夜空に咲く笑顔の花
煙の晴れた空には変わらず夜の闇が広がっている。
雲もなく、晴れているはずの空に星が見えないのはその分花火の光が強かったからなのか、それとも俺に見る気がないからなのかそれは分からない。
「結局僕は逃げ出したんです」
光の見えない夜空を見上げながら俺はそれを改めて自覚する。
「大学の連中から、絵を描くことから、苦しかったこと全てから」
怖かったのだ。それ以上傷付くことも傷付けることも。だから逃げ出した。そうすれば少しは楽になれると思ったから。けれど結果はこのザマだ。
過去と決別したはずが未だに囚われており、ここにいながら自分がどこにいるのかもどこへ向かえばいいのかも分からない。
まるで迷子だ。翼が折れた迷子の鳥。
俺はこんなにも弱かった。
「不甲斐ない……」
俺の声は果てのない夜空に吸い込まれていった。
もう花火は終わりなのか、辺りは静まり返る。大通りから外れているとはいえ街中、雑音に溢れているはずだ。けれど直前までの花火の音との対比か殊更静かに、そして寂しく感じた。
そんなどこか終わりを感じさせる中、お互い黙って何も光らない夜空を眺めていた。
やがて
「……良かった」
ポツリと東雲さんが呟いた。
「空くんが絵を嫌いになった訳じゃなくて」
そして控えめにはにかむ。
「傍から見たら嫌いになったのと変わらないですよ。だって……」
もう描いていないのだから。
言葉は続かず、代わりに自嘲の笑みが漏れる。
絵を描けなくなってしまったら俺でなくなる。絵がなくなってしまったら自らの存在意義を失ってしまう。だから目を逸らした。
完全に壊し、捨て去ってしまう前に自ら手を放した。そうすれば自分の中に絵は残るから。僅かばかりの存在意義を残せるから。
「その結果、絵を描かないようじゃないも同然です。絵を描かなくなったらそれはもう絵描きじゃあない。今の僕は何でもない」
俺は何でもない。
傷付くこと、傷付けることに恐怖し、諦め逃げ出して、けれど完全に捨て去ることはできず、過去の記憶の中にいる『絵を描ける自分』を大事にして中途半端に縋りついている。
無様なものだ。
そんな自分に比べたら前を向いて歩いていこうとする東雲さんの方がよっぽど強く、そして立派だ。
「幻滅しましたか? こんな僕に」
普段偉そうなことを言っておいて実際の俺はこんなにも情けないのだ。彼女に尊敬される資格などない。
けれど
「しないよ。幻滅なんて」
東雲さんはゆっくりと首を横に振った。
「する訳ない」
そしてどこか強い意志の籠った目で真っ直ぐに俺の目を見る。
「自分の理想を求めて絵を描く空くんは……周りからどんなに酷いことを言われても酷いことをされても負けずに頑張る空くんは……! 描けなくなっても、それでも必死に藻掻く空くんは……‼ やっぱりすごい人だよ……すごい人なんだよ‼」
「……過大評価ですよ……僕はすごくなんか———」
「すごいもん‼」
彼女の叫ぶような声に押し黙る。
「すごいもん……」
再度呟いた声は消え入りそうで、彼女の顔は今にも泣き出してしまいそうだ。
「すごくなんてないです……。描き続けて残ったものは結局痛みでした。それに人ひとりの人生を潰してしまった。彼こそがすごい人だった。彼には才能があった。そして努力していた。あのまま描き続けていればきっと彼の未来は明るかったでしょう」
未来のことなんて分からない。けれどそう信じられるだけのものを彼は持っていた。それだけは確かだ。
けれどまたしても彼女は首を振った。
「その人の絵はすごかったのかもしれない。私はその人の絵を見たことはなかったけど、空くんが言うならきっとそうなんだと思う。……でも、空くんの絵と空くんを傷付けたその人はすごくなんてない! そんな人の絵なんて私は見たくない」
感情の昂った彼女の言葉、そしてこちらを見つめる真っ直ぐな、俺を射抜くかのような目に気圧される。
「そんな人より人のために傷付くことのできる空くんの方が絶対にすごい。すごい人なんだよ!」
俺は思わず目を逸らした。
泣くのを堪えるような彼女の顔を見るのは苦しくなるから。そして彼女の言葉を正面から受けるのははばかられたから。俺にはあまりにも過ぎたものだ。
きっと彼女の言葉は本心だろう。こんなときに嘘やお世辞を言うような子ではない。それくらいには彼女のことを知っているつもりだし、信用している。
ただ、たとえそうであっても、そうであるからこそ俺はその言葉を素直に受け取れない。
「けれど、結局逃げ出してしまった」
今の俺は無様だ。迷い、俯き、蹲っている。
俯きかけた俺は不意に肩を掴んだ手に顔を上げた。目の前には彼女の顔。
「傷付かない人間なんていない。逃げ出したくならない人間なんていない。私もそう。いつも色んなことで傷付いて逃げ出してる。空くんだって同じ。逃げても何もおかしくない。逃げ出さないで頑張って、頑張り過ぎて、それで壊れちゃったら本当に終わりだもん。だから空くんは間違っていない」
「……逃げるのは間違いじゃない。確かにその通りだと思いますよ。この地上の生き物が生きていく上で大事なことです。本能と言ってもいい。でも逃げてばかりじゃそれはただの臆病者です」
「違う!」
けれどやはり彼女は首を振って否定する。
「空くんは逃げ続けてなんかいないよ。空くんは休んでいるだけ。大空を飛ぶ鳥が疲れた羽を休めるみたいに。いつか夜が明けて、十分休んで力を取り戻したらきっとまた大きな翼を広げて空に飛び立つの。それで空の向こうにあるかもしれない『何か』を探しに行くの」
強い眼差しでこちらを見据える。その目の端にはうっすらと涙が浮かぶ。
「私はそう信じている」
連なり弾ける音。
その数は徐々に増えていき、それに伴い音も大きくなっていく。
空気は震え、そして俺の心も震える。
「君は……どうしてそんなに僕のことを信じてくれるのですか?」
声が震える。
「絵を描くことしかできない。その絵も人を傷付けるだけ。そして今やそんな絵を描くことすらできない……こんな何でもない僕をどうして信じてくれるのですか?」
無言の時が流れる。視界の端で空に大きな光が開き、遅れて空気を震わすドンッという大きな音が響いた。
東雲さんは椅子から立ち上がると花火の光に誘われるようにフェンスまで歩いていく。そして「私ね」とこちらに背を向けたまま口を開いた。
「空くんの絵を見たことがあるの」
「……実物を、ということですか?」
「うん。あの美術館で展示していたやつ」
ドクンと心臓が大きく脈打つ。
人々の心に響いたかもしれない絵。そして唯一の友人を傷付けた絵。
「空くんの絵を見た瞬間、私は青空の中にいた。高く広く透明な青空。空気が澄んでいて、白い雲が流れていって、少しひんやりする風が私の髪を揺らしていた。どこまでも続く青のその先にまるで吸い込まれるかのように錯覚する、そんな青い世界の中に私はいたの」
彼女はまるで当時を思い返すかのように胸に手を当てている。
「気付いたときにはすごい時間が経っていてビックリしちゃった。それ程にあの絵は私を捕らえ、私の心を震わせたの」
今彼女はどんな顔で俺の絵を思い返しているのだろう。それが無性に気になる。
「すごいと思った。絵にこんな力があるんだって初めて知った。そして思ったの」
そこで彼女がこちらに振り返った。
俺は目を見開く。
彼女は微笑んでいた。
「『私もこの人みたいな絵が描きたい』って」
身体がぶるりと震える。目の奥が熱くなる。
自分の絵を見てそんな風に感じてくれる人がいるなんて思っていなかった。自分の絵がそこまで人の心に響くなんて。
「空くんの絵は、空くんは私に初めての感動をくれた。やりたいことをくれた。生きていきたい道を示してくれた。いつもそう。空くんは私の進む道を照らして導いてくれる。傷付けるだけなんてそんなこと絶対にない。だって私にこんなにたくさんのものをくれているんだから」
上がり続ける花火の逆光に照らされた彼女から目が離せない。余計なことは考えられず、花火の音すらももう俺の耳には届かない。
「初めて空くんと会ったとき運命だと思った。運命なんて信じたことなかったけど、これはそう」
俺も運命なんて信じない。この出会いもきっとただの偶然だ。世の中には意外とそういうことがあるのだ。
「私達は出会うべくして出会ったんだって」
それなのに彼女の言葉を否定できない。
「そんな運命の人が、捻くれた孤独体質のおっぱい星人だとは思わなかったけど」
……これも否定できない。
「でも、そんなところも含めて空くんを素敵だなって思った。すごい絵を描く空くんも、先生としての空くんも、私を本気で心配してくれる空くんも、今こうして年下の私なんかに弱さを見せてくれる空くんも、全部。そんな空くんだから」
光の筋が空に昇っていく。
そしてそれに逆行するように彼女の瞳からこぼれた雫がひとつ頬を伝って流れ落ちた。
夜空にパッと光の花が咲く。
「そんな空くんだから、信じたいって思うんだよ」
逆光の中、潤んだ瞳で微笑む彼女に俺は息を飲んだ。
「空くんが絵を描きたくないなら無理に描かなくてもいい。無理やり描けなんて私には言えないから。でも、もしいつの日かまた描きたくなったら、そのときはその絵を私に見せて?」
真っ直ぐにこちらを見つめる彼女。その眼差しとそこに込められた想いを真正面から受けることを躊躇する。それを約束することはできないからだ。今俺にできるのは目を離さないことくらいだ。
「そんな日が来るかなんて分かりませんよ?」
「いいんだよ。それでも。私はずっと待ってるから」
「……そうですか」
「それに……もし、もしもね? 空くんがどうしても描けないって言うなら」
彼女は腰に手を当て大きく胸を張った。
「私が描くから!」
「え……」という声は声にならなかった。
「日が昇らないならこっちから会いに行っちゃえばいいんだよ。待ってなんかいないで日の当たる所まで行っちゃおうよ。私が連れていくから。空くんの手を引っ張って」
俺は目を見開いた。
花火の逆光に照らされながらどこか頼もしく、そして優しく微笑む彼女。
その姿は本当に———
身体が震える。心が震える。
視界が霞み、温かな光は滲んで広がる。
「約束!」
そんな俺に彼女は自らの小指を差し出す。それが何を意味しているかは俺にも分かった。
暫しその指を黙って見つめていたが、やがて彼女と同様に小指を差し出すと、彼女が小指を絡めてきた。
「ゆーびきりげーんまん———」
彼女が弾んだ声で唱え、やがて指切りを終えた。
彼女との約束。
俺も望んだ初めての約束。
彼女が微笑む。
夜空に今日のフィナーレとなる花火が大きく咲いた。




