【ランデルの町-2】気になるのです
「おい」
遠くから聞こえてくるようなその声は、少し怒っていた。
「起きろ、馬鹿か。鍵もかけずに寝るな」
「……ん」
「起きろっつってんだろ!」
抑えた声で怒鳴られて、ティーナは飛び起きた。
しばし状況がわからず、何度も瞬きをして意識をはっきりさせる。指を伸ばして眉間を揉んだところで、こちらを見つめる目つきの悪い目に気がついた。
「イェルド様」
「寝るなら鍵をかけろ」
「鍵……」
イェルドが、指先に引っ掛けた鍵を回す。
「待てよ、まさか、鍵をかけたことないとか言わねえよな?」
「……」
「わかった、俺が悪かった。全部世話焼いてやる」
「……言い方に棘を感じます」
ティーナはぼんやりとした目で見つめ返した。イェルドが舌打ちをする。
「そりゃ、棘を含ませてるからな。これに懲りたら二度とこんなことすんな」
「はい。お金、わたしが持ってますもんね」
「違う」
イェルドが溜め息をついた。
その瞬間、とん、と肩が押される。なすすべもなく、寝台の上に倒れ込んだ。すかさず覆い被さってきた身体。イェルドの大きな手が、ティーナの手首を押さえつける。
「……え?」
「抵抗しろ馬鹿」
「なぜです?」
「なぜ、って……」
どんな生活を送ってきたんだか、とイェルドがぼやいた。
耳元に口を寄せられ、小声で説明される。聞き終えた瞬間、かああ、とティーナの顔に朱が差した。
「だ、だって、そういうことは結婚してからって」
「お貴族様はそうかもな。言っとくが平民は違うぞ。そうなりたくなかったらもっと警戒しろ」
ティーナは壊れた人形のように首を縦に振った。その姿にようやく溜飲が下がったのか、イェルドが立ち上がるとティーナを見下ろす。
「しっかし、お貴族様ってのはどんな生活してんだ」
「わたしの場合は、普通の貴族とは違うと思います」
「どういうことだ?」
えっと、とティーナは言葉を探した。
イェルドに生贄のことを話すつもりはない。
「わたし、生まれつき、人と違うところがあって」
嘘は言っていない。
それが完全に真実ではないというだけで。
「……ああ、病気みたいなやつか」
イェルドの目に、いたわるような光が浮かんだ。悪いことを聞いてしまった、という様子だ。
やはりイェルドは優しい。
ティーナは是とも否とも答えず、言葉を続けた。
「それで、幼い頃から神殿暮らしでした。普通の貴族はそうはしません」
「そういうもんか」
イェルドが、話しすぎた、というように相槌を打った。
その黒い目から、すっと感情が消える。指にかけていた鍵をティーナに向かって放り投げたイェルドは、扉に向かって歩き始めた。
その背中を、呼び止めた。
「イェルド様」
「何だ。俺は寝たい」
「すみません。……その、先ほどの殿方は」
「なんだ、聞かねえんじゃなかったのか」
「それが」
気になりまして、と呟いた。
立ち入るつもりがなかったのは本当だ。本当だけれど、
「すみません。取り消します。聞きたかったのはそちらではなく、」
「汚れてない、の方か?」
「どうしてわかるのです?」
「顔を見りゃわかる」
イェルドが苦笑した。
柔らかい笑みだった。今までに見たことのないような。
ティーナの視線に気がついたイェルドは、すぐに元の仏頂面に戻ってしまった。
「汚れてないって、言葉通りの意味だ」
「それが、よくわかりません」
「何というか……俺が気にしてた男いるだろ?」
急に話題が飛躍して、考える間もなく素直に頷く。
「あいつは昔の仕事で関わった男なんだが……ああ、『狂犬』の異名がついた後の仕事だ」
「はい」
ティーナは神妙に相槌を打った。だが、イェルドはそれを笑い飛ばす。
「大したことじゃない。俺の命を狙ってるだけだ」
「はい。……えっ!?」
「まともな仕事が入ってこねえんだよ、だから仕方なく関わったのが失敗だったな。しつこいったらありゃしない」
「そういう、ものですか」
「言っとくが、あんたのそれもまともな仕事のうちに入らねえからな」
「えっ」
思わず声が漏れた。イェルドのじとりとした視線を感じる。
「当たり前だろうが」
扉に歩いて行ったイェルドが、ノブに手をかけた姿勢のまま口を開く。
「汚れてないってのはそういうことだ。俺がこの世の汚れたもんを被りすぎた」
「……そうですか?」
ティーナは立ち上がった。
イェルドの顔を見上げた後、あっさりと言う。
「わたしにはよくわかりませんが、イェルド様は良い人です。汚れているとは思いません」
「そういうとこの話をしてるんだが……全く伝わってないってことがわかったよ」
イェルドは視線を伏せた。そのまま扉を押し開いたところで、ティーナがもう一度口を開く。
「イェルド様」
「今度はなんだ」
「わたしが嫌いですか?」
「……は?」
ティーナはじっとイェルドの目を見つめた。
ずっと思っていたのだ。イェルドは面倒見が良く、ティーナのように困っている人間を見捨てられないが、時折拒絶するような、深入りするのを避けるような態度を取る。
もし嫌われていても解放はできないけれど、それ相応の行動は取るつもりだった。
「……依頼主に好きも嫌いもねえだろ」
「それでもイェルド様も人間でしょう?」
「言っただろ」
イェルドの視線が鋭くなった。
「俺は、仕事に私情は持ち込まない」
これ以上踏み込んでくるな、という壁を感じた。
ティーナは素直に頷いて、一歩下がる。
「わかりました。それではまた明日」
「ああ」
短く返事をしたイェルドは、足早に部屋を出ていく。
隣の部屋の扉が開いて、閉まる音がした。少しだけ怒ったような音だった。
互いの利益だけで繋がっている仲だ。拒絶されるなら、無理に踏み込む必要はない。
そう思うけれど。
「……気になるのです」
この感情は、一体どこから湧いてくるのか。
言われた通りに鍵をかけたティーナは、素早く身支度をすると、今度こそ深い眠りについた。