微笑む彼女は眩しかった
この広く高く壮大な空を見ていると、自分がいかにちっぽけな存在であるかを改めて実感する。こんな自分の悩みなどきっと本当に小さなものだ。
「空くんってよく空を見上げてるよね」
東雲さんが俺を見上げてくる。
「ええ、ずっと昔から。癖みたいなものですね」
「空を観察するのって面白いよね」
「面白いかは分かりませんが……まぁ、退屈しないのは確かですね」
その色、明度と彩度、透明度。雲の有無と形、連なり。ドラマティックな光の演出とそれによってできる陰影。その時間帯や天候、季節によって変わるその様は飽きることがない。
うん……面白いということなのかもしれない。
「だから絵も空の絵が多いの?」
「そうかもしれません」
「あと名前も空だし」
「……それはたまたまです」
名前はともかく空への興味は尽きることがなかった。そしてそれはそのまま自分の表現となった。美術室に置いてある自分のポートフォリオには空の絵が多くまとめられている。中でも青空の絵は特に多い。
中学、高校、そして大学でも俺は空の絵ばかり描いていた。
「空くんの空の絵、いいなーって思うよ」
「それはどうも」
「むぅ……気のない返事。本当だよ?」
「別に疑っていませんよ」
自分の絵を評価されることは素直に喜ばしく思う。
ただ、それだけだ。
それ以上に何かを感じることはない。これは彼女だからではなく誰であっても同じだ。
昔はもう少しだけ感じるものがあった。人からの評価に目に見えて一喜一憂する程ではなかったが、それでも心が動いた。
けれど今は……。
「ねぇ、空くん」
彼女は空を眺めている。その目には何が映っているだろう。
「絵、描かないの?」
声色で察していたため驚きはない。幾度も問われ答えてきた。
見上げた空はやはり際限なく、その先には何も見えない。
「はい。描きません」
「どうして?」
「描きたくないから……それだけの事ですよ」
サンドウィッチの残りを口に押し込み、包みを握り潰す。
東雲さんは少し躊躇うように視線を彷徨わせ、やがて意を決したように俺を見た。
「……空くんはどうして絵を描かなくなったの?」
心臓が大きく、するどく脈打った。
これまで彼女がその理由を訊ねてきたことはなかった。それが今もう一歩踏み込んできた。いつか訊かれると覚悟はしていたものの、いざ訊かれるとやはり落ち着かないものだ。
俺は黙って口の中のサンドウィッチを咀嚼する。視界の外、彼女の視線が自分の横顔へと痛い程に当たるのを感じる。漸く口の中のものを飲み込み、お茶も一口飲むと、俺は空を見上げた。
「……どうしてだったですかね? 忘れました」
俺の逃げるような返事に彼女は何も言わない。ただジッと俺を見つめてくる。やがて一言「そうなんだ」とだけ言うと、それ以上はもう何も追及してこなかった。
その後、少し重い空気の中お互い無言で食べ進め、やがて食べ終わると俺はコンビニ袋を縛り、彼女は弁当箱を包み鞄に仕舞った。
「あ、空くん、私ね」
そこで彼女はその空気を一変させようという声音でこちらに振り向いた。
「予備校の夏期講習、受けさせてもらえる事になったんだ!」
彼女の言葉にお茶に口をつけようとしていたのを止める。
彼女は鞄から予備校のパンフレットを取り出すと喜々として俺に見せた。毎年多くの合格者を出す都内の大手予備校のものだ。
「へぇ……それは良かった。親御さん説得できたんですね」
パンフレットを受け取りパラパラと捲る。
「うん。取り敢えずね。まだ完全に芸大美大受験を認めてもらえた訳じゃないけど、そんなに言うなら講習会だけならって」
講習会だけとは言うが、きっと良い傾向だ。まだ二年生とはいえ夏休みという貴重な時間を使い、決して安くない費用がかかる。それを踏まえた上で受講させてもらえるのは大きな一歩だろう。少なくとも全否定されるよりはずっといい。
「一歩前進ですね」
「あははは。まぁ、ね。毎日話したよ。それでもなかなか認めてくれないからかなりごねた」
彼女が両親を説得する光景を思い浮かべる。諦めずに食らいつく姿は容易に想像できた。
俺は比較的すんなり受験を認めてもらえた。彼女程の苦労はしなかった。だから自分の進みたい道に進むために必死に戦う彼女を立派に思う。
それに対して自分は何をやっているのだろうか?
彼女が必死に進もうとしている道にすでに立てているにもかかわらず、全く前へと進めていない。
激しい自己嫌悪で口の中、そして胸の中に苦いものが溜まっていく。
「頑張りましたね」
この言葉に嘘はない。ただそれでも自分の言葉を空虚に感じてしまう。自分は人にそんなことを偉そうに言える人間ではない。
「頑張ったよー」
東雲さんはまるで一仕事終えたかのようにぐぐぐっと伸びをし、腕を下ろすと同時に小さく息を漏らした。
「けど、私だけの力じゃないよ?」
彼女は両腕で抱え込んだ膝に頭を乗せるとこちらへと顔を向ける。
「空くんのお陰」
そしてやわらかい笑みを浮かべた。
「……僕?」
「うん。空くんが背中を押してくれたからだよ」
「いや……僕は何も」
俺は大したことはしていない。少し進路相談に乗っただけだ。自分の勝手な考えを言い、あとは彼女の意志に委ねただけ。それだけだ。
しかし彼女は「ううん」と首を横に振った。
「空くんが私に知識をくれたから、私の気持ちを尊重してくれたから、そして何より応援してくれたから、私も頑張れたんだ。だから……ありがとう、空くん」
やわらかくはにかむ彼女から目を逸らす。その顔を直視することははばかられた。
一つは自分には過ぎたものだったから。
そしてもう一つはその笑顔が目が眩む程に眩しかったから。
熱をもつ頬をイタズラな風がやさしく撫でていった。
「まぁ、何にせよ良かったですよ。夏休みは忙しくなりそうですね」
俺は誤魔化すように言うとパンフレットを彼女に返した。
「そうだね。けど時間があるときは部活にも出るよ。みんなにも会いたいし。それに遊びも。来年は受験だからさ、今年の内に遊んでおきたい」
東雲さんは来年三年生になり受験生となる。本気で大学を目指すなら当然夏休みは受験勉強に充てられ遊んではいられないだろう。
「海行きたいな。毎年行くんだ」
「いいんじゃないですか。夏らしくて」
「でしょ? 空くんも一緒に行く?」
「行きません」
「むぅ……」
東雲さんが不満気にむくれるのを横目に俺はお茶を飲む。
「苦手なんですよ、海。熱いしベタベタするし、混雑してるし……それと」
そのままお茶を飲み干すと缶を地面に置き、ぼそりと呟く。
「僕泳げないんですよね」
俺の言葉に、不満気だった彼女は一転してキョトンとした表情を浮かべると、やがて「くすっ」と声を漏らした。その顔にニンマリと笑みを浮かべる。
「じゃあ私が教えてあげるよ!」
任せておけと言わんばかりに胸を張る彼女。自信に溢れる姿はどこか頼もしく見えた。
俺は彼女に泳ぎを教わる自分の姿を思い浮かべる。
年下の未成年の女子に手を引かれ不格好にバタ足をする俺。
「うん……それは本当に遠慮しておきます」
居た堪れない光景に今日一番の苦々しい表情を浮かべた。
帰宅すると自室に鞄を下ろし、そのままベッドへと仰向けに倒れ込む。ベッドのスプリングがギシギシと軋んだ。
俺は腕で目を覆い大きく息を吐いた。今日はひどく疲れた。身体ではなく心の方がだ。
身に余る感情というものは時としてその人を疲弊させる。その感情の正負に関係なくだ。
腕を下ろし、そこで不意に視界の端にクローゼットの扉が見えた。
何の変哲もない扉。けれどひどく重い扉。
過去が押し込められ、固く閉ざされている。
俺はそれから目を逸らすとそのまま寝返りを打ちうつ伏せとなる。そして視界を閉ざすように、全てから逃げるように枕へと顔を埋めた。




