は醜い。
それで自分達の格が上がる訳でもないのに。
「たとえそれが人間で、そうして社会が回っているのだとしても僕はそれを許すことはできません」
顔を歪め奥歯を噛みしめる。胸の中に溜まっていくものをどこに吐き出せばいいか分からず、ただただ虚空を睨みつけていた。
すると突然
「ふふっ……」
東雲さんが小さく笑った。




