東雲玲愛と美術部の日常
「空くん!」
名を呼ばれ目を通していたファイルから顔を上げると大きな瞳と目が合った。
画集やファイル等が乗った机に手をつきこちらへと身を乗り出している女子生徒。そのあまりの顔の近さに俺は椅子に座ったまま自然と身を引いた。
すると彼女はそれが不満だったのか僅かにムッとした表情を浮かべ、こちらが引いた分の距離をつめてくる。それに対し俺は再度身を引いた。
「何で距離とるの⁉」
「近いからですよ」
なおも乗り出し身体をプルプルと震わす彼女を手で制し押し返した。
「これくらい普通だよ?」
黒いミディアムの髪を揺らし、制服のワイシャツ、スカートの上にエプロンを着けた彼女は腰に手を当て首を傾げる。
「そうなんですか? それは知らない常識ですね」
「良かったね! ひとつ勉強になったよ」
「……皮肉で言ってるんですよ」
少なくとも俺にとっては普通ではない。そしてそれは彼女も分かっているのだろう。
ニッコリと微笑む彼女に俺は溜め息をついた。
「あー! また溜め息ついてる。知ってる? 溜め息ばかりついていると幸せが逃げるっておばーちゃんが……」
「で? 結局どういう用事だったんですか?」
また脱線しそうになる話を元に戻すと、彼女も「あ、そうそう」と思い出したように改めて俺に向き直った。
「絵の途中経過見てほしいんですけど」
急に敬語になった。今更だが一応はお願いする立場という意識なのだろう。
「なるほど。分かりました」
俺はファイルを閉じると席を立ち、先を歩く彼女の後を追った。
どこか楽しそうにスキップするかのようなその彼女の足取りに「何がそんなに楽しいのか」と疑問に思うも、水を差すのもはばかられたため黙ってその背を追う。
やがて彼女は立ち止まりこちらへと振り返った。
彼女の前に立てられたイーゼルの上に縦向きのキャンバスが置かれている。
その周辺の床には筆や絵の具等の油彩の道具が広げられており、台として使われている椅子には色とりどりの絵の具がいっぱいに混ぜ合わされたペーパーパレットが置かれていた。
そしてキャンバスに描かれているものは色彩豊かな油彩の静物画だ。
少し先の大きな台の上にモチーフとなっている静物が組まれている。
俺はその絵の前に立つと彼女に振り向いた。
「じゃあ中間講評をしますよ。東雲さん」
「お願いします! 空くん」
そう元気に言うと、彼女、東雲玲愛は微笑んだ。
この学校の美術室は校舎の三階にある。
室内は大きく二つのスペースに分けられている。入り口のある手前側を授業で、奥側を美術部の活動でそれぞれ使用しており、その間を背の高い棚で仕切っている。
部活動スペースには画材や備品が溢れる。イーゼルやカルトンが立てかけられ、棚には筆や絵の具といった画材が仕舞われている。壁一面に歴代の部員が描いたデッサンや水彩画が貼られており、乾燥棚にはキャンバスに描かれた油彩画が納められている。
床は絵の具や木炭の汚れが目立ち、油彩の絵の具や溶剤、キャンバスの独特な匂いが立ち込めている。
西向きに作られた部屋であるためこの時間強い西日が射し、窓から差し込む光が床や壁、机を白く染め、そこに窓枠の濃い影が伸びる。棚の上に並ぶ石膏像の明暗は濃く明確になり、金属のやかんが反射し、ラムネの瓶は透き通る。描きかけの絵に新たな彩を加え、白く真っ新なキャンバスは未知を映すスクリーンとなる。
そんな斜陽の美術室で今日も美術部の活動は行われていた。
部屋の中程にある大きな台に大小様々なモチーフが組まれており、それを取り囲むようにイーゼルが並べられ部員たちは皆各々の作品を制作している。
「空間の意識は大分もててきているみたいですね」
そんな中、美術部講師の俺は椅子に座り絵とモチーフを見比べる。
モチーフはストライプの入った布が掛けられた台の中央に紫陽花と水の入った瓶が置かれ、その周囲をラムネの瓶やビー玉、果物等が置かれたものだ。
東雲さんの絵はその紫陽花を主役に描かれている。
「以前は前後の描き込みが単調で空間が弱くなってしまっていましたが、今回は主役を起点にして変化がつけられていますね。手前にある紫陽花をしっかりと描き、そこから奥に行くにしたがって徐々に抜いていく。その流れで奥行きのある空間になっていると思いますよ」
「ホント⁉」
頷きながら彼女を見ると、満更でもなさそうで口元を緩めている。きっと彼女としても手応えがあったのだろう。
「前に指摘されたことがあったからさ、今日はそこに気を付けようと思ったんだ」
以前別の作品で空間の甘さを指摘したことがあったが、それを覚えていたようだ。現に足下に広げられたクロッキー帳にはその時の課題と講評の際に書いたのであろうメモがある。
「しっかり改善されていますね。画面に透明感が出てきています」
素直に褒めると、彼女は「やった!」と笑みをこぼした。
「ただし」
けれど俺の言葉ですぐに笑みを引っ込める。
俺は椅子から立ち上がり後ろに下がると彼女を手招きした。彼女と共に離れた位置から画面を見る。
「何か気付くことはありませんか?」
「え? 気付くことって…………あ」
彼女が声を漏らす。
「瓶の形……」
「その通りです」
紫陽花と水の入った円柱形のガラス瓶、その底の面が実際に見えるよりも僅かに狭くなってしまっている。
「この目の高さで見ているならパース(遠近法・透視図法の意)の関係で瓶の上の面よりも底の面の方が広く見えるはずです。にもかかわらずこの絵の瓶はどっちも同じくらいの幅になってしまっています。これでは瓶が台に自然に置かれているように見えません。今にも倒れそうですよ」
人がものを見ようとしたら必ずパースがかかってくる。それは物も生物も変わらない。
これは何も美術に限ったことではなくこの現実においてはそれが自然なのだ。
そしてその自然を踏まえなければ、当然絵においても自然な空間にはならない。
「下描きの段階ではちゃんと描けていましたよね?」
「うん……しっかり合わせたから」
「絵の具をのせる段階で狂ったんですね。紫陽花や水、布のストライプにも多少惑わされたのかもしれませんね。制作中画面から離れて見ていましたか?」
「えー……っとー」
彼女の目が泳ぐ。
「見てないんですね?」
「あははは……はい」
観念したように苦笑いを浮かべた。
「描くのに一生懸命になるのは良いことですけどね。ただ、それで視野が狭くなってしまうのはいけないですね。パースや大きな形の狂いは画面を近くで見ていても気づきにくいものです。画面が大きいなら尚更。だから画面から離れて全体を見るようにする。そうすると近くでは見えなかった狂いや粗が見えてくるものです。頻繁に席を立って離れて見るように…………ていうのは前にも言いましたよね?」
「はい……」
「覚えているならいいです。今一度気を付けてください。空間を大事にするなら尚更ね」
折角画面に遠近感が出てきたのだ。こういう不自然さで自然な空間を壊してしまっては勿体ない。
「まずは瓶の底面の狂いを直していきましょう」
「直すって……紫陽花の茎や布のストライプも? 全部!?」
瓶はガラスで透明だ。修正するなら底面付近は多少壊れることになる。
「応援しています」
「うわぁーん!」
彼女が嘆きの声を上げた。