諦めたくない 2
治療と軽いリハビリを続け、やがて安定してくると本格的なリハビリが始まった。
完治の期待できない脊髄損傷においてリハビリをする意味は、残っている身体の機能を最大限に使い、日常生活をその人に合った形でより効率的に過ごせるようにすることにある。
両脚を動かせない東雲さんの場合、上半身の力で自分の身体を安定させ、持ち上げられるようにならなければならない。
そのためストレッチや筋トレ初め、足を伸ばして座る、寝返る、起き上がる、手でおしりを浮かせるといった動作の練習が主なリハビリの内容となる。
普段行う何気ない動作だが、下半身の力に頼れないだけで途端に困難になるらしい。それをスムーズに行えるようにならなければ日常生活を過ごすことはできない。
自分にできることを見つめ、伸ばし、日々を生きるために訓練していくのだ。
ある日リハビリ室を訪れると、東雲さんが丁度リハビリをしていた。
リハビリ台の上、足を伸ばした姿勢で腕を使って身体を移動させ、台の端に足を下ろして座る。その一連の動作を真剣な表情で行う彼女の姿が印象的で、俺は暫し黙ってそれを見つめていた。
「順調らしいですね」
休憩時間にリハビリの進捗について話すと彼女は「そうみたいだね」と頷き水を飲んだ。
「先生も頑張ってるって褒めてくれたんだ」
そして嬉しそうに笑みを浮かべた。その笑みは純粋に明るいものだ。彼女の心の状態が気になっていただけにそれは少しだけ俺を安心させた。
「焦らずゆっくりやってください」
無理をして逆に身体を壊してはいけない。そう思っての言葉だったのだが
「ううん。急ぐよ。私」
その彼女の言葉に俺は口を噤んだ。そこに何か強い意志を感じたのだ。
「早くリハビリして、日常生活を送れるようになって、学校に復帰したい」
ペットボトルを両手で弄びながらどこか遠くを見据える。
「また皆と一緒に勉強して、絵を描いて、それで……ちゃんと受験したい」
俺は驚き目を見開いた。
「今はまだ受験のことは……」
考えるべきではない。そう言いかけた言葉は
「受けるよ! 私は!」
彼女の意志の籠った言葉によって掻き消された。
「約束したんだもん!」
脳裏に浮かぶのはあの日の光景。夜空に咲く光の花とその下で交わした約束。
こんな状態になってまで無理して守らなくていい。ましてや俺なんかのために。そう言おうとするも、しかし目の前の彼女の強い眼差しに再度言葉を飲み込んだ。
「空くん、見てて」
彼女はそう言ってスタッフさんに目配せする。スタッフさんは頷くと車椅子をリハビリ台の横に付けブレーキを掛けた。
すると彼女はリハビリ台の手すりと車椅子の肘置きをそれぞれ掴むとひとつ深呼吸する。そして意を決してグッと前かがみにお尻を浮かせると、そのままスライドさせるように身体を移動させ車椅子に腰を下ろした。
「おお……」思わず感嘆の声が漏れる。間近で車椅子の移乗を見たのは初めてだ。
「上手いでしょ?」
東雲さんが得意げな顔で見上げてくる。
「ええ、上手いものです。すごいじゃないですか」
軽く拍手してしまった。素直に感心した。とても上手くスムーズだ。
俺の反応に彼女は「えへへ、えへへ」と、あのいつもの嬉しそうな笑みを浮かべた。
「こんなこと初めはできなかった。何人ものスタッフさんに抱えてもらってやっとだった。それから助けてもらいながら少しずつ練習して、苦しくて怖かったけど諦めずに練習して、だんだんひとりでもできるようになっていって、それで、今ではこの通り!」
車椅子に座ったまま両手を広げる東雲さん。その姿はとても誇らしげだ。
その言葉通り努力したのだ、彼女は。不安と恐怖の中苦しみながらもそれでも諦めずに。それは誇るべきことだ。
「私ね、嬉しいんだ」
彼女は自らの足を優しくさする。
「事故にあって、両脚が動かなくなって、何もできなくなっちゃって……起き上がることも、寝返りをうつことも、座ることだってひとりじゃできなくなった。このまま私はもう何もできないんじゃないかってそう思ってたんだ……でも」
伏せていた顔を上げるとこちらへと振り向いた。
「今じゃ色んなことがひとりでできる。勿論まだ満足にじゃないし、助けてもらわないといけないこともたくさんあるけど、それでもできるようになっていってる。できなかったことができるようになって、それが少しずつ増えていく」
彼女がはにかむ。心から漏れたような笑み。
「それが嬉しいんだ」
何故彼女は笑えるのだろう。
絶望したっておかしくない状況で、何故こんな風に笑うことができるのだろう。
「私はまだできる。できないことは確かにあるけど、それでもできることもまだまだたくさんある。だからそれができることなら諦めたくない!」
眩しい。彼女は眩しい。直視するのがはばかられる程に。
未だ未来を見据え歩みを止めない。諦めない彼女に尊敬と羨望を抱く。
そんな彼女に俺が言ってやれることはきっとあまりない。どんな言葉も陳腐なものに感じてしまうだろうから。だから俺に言えるのはこれだけだ。
「応援します。ただ、無理だけは絶対にしないでください」
東雲さんは強い眼差しで頷いた。
それから東雲さんは懸命にリハビリを続けた。
月日は流れ、季節は移り変わり、あっという間に年末に。そして年が明けて少しした頃、彼女は退院した。
それから自宅と外来でのリハビリを経て一月の末、彼女はついに復学した。
戻ってきた彼女のことを多くの者が温かく迎え入れ、祝い、そして労わった。それは美術部も同様で、みんな彼女と抱き合い、涙を流した。
その光景を眩しく思いながら眺めていると、不意に東雲さんと目が合う。やわらかく微笑む彼女にこちらも自然と口元が緩んだ。
東雲さんが事故にあった日からおよそ半年近くが経っていた。




