プロローグ
青に吸い込まれる気がした。
目の前に空が広がっている。
青い、青い、どこまでも続くような青い空。
空気が澄み渡っているため一際高く、広く、より壮大に感じる。
まばらに浮かんだ様々な形の白い雲はアクセントになり、陽光によってできたその陰影がこの空に更なる透明感を与えている。
青くて透明な空。
腕を大きく広げ深く息を吸い込んだ。すると自らもその青に染まり透き通ったかのように錯覚する。まるでこの空の一部になったかのようで気分が高揚した。
迫りくるような一面の青に思わず目を瞑る。
身体は浮かび上がり、混ざり合い、そして吸い込まれる。
際限なく広がる青空に。その遥か彼方へと。
けれど目を開いて愕然とする。変わらず見下ろしてくる空に自分が自分でしかないことを突き付けられた。そして息が抜けていくほどにその実感と落胆が大きくなっていく。
大きく広げた腕で空を抱え込もうとするも当然そのようなことは叶わず、いかに空が広大であるか、そして自分がちっぽけであるかを思い知らされた。
そんな落胆と共に現実へと戻される。
背に冷たく硬い感触。所々にある鈍い痛み。
肌を撫で髪を揺らす冷たい風。目を眩ませる陽光。
地面に大の字に寝そべる自分。
のそりと身体を起こし大きく伸びをすると身体のあちらこちらでミシミシと音がした。最後に首をパキッと鳴らすと周囲を見回す。
自分の他に人の姿はない。
一面に続くコンクリートの地面。周りを高いフェンスが囲っており、その先には青空が広がっている。
日差しに目が眩み堪らず視線を逃がした先の地面にはまるで自らの存在を証明するかのように影が伸びている。けれどこの場においてその光景はどこか虚しさを感じさせた。
立ち上がり身体の汚れをはたき落とすとフェンスの前まで行き再び腰を下ろした。そして改めて周りの景色へと目をやる。
運動部が走り回るグラウンド、その先に広がる一面の田園風景、遠く霞んで連なる山々。
ありふれた、見飽きた景色。
俺はそれらをただぼんやりと無感動に眺めた。
つまらない。
今見ているこの景色に限らず、日常におけるあらゆる物事が色褪せて見える。
昔から無感動な人間だった。多くの人が感動することに共感できないことが多々あり、そしてそれは今日まで続いている。
一時は色を、その輝きを感じたこともあったが、それももうない。
色褪せてしまったこの世界で自分の心には未だに日は昇らない。光は、色は戻らない。
今や俺の心を震わしてくれるのはこの青い空、そして———
空くん!
目の前に少女が立っている。
彼女はその顔に笑みを浮かべ俺の名を呼ぶ。
俺も擦れるような声で彼女の名を呼んだ。
すると彼女はやはり笑みを浮かべ、俺に向けて手を差し出した。まるで誘うように。導くかのように。
迷いは一瞬。俺は手を伸ばす。
そしてその手を取ろうとしたところで彼女の姿は掻き消えた。
一瞬呆け、そして自嘲気味に笑みを漏らす。そのままフェンスへと力なく寄りかかり上着のポケットから缶を取り出した。
ホットココア。
彼女がよく飲んでいたものだ。
それを両手で弄びながら彼女との日々を思い返す。
彼女と過ごした時間は決して長くはなかった。けれど短くもなかった。俺にとってはこれまで生きてきた二十年そこらの人生の中で最も濃く、大切な時間だったと言える。
彼女にとってはどうだったのだろう?
彼女にとって俺と過ごした日々はどうだったのだろう?
彼女は俺のことをどう思っていたのだろう?
何故彼女はああしなければいけなかったのだろう?
それは俺には分からない。
彼女が描きたいと言っていた絵がどういうものだったのかももう知ることはできない。
あの約束を守ることは、もうできない。
缶のプルタブを開けると微かに湯気が立った。中身は大分温くなっている。そしてより冷めていく。
彼女に対するこの想いもこのココアのように時間と共に冷めていくのだろうか?
それが良いことなのか悪いことなのか、それは今の俺には分からない。
そこで不意に辺りが暗くなった。
見上げるとあんなに差していた陽の光が流れてきた雲によって遮られている。それだけで随分と肌寒く感じた。
手に持った温いココアを一口飲む。
とろみのあるココアが口の中を流れていく。
「……甘」
その呟きは誰の耳にも届かず、高く広い青空へと消えていった。
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