私、諦めないよ!
その後、これ以上は本当に怒られるということで学校を出た。
来客用口を出て校門へ向かっていると、東雲さんとあの茶髪の男子が一緒にいるのが見えた。彼が何やら彼女に話しかけている。恐らく東雲さんを待っていたのだろう。
話をしていた二人だったが、東雲さんは俺に気付くとパッと笑みを浮かべた。
「じゃあ私もう行くね。また明日!」
彼に手を振ると俺の下へと駆けてくる。そしてそのままさも当然のように一緒に歩き出した。
残された彼は「あ、ちょっと!」と戸惑い手を伸ばすも、やがてその手を引っ込め「……また明日」と手を振った。
その姿を振り返りながら隣の彼女へと訊ねる。
「いいんですか? あれ。きっと待ってたんですよ」
「いいんだよ。言ったでしょ? 期待させたくないって」
振り返らず校門を目指す彼女の横顔は少し辛そうに見えた。
大変だな。追う方も追われる方も。
校門を出る前にもう一度振り返ると、彼は変わらずこちらを見続けていた。
「何度も断ってるし。彼には申し訳ないけど、他にもっと大切にしたいことがあるから」
「大切にしたいこと……ああ、受験のことですか?」
「それもあるけどね。他にもだよ」
「他にも? 何ですか?」
そこで彼女はこちらへと振り向き、ジッと見つめてきた。
その目を見つめ返す。
それから暫く見つめ合っていたが、やがて彼女が「むぅ……」と頬を膨らませ、プイッとそっぽを向いた。
「え、何ですか?」
「何でもなーい」
「何でもないってことはないでしょう?」
「教えなーい」
ムスッとして前を歩く彼女を見つめながら俺は小さく溜息を吐いた。
本当に大変だな。追う方も追われる方も。
暫くお互い無言だったが、信号で立ち止まったところで彼女へと振り向いた。
「今日の先生の話はどうでしたか?」
彼女は少しの間、虚空を眺め、やがて口を開いた。
「知らなかったことを知れたのは良かったかな」
きっとそれは嘘ではないだろう。知らなければどうしようもないことというのは人生に多々あることだ。ただその一方で知りたくなかったことというのも多々ある。
先程の先生の話はこれからその道に踏み出そうという者にはなかなか酷なものだった。少なくとも希望は抱きがたい。
俺はそこら辺の事情を詳しく知らずにその道に足を踏み入れた。不安はあったがそこまで現実的に考えていた訳ではない。根拠のない自信、求めるものへの希望ばかりあった気がする。俺はかなり鈍感だった。
「東雲さんはあの話を聞いてもなお美術の道に進みたいと思いますか?」
勇気を持って踏み出せるか? 自分は大丈夫だと信じられるか
「私は……」
東雲さんは言葉を切り、少し俯く。
進行方向とは違う歩道の信号が点滅を始め赤になる。それに伴い車道の信号も青から黄、そして赤になった。
彼女は顔を上げるとこちらへと向く。大きな瞳が俺を真っ直ぐに見つめた。
「進みたい。私は絵を描きたい」
信号がパッと青へと変わる。
彼女が横断歩道を渡り出し、俺もそれに続く。ふたりが渡りきると改めて彼女は俺を見上げた。
「私は芸大美大を受験したい」
迷いのない声、そして目だ。
再び並んで歩き出す。視線の先、遠くに駅の明かりが見えた。隣の車道を走る自動車が次々と俺達を追い越して行く。
「僕が言うのもなんですけど……きっと大変ですよ?」
受験も、大学に入ってからも、その先も。
「分かってるよ。けど……」
彼女は真っ直ぐに前を見据え、その目に光が映り込む。
「仕方ないじゃん。描きたいんだから」
その言葉は俺の身体、そして心に響いた。だから
「いいんじゃないですか。それで」
俺は迷いなくそう頷いた。
「止めたりしないんだね、空くんは」
こちらを見上げる東雲さんは少し意外そうな表情を浮かべている。
「止めてほしかったですか?」
「そうじゃないけど。……そんなのでいいの?」
それを愚かな考えとする者はきっと多くいるだろう。曖昧な動機で選択し、後で馬鹿を見るのは自分自身だと。
現実を見て甘い夢を抱かず、堅実に生きていくことが賢い大人の生き方なのだとする考えは理解できる。きっと本来俺もそちら側の人間だから。リスクなど極力抱えたくはない。
ただ、それを唯一の正しさだとは思っていない。
「何かを選ぶ動機なんてきっと何だっていいんですよ」
興味があるから、楽しそうだから、初めはそんなものでいいのだと思う。仰々しい理由は必要ない。大切なのは選び進んだ道をどう生きるかだ。
それに誰も彼もが現実的で堅実に生きる世界なんてつまらない。
「人は色々言うかもしれませんけどね。けど結局最後に決めるのは自分自身です。当然ですよ。自分の人生なんですから。それを他人の判断に丸々委ねてしまうなんて嫌じゃないですか。大事なことだからこそ自分が納得できるものでなければ。だから自分で決めて自分の生きたいように生きればいい」
リスクを理解した上でそれでも進みたいと言うならもう俺に言えることはない。これは彼女の人生なのだ。一度きりの人生。どうせなら自分勝手に生きた方がいい。
「東雲さんは高校生です。大分大人に近くありますが、それでもまだまだ子供です。なら多少のワガママは許されるんじゃないですか。せめて自分の進路くらいはね」
「空くん、もっと現実的な考え方していると思ってた」
「なるほど。間違ってはいないですよ」
寧ろ彼女の認識は正しい。現実的な考え方はやはり大事だ。もし俺が彼女の立場にあり、より多くの情報があったら、将来のリスクを考え芸大美大受験などしなかったかもしれない。けれど
「それでも現実は美大でファインアートやってた人間ですよ? 僕」
俺はその道を選んだ。堅実を語りながらも実際に進んだのはその真逆の道だ。
「説得力ないでしょ?」
「それもそうだね」
彼女がクスッと笑う。
俺は夢を諦めてしまったがそれは彼女には関係ない。彼女が夢を追うか、現実を見るかで迷っているなら前者を押す。迷いもないのなら尚更だ。
「それに、仮に反対したところで諦めないでしょ?」
彼女の諦めの悪さはよく知っているのだ。この数ヶ月そこらで思い知らされた。
「うん……うん!」
彼女は自分自身の心を確認するように、納得するように頷いた。
「心が決まっているなら後は迷わず進んでください。まずは親御さんの説得ですね。正規に入会するのが難しいようなら講習会はどうでしょう? 夏休み中どこの予備校も大抵は講習会を開催しています。外部生も受け入れているのでそれに参加したいと打診してみたらいいかもしれませんね」
「講習会……うん、そうだね! そうしてみる」
希望を得たようにパッと笑顔を浮かべ意気込む彼女に俺も頷く。
目指す駅はもう目前だ。
街灯に照らされる薄暗い遊歩道を抜けると視界は開ける。
こうこうと灯る様々な明かりはいつもより余計に眩しく感じ、その光景を少し美しいと感じた。そして
「空くん」
俺の名を呼び見上げてくる彼女の笑顔は
「私、諦めないよ!」
そんな光景すらも霞むほどに眩しかった。
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