言い掛かり
いつも通りに駅の改札まで送ると彼女はこちらへと振り向いた。
「じゃあ行ってきます!」
手を後ろで組み微笑む。
「……何故行ってきます? さようならですよね?」
訝しむと彼女は「むーー」と頬を膨らませた。
「もうっ! 未知の世界へと飛び出していく教え子を見送ってよ、空せんせー」
「なるほど……」
この年の子達は自宅と学校が世界の大半を占めているところがある。勿論個人差はあるし、ネット等も含めるとなると必ずしもそうとは言えないかもしれないが、それでも大人に比べればやはりその世界はずっと狭い。
そんな子達からすればそこから出て見知らぬ場所、新しい場所に行くのも大事なのだろう。たとえ予備校程度だとしても世界が広がるのだから。そして彼女に至ってはより広い美術の世界に踏み出すことにもなる。
少し大袈裟な気もするが納得はできた。
「いってらっしゃい。気を付けてくださいね」
何の飾り気もない言葉。けれど俺の素直な気持ちだ。そしてそれは彼女にも正しく伝わったようで
「うん! いってきます! 空くん」
彼女はパッと笑みを浮かべた。手を振り改札を通っていく。そしていつも通り振り返るともう一度大きく手を振った。
それに手を上げて応えると、満足そうに微笑み、人の流れに乗ってホームの方へと消えていった。
「……頑張ってください」
無責任な言葉だとは分かっていながらも、彼女に向けてそう小さく呟き俺は駅を出た。
西日の弱まっていく遊歩道を家に向かって歩いていると
「おい!」
背後で唐突に声がした。それでも気にせず歩いていると「おい! お前! お前だよ!」と再度声がしたため、漸く自分に対してのものだと気付き振り返った。
そこには東雲さんにアプローチをかけていたあの茶髪の男子が立っていた。確か中西と言っただろうか?
俺に何の用かと眉を顰めていると、彼は数歩近付いてきた。その表情には敵意が滲み出ている。
「お前、東雲の彼氏なのか?」
その言葉を聞き「ああ、なるほど」と納得する。面倒なことになったと小さく溜息をついた。
「どうなんだよ!」
彼が苛立たし気に声を荒げる。また数歩近付いてきた。
「違いますよ」
俺が答えると彼は「そうか……」と若干の安堵を滲ませたが、すぐにまた俺を睨みつけてくる。
「これ以上東雲に付き纏うな!」
声を荒げる彼に対し俺は再度溜息をつき、頭をガリガリと掻く。「めんどくせぇなぁ」という声が漏れそうになったがどうにか堪えた。
「付き纏ってるつもりはないですよ?」
「嘘つけ! いつも一緒にいるじゃないか!」
「それは僕の意志ではないですね。というか一緒にいるところを見ていたならそれくらい分かるんじゃないですか?」
寧ろ彼女の方が俺に絡んできているくらいだ。
「東雲がお前なんかと一緒にいたがる訳がない! きっとお前が脅したりして付き纏ってるんだろ⁉」
「何か童貞の妄想みたいなこと言い出しましたね」
「ああっ⁉」
「する訳ないでしょそんなこと。犯罪行為じゃないですか、それ。僕は捕まりたくはないですよ」
「だったら何で———」
「というか」
そこでなおも食い下がろうとする彼の言葉を遮る。いい加減こんなことで時間を無駄にしたくはない。
「君にそんなこと言われる筋合いはないですよね?」
彼は言葉を飲み込み顔をヒクつかせた。
そんな彼をつまらないものを見るように見つめる。
「彼女の意志を決めるのは彼女自身です。君じゃあない。勝手な憶測や君の願望で語るべきではないですよ」
「勝手なんかじゃない! あいつは俺と———」
「それに」
再度言葉を遮る。
「君の方こそ彼女にご執心のようですけど、いい加減諦めたらどうですか?」
「っ……⁉」
彼が声なき声を出し、口を戦慄かせる。視線は忙しなく彷徨い、身体はぶるぶると震えている。
「脈ないですよ? 君」
次の瞬間、彼は弾かれた様に迫ると、俺の胸ぐらを掴み上げた。
詰まるような息苦しさと若干の浮遊感。体格は彼の方が大きいが、どうにかつま先だけは地面から離れずにすんだ。
目の前には彼の顔。真っ赤に染まっているのは西日のせいではないだろう。眼球が飛び出してしまいそうな程に目を見開き、俺を見下ろしてくる。鼻息は荒く、歯をギリギリと噛みしめる。俺のシャツを掴んだ拳をより硬くした。
人によっては恐怖するところかもしれないが、生憎、俺はそれよりも煩わしさの方が勝った。
「ん? 暴力ですか? 本当の事を言われて暴力ですか?」
掴み上げられながらも俺はやはりつまらないものを見るように彼を見つめた。
彼はギリギリと歯軋りし、もう片方の手を握りしめる。
「暴力は結構ですけど……覚悟はできているということですよね?」
「何⁉」
彼の唾が顔にかかる。汚いな……帰ったら洗わないといけない。
「暴力振るっているんだ。君の都合で、何の罪もない人間に。それ相応の罰を受ける覚悟は……できているってことですよね?」
彼の顔をジッと見つめる。睨みつけたつもりはない。けれど彼はビクリと身体を震わせ、表情を硬直させた。
暴力は犯罪行為だ。許されるものではない。たとえそれが学生だったとしても。
「さて、その上でその握りしめた拳をどうするのでしょうか?」
振り下ろされることなく上げられたままだった彼の右拳を横目で見る。
何も言うことなくそのまま暫く彼は俺を睨みつけてきていたが、やがて上げた拳を下ろすと俺のシャツからも手を放した。
俺はシャツにできた皺を手で撫でつけ、襟を正すと未だ睨みつけてくる彼を一瞥し踵を返した。
西日はほとんど沈みかけ、辺りは夜の闇に染まっていっている。僅かに黄金色に輝いていた遊歩道の石畳は鈍い灰色へとその色を変えている。
無言で佇む彼を残し、ひとり沈んだ道を歩きながら、俺は今しがたの彼の言葉、そして自分の言葉を何度も反芻していた。




