【ツェルクの町-2】噂の真偽
ツェルクの宿に辿り着いた頃には、かなり日が傾いていた。
宿屋の主人と値段交渉をしているらしいイェルドを横目に見ながら、ティーナは渡されたお茶を片手にぼうっと立ち尽くしていた。
昼頃から降り始めた雪は、今や本格的に積もり始めている。
火から離れた場所は、身体の芯まで染み入ってくるような寒さだった。部屋の隅に備え付けられた暖炉へと歩み寄れば、そこに集まっていた男たちはさっと場所を開けてくれる。
「ありがとうございます」
素直に好意に甘えることにして、暖炉の側に腰掛けた。
お茶を横に置いて火に手を翳せば、かじかんでいた手がじわじわと炙られるようだ。
癖で外套の帽子を下ろしかけて、慌てて止める。ティーナの高い魔力を反映して銀色に輝く髪は、下町ではひどく目立つのだとイェルドに言われてしまったからだ。
そのイェルドはといえば、何やら宿屋の主人と言い争っている様子だった。表情には出していないが、イェルドが苛立っているのがわかる。
これは長くなるな、とティーナは一口お茶を啜った。
「嬢ちゃん」
ティーナは目を閉じた。少しずつ身体が温まってくる。
「嬢ちゃん! そこの、茶色い外套の」
「……わたしですか?」
ティーナは顔を上げた。人懐っこい表情の青年とぱちりと目が合う。
青年は癖っ毛の黒髪を揺らして、大きく頷いた。
「そうだよ! そんなふうに近くで急に手をあっためると、後で痒くなるぞ」
ティーナは手元を見た。
そして顔を上げれば確かに、今にも火に突っ込みそうなほど暖炉ににじり寄っているのはティーナくらいで。
「それならどうするのです?」
「色々あるけど、おすすめは暖炉の近くに手袋を置いといて、後ではめる方法かな」
「そうなのですね。勉強になります」
ティーナは素直に頷いて、手袋を置くと火から下がった。
それで終わりかと思いきや、青年はティーナへと話しかける。
「嬢ちゃん、名前は?」
「ティーナです。そしてわたしは、あなたが思っているよりも大人です」
青年はティーナとそう年も変わらないように見えるのに、青年がティーナを見下ろす目は、デビュタントしたばかりの少女たちを見るそれだ。
自分の容姿が幼く見えることは知っているけれど、こうして子供扱いされることは好きではない。
ティーナはちっこくも、ちびでもないのだ。
唯一大人らしく見える胸を張れば、青年は目を泳がせると頭をかいた。
「ごめんごめん。俺はペータル」
「ペータルさん」
「そんな、ペータルでいいよ」
ペータルは大きな目を輝かせて言った。
「ティーナ、今日はひとり?」
「護衛がいます」
「そっかひとりか」
ティーナはこてんと首を傾げて、もう一度繰り返す。
「護衛と道案内をしてくださる方がいます」
「でも金払ってるんでしょ?」
「ええ、もちろん」
「それなら、旅の道連れとは言わないでしょ」
「そういうものなのです?」
ティーナは目を瞬かせた。
イェルドも、自分のことは空気だと思っていれば良いと言った。言ったけれど、やはりティーナはそうは思えない。
一緒に旅をしているのだから、同じものを見るし、同じ宿に眠るし、同じものを食べる。同じものを食べれば、感想を語りたくなる。そういうものではないのだろうか。
「ティーナはどこ向かってるの?」
「ユギラの町です」
案の定、ペータルは困惑したような顔をした。
小さな町だ、名前を知っている方がおかしい。ティーナはすかさず付け加えた。
「神の顎の近くの町です」
「神の顎? なんか聞いたことあるな、なんだっけ」
ペータルは頭を抱えて唸る。しばらくそうしていたけれど、ぱっと気がついたように顔を上げた。
「あれだ、巨人の生贄!」
その瞬間にどきりと跳ねかけた心臓を抑えた。まさか見抜かれただなんてことはないだろうけれど、そんなにも有名な話なのだろうか。
しかしペータルは、ティーナの顔を見て一笑に付した。
「なんかちっこいころに聞いたわ。なんだっけ、あの、生贄様が巨人の生贄になることで国が春を取り戻したみたいな」
「それは誇張ですね。巨人の生贄の目的は、巨人の怒りを収めて、国に被害をもたらす雪崩や吹雪などを減らすことにあります」
ティーナはごく真剣に言った。
しかしペータルは、呆れたような、からかうような調子で言う。
「まだ信じてるのか。そんなのずっと昔からある、子供を怖がらせるための話だろ。冬に山の中に入ったら巨人に喰われる……ってね」
やっぱり子供だな、と言われた気がした。
「わたしはちっこくないです」
「そ、そうか」
すかさず言い返したけれど、ペータルの反応は悪い。さらに一言文句を言ってやろうとしたところで、ペータルが何気ない調子で言った。
「それならさ、俺もしばらく道一緒だし。ほら、シクの町までだから、一緒に行かね?」
シクは通り道だ。
だから問題はないのだけれど、ペータルの真意がわからない。
「どうしてです?」
「どうしてって……ひとり旅は寂しいでしょ。ほらティーナみたいな女の子と一緒だったら、旅も楽しくなるかなって」
ティーナに言わせれば、イェルドがいるのだからこの度はひとり旅ではないし、ティーナと旅をしたところでペータルが楽しめるとは思えない。
けれど、何より、この旅は辞世の旅だ。イェルドに加えて、ペータルまで巻き込むべきではないと思った。
「せっかくのお誘いですが……わたしは急ぐので」
遠回しの断り文句は、ペータルに伝わらなかったようだった。
ペータルは身を乗り出すと、熱を帯びた口調で言う。
「全然付き合うって! ティーナくらい可愛いと、ほら、色々心配でしょ? 俺が守ってあげるからさ」
「護衛がいますので」
「護衛って、そりゃ盗賊とかからは守ってくれると思うけど。でもそれだけじゃん?」
それだけなのか、と思った。
イェルドは生活するための常識から何から、全てティーナに教えてくれるし、道選びも、宿の手配も、世間知らずのティーナの代わりに全て受け持ってくれる。
それが普通ではないというのは薄々察していたけれど、やはりイェルドは優しいのだ。
そう言ったら、それだけの金は取っている、と仏頂面をするだろうけど。
その顔を想像してティーナがくすりと笑えば、それを誤解したらしいペータルがティーナの手を握った。
ぱっと手を引こうとしたけれど、強く握りしめられたペータルの手がそれを許さない。
「ほら、楽しい旅になるよ?」
ティーナが困っていることは、ペータルに伝わっていないようだった。ぐいぐいと、驚くような勢いでティーナを誘い続ける。
何度目かの断りの言葉を紡ごうとした時、上から声が降ってきた。
「おい」
「イェルド様!」
縋るようにイェルドを見上げた。どうしたら引き下がってくれるのかがわからない。
イェルドはティーナを見てため息をついた。
「断り方がお上品すぎる」
「それならどうすれば良いのです」
「あんたには興味ないから去れ、だ」
「そんな、失礼では」
「『狂犬』イェルド?」
ペータルの声だった。
一瞬にして顔を青ざめさせたペータルは、熱いものにでも触れたように手を引っ込める。
イェルドはじろりとペータルを睨んだ。その眼光は鋭かった。
「だとしたら?」
「ティーナ」
ペータルが声を落として、ティーナに囁いた。
「まさか『狂犬』が護衛?」
「イェルド様が、わたしの護衛です」
「やめた方がいい、ほんとに。噂を知らないの?」
「知ってます。知ってますけど」
ティーナは立ち上がった。
先ほどから、ティーナたちのやり取りに聞き耳を立てていた人がいることには気づいている。イェルドの名が出た瞬間に、さっとティーナたちから離れた人もそれなりにいた。
イェルドの名は、こんなところまで届いているのだ。
「イェルド様は」
ティーナは声を張った。そこにいる全員に聞かせるように、ぐるりと辺りを見渡す。
ふつふつと、熱いものが胸の奥で滾っていた。久しぶりの感覚だった。
「良い人です。最高の護衛で、道案内です。わたしは今の倍払ったって、イェルド様を雇いたい」
ティーナはぎゅっと両手を握りしめた。溜め込んでいた思いの丈を吐き出すように、けれど声を荒らげないように気をつけて、続きの言葉を紡ぐ。
「皆さん噂に踊らされすぎです。イェルド様と言葉を交わしたことがある人はここにはほぼいないはずです。その人の事情も知らないのに、噂の真偽もわからないのに、どうしてそんなふうに言えるのか、わたしにはわかりません」
しんと辺りが静まりかえった。何人かが気まずそうに顔を逸らした。
さらに言葉を続けようとしたティーナの頭の上に、大きな手が乗った。
「やめとけ」
「イェルド様! でも、わたしは」
「危ない噂が立ってるやつに近寄りたくねえってのも、人として当たり前のことだろ」
イェルドに手を取られた。そのまま手の中に鍵を捩じ込まれ、くいと引かれる。
「部屋に行くぞ」
「……わかりました」
ティーナはちらりと後ろを振り返った。ペータルは引き攣った顔で、ティーナから目を逸らした。
イェルドに促されるまま階段を登っている間も、どうにも腹の虫が収まらない。いつまでもむくれているティーナに、イェルドが苦笑した。
「仕方ねえよ。誰もがあんたみたいに考えるわけじゃない」
「イェルド様はあのままでいいんですか?」
イェルドは肩をすくめて、仕方ねえだろ、と繰り返した。
床を軋ませながら歩いていけば、すぐにティーナの部屋の前へとたどり着く。お休み、と言ったイェルドは、踵を返し自分の部屋に戻ろうとして、足を止めた。
「……だが俺は、あんたのそういうとこ、嫌いじゃねえ」
「それは」
その先の言葉を探してティーナが黙っているうちに、イェルドは歩き始めてしまった。
その背中から、小さな声が聞こえた。
「ありがとな」
ティーナは目を瞬かせた。ティーナが、理不尽な行動を許せなかっただけなのだ。お礼を言われるようなことをしたつもりはなかった。
それでも、小さく答えた。
「はい」
廊下の向こうで、かすかな笑い声がした。




