諦めたくない
窓の外、西の空は一面赤く染まっている。
連なるようにして浮かぶ雲や住宅、工場群は逆光によって皆シルエットになり、その鮮明な赤と無機質な陰影の光景に哀愁と不安を感じた。
まるで世界の終末のようだ。
そう感じるのはどこかで見た終末世界のイメージに似ていたからなのか、それとも今の俺の心情の表れなのか。
じきに日が完全に沈み今日も夜がやってくる。それに抗うように街にポツリポツリと明かりが灯り始めた。
工場群に、家々に、グラウンドに明かりが灯っていく。そしてそれはこの美術室にも。
そこでカランと乾いた音が微かにした。
振り向くと床に木炭が一本転がっており、その持ち主が手を伸ばしている。
俺はそれを拾い上げるとそのままその持ち主へと手渡した。
「ありがと」
受け取った彼女、東雲さんは礼を言うと苦笑いした。
「大きな画面で描くの久しぶりだから大変」
そう言う彼女の視線の先には木炭で描かれた静物デッサン。
「形は取れましたか?」
「うん。取れたよ」
「じゃあ離して見てみましょう」
彼女が画面から離れようとするのを手で制し、彼女の絵を持ち上げるとモチーフの組まれている台に立て掛けた。
「ありがと」
そう微笑む東雲さんは車椅子に乗っている。
あの日、東雲さんは事故にあった。
青信号の横断歩道を渡っていたところを信号無視の自動車に撥ねられた。
彼女の友人から連絡をもらい病院に駆けつけたとき、彼女は手術の真っ最中だった。
彼女のご両親、友人たちが揃っており、その重苦しい空気から大事であることを改めて理解した。
俺は彼女の両親に歩み寄り深く頭を下げた。当然の謝罪だ。俺と出掛けようとなんてしなければ彼女はこんなことにはならなかったかもしれないのだから。
けれど彼女の両親は俺を責めなかった。寧ろ感謝されてしまった。
「娘に良くしてくれてありがとうございます」
そうして微かに笑う彼女の母親に対し俺は呆然としてしまう。感謝なんてしてもらう資格は俺にはない。にもかかわらず俺なんかに気を遣わせてしまったことが申し訳なく、そして悔しかった。
誰もが何も言わず、時に啜り泣きながら永遠とも感じる時を、どこか現実味が持てず、けれど確かに現実なのだということに戸惑いながら、ひたすらに彼女が助かることを願い続けた。
彼女は一命をとりとめた。
後日面会が許可され、彼女の元を訪れる。
「空くん……」
ベッドに横になった痛々しい姿の彼女は俺に気付くと微かに笑う。そして
「ごめんね……待ち合わせ行けなくて」
そう俺に謝罪した。
胸に鋭い痛みを感じ、そして唖然とする。
何故、彼女が謝っているのだろう? 彼女は何も悪くないではないか。寧ろ謝るのは俺の方だろう? 何彼女に謝らせているのだ?
「すみません……本当にすみませんでした」
俺は両手で彼女の手を握りしめた。小さい手だ。彼女の手はこんなにも小さい。
その手が俺の手を握り返してくる。
弱々しくも確かに握り返してくるその手に彼女が今ここにいること、生きているのだということ、そして彼女を失ってしまった未来があったかもしれないということを漸く現実味をもって理解した。
安堵と恐怖に身体が震える。
そこできゅっと微かに握る強さが増したのに顔を上げると、彼女と目が合った。心配そうに俺のことを見つめてくる。
何でもないと微笑むと、彼女もやわらかく微笑んだ。
最悪の事態を免れたことで一時は安堵したものの、しかし何故か嫌な予感をずっと拭えずにいた。そして数日後、こういう時の嫌な予感というのは往々にして当たるものなのだということを知る。
「空くん…………私、歩けなくなっちゃった」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「どうしよ……」
困った様な表情を浮かべる東雲さんの声が随分と遠くに感じた。
事故の際、彼女は胸部脊髄を損傷し、両脚の運動、感覚機能を失ってしまっていた。
脊髄損傷は現状完治は不可能とされている。それはつまりこの先彼女は二度と自力で歩くことができないことを意味していた。
「冗談だろ?」そう思うも、彼女の表情がそれを否定していた。
俺は何も言えず、ただ彼女の手を握ってやることしかできなかった。身体の震えは暫く収まることはなかった。
命が助かっただけ良かった。
それは分かっている。ただ、何事もないならその方が良いに決まっている。
何故彼女がこんな目に合わなければいけないのか。
未来に向かって希望を持って前向きに歩んでいこうとしている彼女の足が何故奪われなければいけないのか。その理不尽さに憤りを感じる。
そしてそれは自分自身にも。俺のせいで彼女はこんなことになった。
俺とあの日出掛けようとしなければ
俺と関わらなければ
俺と出会わなければ
俺が、絵を描かなければ
俺が描いた絵がまた人を不幸にした。その事実が俺に重くのしかかる。やはり俺は絵なんて描くべきではなかった。そう強く感じた。
ただ、それを彼女には言わなかった。彼女がそれを否定することは分かっていたから。
その後も俺は何度も彼女の元を訪れ、その度に彼女は嬉しそうな笑みを浮かべた。
話をするときも、見舞いのお菓子を食べるときも彼女の表情は明るい。
けれど、ふとした瞬間に彼女はどこか遠い目で黙り込むことが多々あり、それが気掛かりだった。何度か訊ねてみたこともあったが「大丈夫」と笑うだけで何も語ることはなかった。
大丈夫な訳がない。
突然事故にあって、挙句歩くこともできなくなってしまって大丈夫な訳がない。
五体満足な者ですら人生は不安だらけなのに、彼女は歩くことのできない足でこれから歩んでいかなければいけないのだ。その不安と絶望はいったいどれ程のものだろう。彼女の立場にない俺には想像することしかできない。それがもどかしかった。
本日は2回更新いたします。
続きは17時33分更新予定です。
お楽しみに。




