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東雲玲愛と美術部の日常 2


 彼女の気持ちが分からないでもない。折角描いたところを壊したくはないし、やはり面倒だ。自分がその立場でも同様に嘆くかもしれない。


「巨匠の絵とかでさ、形とか狂っている絵っていっぱいあるじゃない? あんな感じでこれも許されたりしないの?」


 彼女の言葉に幾つかの巨匠とその作品が頭に浮かんだ。


「ああ言った作品は自然な空間を表現することに重きを置いていないんですよ」


 色を重視していたり、新たな視点に挑戦していたり、次元を超えていたり……美術作品も様々だ。

そういう作品は必ずしも自然な空間である必要はない。


「けれど東雲さんの作品は違いますよね?」


 彼女の作品は自然な空間を表現しようとしたものだ。そこに何か別の思惑がある様には思えない。


「形やパースを狂わす何らかの意図があるならそれでもいいですけど……あるんですか?」

「えっと……ないかな?」

「ですよね」


 分かっていたとばかりに頷く。


「自然な空間の表現だったのだからその一枚に関しては終始そこは守るべきですよ。一度始めたのならブレるべきではない」


 そこが曖昧だと絵のバランスは崩れる。作品の世界を壊してしまう。


「この表現を選んだのは君です。この一枚は最後まで責任を持ってください」

「はぁい」


 彼女は素直に頷くと、クロッキー帳を拾い上げ何やら書き込んでいく。「表現を統一……最後まで責任を持つ」という呟きが聞こえたことから今言ったことをメモしているらしい。

 こういうところは好感がもてる。


「さっきも言いましたが、モチーフ同士の強弱による遠近感は出てきています。瓶のパースと形もしっかり合わせられれば更に空間が出ますよ」


 最後に少しのフォローを入れて中間講評の締めとした。


「ありがとうございました」


 聞きながらメモを取り終えた彼女が礼を言う。

 他の部員の様子を見ようとその場を離れようとしたところで「あ、空くん、ちょっと待って!」と東雲さんに呼び止められた。彼女は鞄を漁るとこちらに振り向く。


「手、出して?」


 言われるままに手を出すと、その上に一粒のチョコレートが置かれた。


「お疲れの頭に糖分補給」


 彼女がにっと笑う。


「はぁ……ありがとうございます」


 俺はそれを摘まみ目の前に掲げる。


「あれ? 空くんチョコレート嫌い?」

「ん……いや、そういう訳ではありませんよ」

「あははは、空くん分かりやすい!」


 彼女は気を悪くした訳でもなさそうにケラケラと笑った。


「そんな別に嘘つかなくてもいいんだよ?」

「嘘という訳では……」

「いいからいいから」

「そうですか」


 俺はふぅ……と一つ息をつく。


「じゃあ嫌いです」

「いきなり正直すぎない⁉ しかもじゃあって何⁉」

「嘘つかなくてもいいと言うので」

「それは、そうなんだけど」


 むぅ……と頬を膨らませる彼女を他所に俺はそのチョコレートを口に入れた。

「あっ!」という彼女の声を聞きながらゆっくり咀嚼する。口の中に独特の纏わりつくような甘さがひろがり俺は僅かに顔を歪めた。

 やはり甘いものは苦手だ。


「嫌いならホントに食べなくてもいいのに」

「折角貰ったものなので」

「そんな顔歪めながら言われても嬉しくないよ……はい、飲み物」


 彼女が差し出した缶を受け取り、口をつけようとしたところで思いとどまる。そして改めて缶を見た。

 ホットココア。


「この状況でココア差し出す人がいますか⁉」


 甘いものを甘いもので流す意味が分からない。


「でも美味しいんだよ?」

「そういうこと言ってるんじゃないんですよ」

「ほら、ググーっと!」

「飲みませんよ……しかもこれ飲みかけじゃないですか」


 缶のプルタブは開いており、飲み口には明らかに一度飲んだあとがある。

 すると彼女はスッと俺に近づき、顔を寄せると耳元で


「関節キスだね」


 そう囁いた。そしてすぐに一歩下がると口元に手をあてイタズラな笑みを浮かべる。

 俺はそれを苦々しく眺めながら缶を彼女の椅子へと置いた。


「あーーん、飲んでよぉ!」


 彼女が冗談めかして泣きついてくるのを溜息まじりに軽くあしらう。

 飲める訳がない。いろんな意味で。


「こらー東雲ー、先生とイチャつくなー」


 そこで同様に静物を描いていた女子から声が上がった。彼女はこの部の部長だ。


「アンタ空先生にゾッコンなのはいいけど、部活中は真面目にやりなー」

「そんなゾッコンなんてぇ……」


 東雲さんは照れたように頬に手をあて身体をくねくねと捩る。

 そんな彼女達の様子に他の部員達もクスクスと笑い声を漏らした。そこに含まれるものは揶揄いだ。

 険悪さは全くなく、和やかな空気が漂う。部員同士の仲が良い証拠だろう。結構なことだ。

 唯一問題なのはその揶揄いの対象に俺も入っていることだ。彼女たちが東雲さんと俺を生温かい目で見てくる。

 不本意だ。


「私、空くんにゾッコンなんだって。空くんはどうなのかな?」


 東雲さんが上目遣いでこちらを見る。その表情は何かを期待するようだ。


「……口ではなくて手を動かしてください」

「やーん! 空くんのいけずー」

「空くんではなく空先生で」

「はあーい、空せーんせ?」


 やはり上目遣いで笑みを向けてくる彼女に再度溜息が漏れた。

 そんな彼女だが、椅子に座り直すと目を瞑りひとつ深呼吸する。そして目を開くとモチーフと自身の絵を見比べ、やがて画面に手を入れ始めた。言われた通りパースと形の狂いを修正している。

 その様子は直前まで騒いでいた人物とは別人のようで、その横顔、流れるミディアムの黒髪の間に覗く目は真剣な光を湛えている。


 やはり真面目ですね……。


 普段、明るく、皆のムードメーカーのような彼女であるが、ひとたびスイッチが入るととんでもない集中力を見せる。そこはこの部の中でも一番だろう。

 気持ちの切り替えが非常に上手く、集中するときと気を抜くときのメリハリがしっかりしている。その変化の極端さに若干戸惑うこともあるが、望ましいことだ。

 そして羨ましくもある。自分はあのように柔軟ではない。もっと張りつめている。張りつめていた。

 俺はしばし彼女を眺めていたが、やがて指導をするべく他の部員の下へ向かった。

 口の中には未だに甘みが残っていた。




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