【ゲートの避難小屋-1】アデラという女
「もう、歩けません」
ティーナは素直に音を上げることにした。
歩き始めてからかなりの時間が経った。積もった雪の中に足が沈み込まないようにするため、茅で編まれた丸い板のようなものを靴に取り付けているから、なおさら歩きにくい。慣れない歩き方に、どんどん体力が吸い取られていくのだ。
もう相当な距離を進んできただろう。ティーナの体感では。あくまでも、ティーナの体感では。
先を歩くイェルドが振り返って、溜め息をつく。
「早ぇ」
「慣れてないのです!」
「ちっこくもちびでもガキでもないんだろ。歩け」
「無理なものは無理です」
駄々っ子と思われようと、事実足は動かない。
せめて休ませてくれ、とイェルドを見上げた。
ここまで6日。残りは7日。
今日も相変わらず雪だ。イェルドの広い肩の上には、たっぷりと雪が積もっている。
それを無造作に払い落としたイェルドは、もう一度溜め息をついて言った。
「乗れ」
「本当に背負ってくださるのです?」
「疑うのならやめる」
「疑ってません!」
ティーナはすかさずイェルドの背中に飛びついた。気が変わられても困る。
勢いをつけすぎて、ばらばらとティーナの身体から雪が舞った。
「落ち着け、」
「ガキじゃないです」
「ならちんちくりんだ」
「悪化してるじゃないですか」
それでもティーナが背中へとよじ登ろうとすると、横向きにした槍の柄がティーナのお尻の下へと回される。
「これに座れ」
「あ、え、はい」
大人しくその上に座れば、イェルドは背中側へ回した両手で槍を持ち上げた。普通に背負う代わりに、お尻の下にだけ槍を通しているような格好だ。
ティーナも慌てて、イェルドの首へ腕を回す。
「おい首を絞めるな」
「失礼しました。不思議な背負い方ですね」
「女を背負うときは大抵こうだ。変な容疑をかけられちゃたまんねえ」
「変な容疑?」
「……あんたには要らん気遣いだったな」
イェルドが歩き出した。ふわりと身体が浮き上がったような感覚に、思わずイェルドにしがみつく。
「おい」
それ以上は何も言われなかったけれど、腕を緩めた。
イェルドはわざとらしく深呼吸をすると、歩調を早める。
そうして、しばらく歩いた時だった。
イェルドがぴたりと足を止める。その視線が、すっと空へと流れた。
ティーナもイェルドが見ている空を見つめるが、いつも通りの分厚い雲が続いていくばかりだ。ちらちらと降ってくる雪も、普段と違った様子はない。
イェルドが呟いた。
「吹雪になるな」
「え、わかるものなのです?」
「ああ。予定変更だ、急ぐぞ」
急に歩く速さが上がった。振り落とされそうになって首にしがみついても、イェルドは文句を言わなかった。
歩きます、と言おうとしたけれど、正直ティーナの足では、ティーナを背負ったイェルドにも追いつけないだろう。急いでいるなら、なおさら大人しく背負われていたほうが良い。
次第に顔に当たる雪が強くなってきた。びゅうびゅうと吹き荒ぶ風が、銀色の髪を乱していく。
骨の髄まで忍び込んでくるような寒さに、小さく震えた。
「あと少しだ。我慢しろ」
すかさず返ってくるイェルドの声も、風に攫われて遠く聞こえる。
イェルドの足取りがわずかに重くなった。向かい風であることに加え、足元に雪がまとわりついているのだろう。
それに、イェルドは平然としているように見えるけれど、ティーナの体重だって決して軽くはない。
真っ白な雪は見慣れていたはずだ。それでも、殴りかかるように顔に吹き付け、容赦無く体温を奪い、感覚という感覚を曖昧にしていく雪は、何か全く違うものに見えた。
急に、自分の鼓動の音が強く聞こえ始めた。次第にその音が高まっていくのを、イェルドの背中に頭をつけて聞いた。
やはり歩きます、と言おうとしたところで、イェルドが口を開いた。
「着いたぞ」
その声は平静を装っているが、やや息が上がって掠れていた。
視界はほとんどが白く染まっている。目を凝らせば、ぼんやりと建物のようなものが浮かび上がった。
「こういう時のための避難小屋だ。先客がいたら我慢しろ」
「大丈夫です」
「貴族だとバレるなよ。髪も隠せ」
「はい」
結局ティーナを背負ったまま、イェルドは小屋の戸を叩いた。
内側から、うっすらと扉が開けられる。
「どなた?」
女性の声だった。ゆったりとした、落ち着いた声だ。
それを聞いた時、イェルドの肩からふっと力が抜けたのがわかった。
「アデラか。俺だ」
「イェルド! 久しぶりね、どうぞ」
扉が大きく開け放たれ、イェルドが中に入った。
途端に暖かい空気がティーナの身体を包み込む。思わず、ほっと息が漏れた。イェルドの背中から滑り降りれば、ばらばらと雪の塊が床に散る。
「イェルド、雪は外で落としてきてよ」
「落としただけ積もんだろうが」
「床が濡れるわ」
そうぼやいたアデラという女性は、少しして、ティーナの存在に気がついたようだった。
黒髪自体はよく見る色ではあるけれど、艶がありゆるりとうねって腰まで伸びている。身体を清めたばかりなのか、まだほんのりと湿っていた。
どこか異国の血が入っているのか、濃い緑色の瞳が印象的だった。長い睫毛が、ふわ、と瞬く。
「イェルド、この子は?」
「ティーナ。仕事だ。あとちっこいが大人だ」
「ティーナと申します。よろしくお願いいたします」
外套に手を伸ばしかけて、やめる。
アデラは一瞬面食らったような表情をしたが、すぐに笑顔を浮かべるとティーナの手を握った。
「初めまして、ティーナ。私はアデラ」
柔らかい手だった。短いけれど形よく整えられた爪が、とても綺麗な。
「アデラ、しばらく邪魔するぞ」
「別に、私の家じゃないわよ」
「それもそうだ。なんか食いもんあるか」
「第一声がそれ?」
呆れたような声を出したアデラは、けれど立ち上がってイェルドを追って奥へと入っていく。
ひとり取り残されたティーナは、身体に残っている雪を払い落としていた。
「アデラ、わざわざ何の用だ?」
「相変わらず言い方が下手くそね。だから誤解されるのよ」
「今それは関係ないだろ」
「そう? まあいいわ、私はニラスまで。仕事で伝令」
「そうか」
奥から聞こえる二人の話し声を聞くともなく聞きながら、ティーナは外套を脱いだ。
こうしていても、扉越しに吹雪の気配を感じる。
経験したこともない強い風と雪に、先ほどまで胸の底が冷えるような恐怖を味わっていたはずなのに。
床に落ちた雪が、少しずつ溶けて広がっていく。
じんわりと床の色を変えていくそれをぼんやりと見つめていれば、部屋の奥からイェルドの声が聞こえてきた。
「来ないのか?」
「行きます」
立ち上がって、思う。
そういえば、ティーナと、呼ばれたことはないな、と。