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回想 光が消えた日 4


「ひでぇな……」


 そんな声を聞きながら俺は目の前の惨状を呆然と眺めた。

 アトリエの一角、俺の制作スペース。囲むように貼られていた写真は破られ床に撒かれており、筆や絵の具のチューブも散乱している。そして壁に立て掛けられている大きな絵は無惨に切り裂かれてしまっていた。

 午前中の講義を受け、食堂で昼食を取り、アトリエに来てみるとこの有様だった。

 昨晩アトリエを最後に出たのは俺だったが、その時は勿論こんなことにはなっていなかった。昨晩から今日の昼までの間に何者かが荒らしたことになる。

 アトリエの扉は施錠されているが、解除する番号は同期グループ全員が共有しているため、その内の誰でも犯行が可能だ。


「誰がこんなことしたんだよ……」


 切り裂かれた絵を見ながら佐久間が苦々しく漏らした。

 犯人の目星はついていた。俺のことを目の敵にしている連中だ。

 アトリエを見る限り被害にあったのは俺の絵と私物だけだ。アトリエ全体ではなく俺がピンポイントに狙われたのは俺に悪感情のある者の犯行である可能性が高い。惨状を見てニヤニヤしていたのも見逃さなかった。

 とは言え証拠がない以上は確信は持てない。


「因果応報ってやつですかね……」

「は? 何がだよ?」

「これまで上手く人付き合いをしてこなかったツケが回って来たってことなのかもしれません」

「何言ってんだよ! お前は悪くないだろうが!」

「でも、事実として絵は傷付けられたんです」


 切り裂かれた絵をそっと撫でる。

 新作の青空の絵。ここ最近ずっと描いていたものでもうすぐ完成だった。

 汚れくらいならまだしもこうなってしまってはもうどうしようもない。


「絵は何も悪くないんですけどね……」


 絵から目を離すことができず、その日俺は日が沈み夜になるまでその裂けた絵を眺めていた。



 この件は油画研究室に報告し、後日研究室よりアトリエの施錠と貴重品管理を徹底するように呼び掛けがあった。

 犯人は分からず終いで、現段階では外部の人間の仕業ということで片付いた。証拠がないためむやみに疑うことができないのも頷ける。それに身内に犯人がいるとは思いたくなかったのだろう。

 納得いかないことは多々あったが、これまで以上に私物の管理とアトリエの施錠に気を配るよう努めた。

 けれどほどなくして再び俺の私物が荒らされた。

 今度はクロッキー帳だ。作品のエスキースやドローイング、メモ等が描き込まれたものが剥がされ破られ、更に墨まで撒かれていた。

 やはり他の者に被害がなかったことから同一犯だろう。しかしやはり証拠も目撃情報もない。


「おい! 何笑ってんだよ!」


 近くにいた男子達がニヤニヤ笑みを浮かべていたことに腹を立てた佐久間が声を上げるが、彼らは全く取り合おうとしなかった。

「俺らじゃねーよ」「証拠あるんですかー?」そればかりを繰り返していた。




「犯人捕まえようぜ」


 そう提案してきたのは佐久間だ。


「それで油研に突き出すんだ」


 俺はその話に乗った。流石に俺も腹に据えかねるものがあったのだ。

 午前中の一コマ目と二コマ目。本来二回生は座学の講義を受けている時間に俺と佐久間はアトリエのベランダに張り込んだ。

 視線の先には真っ白なキャンバス。その周りには俺が撮った空の写真が貼りつけられている。

 犯人が行動を起こしたタイミングで出て行って捕らえるという作戦だ。証拠にするためにスマホの録画も用意してある。

 そうして俺達はおよそ三時間張り込んだ。が、犯人は現れなかった。それから日を改めてもう二回同じことを行ったが結果は同じだった。

 被害が出ないのはいいことであるが、何も解決していないのは気持ちが悪かった。

 その後も作品や私物が荒らされることはなく、同期は皆、あの佐久間でさえも徐々に警戒を解いていく中、けれど俺だけは胸のモヤモヤを拭いきれずにいた。


 ある日、制作を中断した俺は佐久間と一緒にアトリエを出た。その日はそれぞれ五コマ目の講義があり、外へ出るとそこで別れた。

 そして俺は講義を受ける建物に向かう、と見せかけて急いでアトリエへと戻った。

 アトリエに誰もいないことを確認すると、そのままベランダへと出て身を隠す。

 もう一度だけ張り込んでみようと思った。自分の絵を傷付けた犯人を捕まえる。

 絵はまた新たに描き直すことはできるだろう。けれど全く同じ絵を生み出すことはもうできない。同じ世界は二度と生まれない。その唯一無二を台無しにしたやつを俺は許すことができない。

 だから、これが最後だ。

 五コマ目の講義開始のチャイムが鳴り響く。

 日はすっかり西へと傾き、辺りは闇の色を濃くしていく。春に近づき日は長くなってきたが、やはりまだ暗くなるのが早い。気温も低く、建物の影に沈んだここ一帯は一段と肌寒く感じた。

 身体が微かに震えるが、きっと寒さだけのせいではないだろう。

 窓に掛かった大きなカーテンの隙間に俺の描きかけの絵が見える。鼓動が速くなっていくのを感じた。

 俺は落ち着かない心をいさめながら、ぐっと息を潜めアトリエの様子に注視していた。

 十分程経った頃だろうか、不意に物音がした。

 心臓が大きく痛みを伴って脈打つ。

 扉の施錠が解かれた音だ。続いて扉が開き誰かが入って来る気配がする。

 鼓動はより速く、息遣いは荒くなっていく。俺は手で口を覆い、身を潜め目を凝らした。

 やがてカーテンの隙間に人影が見え、俺は目を見開いた。

 男だ。手にはバケツを下げている。

 その男は壁に掛けられた俺の絵の前に立つと、手に持っていたバケツを両手で持ち直す。そしてそのまま勢いをつけるように後ろに引いたところで

 俺はベランダから跳び出した。

 男は全身をビクッと震わせ動きを止める。勢いのついたバケツの中身が零れ、ボタタタっとコンクリートの床に黒いシミをつくった。


「何で……」


 声が震える。相手に問うというより思わず声が漏れ出た。


「何で……あなたが」


 俺の視線の先、鈍い陰に沈むように無表情の佐久間が立っていた。


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