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回想 光が消えた日 5


「全部あなたがやったんですか?」


 彼は何も答えない。ただ黙ってこちらを見つめ返してくる。その目はゾッとする程に虚ろだ。


「写真やクロッキー帳を破いたのも、絵を切り裂いたのも全部あなたなんですか?」


 やはり彼は何も答えない。表情には全くと言っていい程感情がなく得体が知れない。それに戸惑うも同時に苛立ちを感じる。

奥歯がギリッと擦れた。


「答えろよっ‼」


 声がアトリエ内に響きすぐに消える。

 答えろよ。否定してくれ。俺じゃないってそう言ってくれ。

 たとえこの状況でどれほど言い逃れるのが難しくても、自分ではないと否定してほしい。彼は無関係であってほしい。

 そう願った。

 だが


「そうだよ」


 彼は表情を変えずに言った。


「全部俺がやったんだ」


 心臓に鋭い痛みが走る。口から「あ……」と息が抜けたような声が出た。

 手に持っていたスマホがするりと床へと落ち、乾いた音を響かせた。


「どうして……」


 漏れた声は震えている。何故彼がこんなことをしたのか分からない。


「どうして……って?」


 彼が手に提げていたバケツを放す。床に垂直に落ちたそれは音を立てながらまた少し中身を跳ねさせた。

 無表情だった彼の顔が歪む。まるで嘲笑うかのように。


「そんなのお前が気に入らないからに決まってるだろ?」

「気に入らない……?」


 佐久間は「ああ」と頷くと近くにあった箱椅子を引き寄せ腰を下ろした。


「ずっと気に入らなかった。愛想がなく、協調性もなく、ひとり孤高の存在ぶってるお前の態度がずっと鼻についていた。まるで自分が一番正しいかのような態度が」

「違います! 自分が一番正しいなんてそんなことは」

「いいや違わないね。お前は自分以外は全員馬鹿だと思っている。周りを見下しているんだ」

「そんなつもりはありません! 僕はただ———」

「その敬語も鼻につくんだよ!」


 突然の彼の怒号に俺は口を噤んだ。


「敬いなんてまるで感じられない嫌味ったらしい敬語使いやがって! そういうところも見下してるってんだよ!」


 そんなつもりはない。これは自分自身を守るためのものだ。見下したりなんかしていない。ただ、そこに必ずしも敬いがあるかと言われると、彼の言葉を否定しきれない。


「……そう感じさせてしまったのなら謝ります。すみませんでした。……けれどならどうして僕と一緒にいたんですか? 嫌なら僕なんて相手にしなければ良かったでしょう?」


 人望があり、他に幾らでも友人がいる彼ならそれができたはずだ。わざわざ嫌いな奴と一緒にいる必要なんてない。


「にもかかわらずあなたは僕に構い続けた……それは何故ですか?」


 彼は暫し黙っていたが、やがて笑みを浮かべた。


「俺の株が上がるからだよ」

「は?」

「お前に優しくしてると俺の株が上がるんだよ。『あんなやつとも分け隔てなく付き合えるやつ』てことでね。それに一緒にいれば作品も比べられる。お前の作品と比べられることで俺の作品がより輝く。それも都合が良かった」


 全身の感覚が遠くなる。上手く頭が回らず、声も出ず、自分に向けられる言葉をまるで他人事のように聞くことしかできない。


「ポジを引き立てるにはネガが必要だ。白は黒があることで際立ち、光は陰が濃ければよりその強さを増す。美大生なら言ってることの意味は分かるだろ? まぁようするに俺の引き立て役だ、お前は」


 鼓動が速い。ドッ、ドッと痛い程に脈打っている。


「俺が主役の人生においてお前はすごく都合が良かったよ。俺をしっかりと輝かせてくれていたからな。これからも変わらず自分の役割をこなしていれば良かったんだ……なのに」


 そこで彼は笑みを消し、俺を睨みつけた。


「何受賞とかしちゃってる訳? だめだろ引き立て役が主役より目立っちゃ。なぁ? 俺より目立ってんじゃねぇよ。引き立て役はそれらしく役に徹しろよ! 陰は後ろに引っ込んでろよ!」


 アトリエ内に響く声。

 唾を飛ばして俺を睨む彼は目をギョロっと見開き全身を震わせる。いつもの明朗な彼からは想像もできないその姿に俺は気圧され言葉を失っていた。


「それで? 受賞までしていて何? 賞を取ることは目的じゃない? 勝ち負けに興味はない? 楽しく描きたい? 何だよそれ……嫌味かよ⁉」


 彼は立ち上がり近くにあった箱椅子を思いっきり蹴り飛ばした。椅子はイーゼルに当たり激しい音をたてる。

 彼は鼻息荒く俺を睨み続けていたが、そこで壁に掛かった俺の絵に目を向けた。

 逆光に照らされた雲の浮かぶ青空の絵。


「何がこの空の先にある何かだよ……!」


 彼が床に置かれていたバケツを掴む。そして助走をつけながら両手で掴んだそれを大きく振りかぶった。


「やめ」


 俺の声を振り切り、彼は勢いをつけ踏み込みながらバケツの中身を俺の絵に思い切り叩きつけた。

 青空に黒い液体が大きく広がる。大小幾つもの黒い筋が絵の表面を流れ、縁から床へと滴り落ちる。

 それはまるで雨の様に。涙の様に。

 その光景を俺はたた呆然と眺めていた。

 ガラン

 アトリエ内に鈍い金属の音が響いた。バケツが床に転がり、どこか脱力した佐久間が立ち尽くしている。俺の事を見るその顔は元の無表情だ。

 やがて彼は何も言うことなくふらふらと歩き出しアトリエを出ていった。扉の閉まるガチャンという音が静かなアトリエ内にいやに大きく響いた。

 後に残されたのは俺と黒い液体の滴る絵。

 日は落ち、東向きのアトリエはより暗くなる。

 闇に沈んでいく中、それに紛れることなく濃く広がり流れる液体。ポタリポタリと床に落ち、溜まりシミになっていく。

 それをどうすることもできず、俺は黒く汚れた絵を見つめながら、ひとり闇に飲まれていくアトリエに立ち尽くしていた。




 そのときのことを俺は油研に話さなかった。起こった事が信じられず頭の整理がつかなかったのだ。もう一度佐久間と話さなければいけない、そう思った。

 けれど翌日彼は大学に来なかった。その翌日もそのまた翌日も来ず、連絡をしても繋がらない。他の者に連絡を頼んだところ安否は確認できたものの、それでも不安は拭えなかった。

 彼の部屋を直接訪問することも考えたがそれは叶わなかった。話さなければいけないことは分かっていたものの、どうしても踏ん切りがつかなかった。

 怖かったのだ。彼に会うことが。

 もやもやとした思いを抱えながらけれど何もできず時間だけが過ぎていった。

 そして一週間後、助手さんから佐久間が大学を辞めたことを聞かされた。

 彼は全てを自白したらしい。

 俺に対する嫉妬、その逆恨みだったこと、作家としてあるまじきことをしてしまったと言っていたそうだ。

 このことは俺と油研の一部の人間だけの秘密ということになった。俺はこれ以上彼を糾弾する気はなく、油研もそれに納得した。

 けれどこういったことはどこかから漏れるものだ。この件は噂として油絵科の中で囁かれるようになる。話には尾ひれがつき、事実と逸脱し誇張された話が面白可笑しく語られた。そういった話が耳に入る度に俺は苛立ちを覚えた。

 俺に対して同情的である者がいる一方批判する者もいた。主に俺のことを快く思っていなかった連中だ。俺が彼に嫌がらせをしていただの、才能に嫉妬した俺が彼を追いつめただの勝手なことを言っていた。

 きっと理由など何でもよかったのだろう。俺を非難するのにその件が丁度良かっただけだ。

 反論したが当然聞き入れられなかった。寧ろより非難は過熱したように思う。

 そして中でも一番しんどかったのは


「あんたのせいだ!」


 とある同期の女子の反応だった。

 彼女は以前より佐久間に好意を寄せていたらしく、彼が大学を去った元凶として俺を目の敵にした。顔を合せる度にヒステリーを起こし、周りが慌てて止めに入ることが何度もあった。

 度の過ぎた非難を油研も問題視し、当人達に対して厳重注意を行い表面上は落ち着いたものの、その裏では変わらず悪感情が燻っていた。




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― 新着の感想 ―
これは本当にやるせないですね!(-_-;)
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