花火大会 3
階段を上がり扉を開くと温い風を感じた。
目の前にはフェンスで囲まれたコンクリートの地面、そして夜空が広がっている。
街の中心部である駅から歩くこと少し、メイン通りから外れた路地裏にこのビルは佇む。贔屓にしている画材店。ここはその屋上だ。
店のオーナーに頼み上げさせてもらった。その際一緒にいた東雲さんを見て「空君にもついに彼女が……」と呟いていたが無視した。
十畳ほどの広さの屋上には木製のテーブルが一つ置かれ、周りにはパイプ椅子やビールケースが並んでいる。濡れた雑巾でパイプ椅子を綺麗に拭くと東雲さんへと目を向けた。
「座ってください」
彼女は少し戸惑った様子だったが、やがて「ありがと……」とパイプ椅子に座った。
丁度そのタイミングで夜空に一筋の光が昇っていくのが見えた。光は空高く昇っていき、やがてパッと大きく広がった。
色とりどりの光の花。
ドンッッッ
腹の底まで響くような大きく重い音が空気を震わせた。
「始まったみたいですね」
スマホで見た時刻は十九時を少し回っていた。僅かに開始が遅れたらしいが、俺達にとっては丁度良かった。
光が夜空に散り消えると、また新たな光の筋が昇っていき花開く。その度に屋上も俺達もその色に染まり、空気が震える。
初めこそ浮かない表情であった東雲さんも数発花火が上がったあたりで僅かだが笑みを浮かべ始めた。
その様子に少しだけ安堵する。先程よりも顔色も良いと思いかけたが、花火に染まっているのだと気付き、自嘲めいた笑みが漏れた。
まだまだショックは拭えないだろうが、それでも花火を楽しめるだけの余裕が出てきたのであれば何よりだ。
花火は一発一発上がっていく。有名な花火大会の様に大きな花火を連発するようなことはないため、比較的地味に感じてしまうかもしれない。
それでも花火は花火。道行く人や俺達同様に隣のビルの屋上から見物している人達は皆、花火が開く度に歓声を上げる。
ここから離れたメイン会場でもさぞ盛り上がっているだろう。
派手でなくともその中にはきっと良さがある。
「東雲さん、これを」
「え……」
袋から取り出した青い瓶を差し出すと、彼女はキョトンとした顔でそれを受け取った。
「ラムネ……」
「嫌いじゃないですか?」
「うん、平気」
「それなら良かった。他の物も良かったらどうぞ」
俺は別の袋から焼きそばやフランクフルトといった食べ物のパックを出しテーブルに並べていく。
「どうしたの? これ」
「買ってきました」
ここに来て屋上に上がるまでの僅かな間にそっと外へ出て購入した。メイン会場から離れているもののこの近辺にも意外と屋台は多い。
「お金払う!」
彼女が慌てて財布を取り出そうとするのを手で制す。
「いいですよ。ご馳走します」
「ダメだよ、そんなの!……ただでさえ迷惑かけているのに」
彼女が唇を噛む。
まただ。またそんな顔をする。
彼女が辛そうな顔をする度に胸の中がもやもやするのだ。そんな顔をしてほしくないと、そう思ってしまう。
「迷惑だなんて思ってないですよ。冗談抜きでね。人に気を遣うことは悪いことではありませんが、今の君は気を遣い過ぎです。もっと自分勝手でいいんですよ。いつもみたいに」
「いつも……私そんなにいつも勝手してるかな⁉」
「僕は散々振り回されていますよ?」
「う……すみませんねっ! 反省してます!」
「むぅ……」と頬を膨らます彼女に少し口元が緩んだ。
「そんな君なんですから今更変に気なんて遣わなくていいんですよ。というか今こそでしょ? 自分勝手するのは」
高校生。大人と子供の間である微妙な年頃。大人としての責任と自覚を求められ始めるけれど、それでも子供だ。こんな時くらい存分に甘えればいい。
「ほら、折角の花火です。こんなことで揉めていたら勿体ないでしょ? 食べて飲んで、花火見て、楽しい時間にしましょう。たとえ一時でも怖かったことなんて覆い隠してしまう程にね」
俺はラムネのフィルムを剥がすと指でビー玉を押し込んだ。カシュンという音に続き炭酸のシュワシュワという音が心地良く漏れる。その音を感じながら一口飲んだラムネは程良い炭酸の爽快感とどこか懐かしい味がした。
「空くん……」
東雲さんは暫し逡巡していたが、やがて俺と同様にラムネのフィルムを剥がすとビー玉を押し込む。そしてラムネに口を付け傾けた。コクリと白い喉が音を鳴らす。
「美味し……」
ふっとやわらかく微笑む彼女を横目に俺ももう一度ラムネを傾けた。
それからふたりで花火を見た。
座る所なんて幾らでもあるのにわざわざ隣に座るのには思うところがあったものの、夏の夜風に吹かれながら、屋台で買った食べ物を分け合い、花火色に反射するラムネを飲みながら見るその夏の象徴は思いの他悪くなかった。
花火が一発上がる度、隣りの彼女は歓声を上げる。その顔には先程までの陰はない。花火の光が今この時だけは不安も痛みも影と共に背後へと追いやってくれている。
その時、大きな花火が上がり「わあっ!」と歓声を上げながら東雲さんがこちらに振り向いた。
「空くん! 見た? すごかったよ!」
興奮気味にはしゃぐ彼女を眺めながら俺は改めて感じた。
やはり彼女には笑顔が似合うな、と。
「空くん、ありがとうね」
花火も半ばを過ぎた頃、東雲さんがこちらへと振り向いた。
「私のこと気にしてくれて、優しくしてくれて、すごく申し訳ないけど、それでも……嬉しかった」
浮かべた笑みは自嘲気味だ。夜の闇の中花火に照らされる姿がどこか儚く感じる。
「私、もっと強いと思ってたんだ、自分のこと。何かあっても平気だって。けど……いざ迫られたら思っていた以上に相手の力が強くて……何だか怖くなっちゃった」
彼女が自身の腕を抱くとギュッと握る。
男子の方が力が強い。そんな当たり前のことも普段は忘れてしまっている。それがふとした瞬間に垣間見える。それは時に恐ろしいものだ。自分の身に降りかかることならなおさら。そしてこれはあらゆることに言えることだろう。
「取り乱して、引っ叩いて、逃げ出して……そのあげく空くんにも迷惑かけて……私、全然ダメだなぁ……って思うんだ」
「そんなことないでしょ?」
俺はラムネの瓶をテーブルに置く。中にあるビー玉がカランと音を立てた。
「男子に乱暴されかけて取り乱さない方がおかしい。東雲さんの反応は寧ろ当然のものですよ。自分を責める必要も恥じる必要も全くありません」
被害者はあくまで被害者だ。猛省すべきは加害者であるあの男子であって彼女ではない。自責の念にかられるなどおかしい。
「それでも」
しかし彼女は頭を振った。
「私はもっと強くなりたい。どんなことがあっても負けないくらい強く」
彼女の声には力が宿っている。その顔に陰はなく、目には強い光をたたえている。先程まで感じていた儚さはもう既にそこにはない。
「私、彼ともう一度話してみる。叩いちゃったことはしっかり謝って、それで、ちゃんと私の想いを伝える」
俺に聞かせると同時に、自らの意志を確認するような、そして自らに言い聞かせ、宣言するようなそんな言葉に感じた。
何故……君はそんなにも。
花火が広がり、光に照らされた彼女はその花火以上に輝いて見えた。
「君は強いですよ」
言葉は口をついて出ていた。
自らを省みるのは恐ろしいことだ。自らの非を認めそれを改めるのは時に勇気がいる。それができない人間が世の中には溢れかえっている。
けれど彼女は反省を躊躇わない。
今回の件、彼女には何の非もないと俺は思っている。
けれど彼女は自らを振り返り、そのなかにある非を認め、反省し、そして歩み寄ろうとしている。もう二度と関わりたくないと思っても不思議ではない相手と向き合おうとしている。
彼女は、逃げない。諦めない。
それは優しさであり、そして強さだ。
「そんなこと……」
「いえ、君は強いです」
どれだけ辛いことがあろうとも彼女は歩みを止めない。たとえ落ち込むことがあっても、再び顔を上げ、前を見据えて歩き始める。
「君は強い………………僕なんかよりもずっと」
花火の音が響く。その音は空気を震わせ、この身を震わせ、そして心の中に波紋を広げる。
「君は諦めない。でも、僕は諦めてしまった……」
花火は上がり続け、心の中に広がる波紋もより大きくなっていく。
俺が彼女に振り向くと、同じくこちらを見ていた彼女と目が合った。そのまま互いに見つめ合う。
「知りたがっていましたよね? 僕が何故絵を描くことをやめたのか」
彼女は目を見開き、やがて小さく頷いた。
心の奥底に眠っていた記憶は、花火の光に照らし出されるように浮かび上がり、空気を震わすドンッッッという音によって、今その目を覚ました。




