【マーセンの街-4】辞世の旅
広くはない部屋だった。小さな机や寝台が壁のすぐそばに置かれ、部屋の中央には炉がある。うっすらと埃の舞うこの部屋は、あまり使われていないようだった。
窓が閉め切られた室内は薄暗かったが、イェルドはすいすいと奥へと進んでいく。
「ほら」
イェルドの声と共に、何かが飛んできた。咄嗟に受け取り損ねて、慌てて拾い上げれば、それは一枚の毛皮だった。
これまた質は良いのだろうが、かなり古いもののようだ。使い込まれて、独特の光沢を放っている。
「さっさと被れ。ましになる」
言われた通り身体に巻きつければ、身体をずっと押し包んでいた寒さが少し遠くなった。
途端に、がたがたと身体が震えだす。ぶつかり合って小さな音を立てる歯の隙間から、ティーナは声を絞り出した。
「どうやらわたし、寒かったみたいです。ありがとうございます」
「遅ぇ。自分で気づけ」
辛辣な口調に反して、もう一枚毛皮が飛んできた。
やはりティーナの目は正しかった。イェルドは、口は悪いが良い人だ。
手早く埋み火をかきおこして火を入れたイェルドは、すぐにティーナへと振り返った。
「あんたは本気で俺に依頼しようとしてんのか?」
「ええ。気に入った殿方は、しがみついてでも口説けとお兄様が言っていました」
「あんたの兄は何者だ? ……まあいい、でもあんたも聞いただろ」
「何をです?」
イェルドの目が、探るように伏せられた。やや低くなった声が響く。
「『狂犬』だって」
「ああ」
ティーナは手を合わせた。
「ちょうど聞いてみたかったのです。それは本当ですか?」
「……俺に聞くのか?」
「本当のことは、本人に聞いてみないとわからないものでしょう?」
それはそうだが、とイェルドが呟いた。
しばらく口の中で言葉を探していたイェルドだったが、やがて溜め息をつくとどっかと床に座り込む。
「本当だ」
「そうですか」
イェルドは目を瞬かせた。火に向かって伸ばされかけていた手が、ぴたりと止まる。
「終わりか?」
「ええ」
「それでも俺を雇いたいと?」
「そうですね」
ティーナはぎゅっと毛皮を引き寄せた。
「イェルド様は信用のおける方です」
ティーナは毛皮に頬を寄せて、笑った。
様々な生き抜く術を身につけていて、腕が立ち、面倒見が良い。これ以上ない人選だ。
胸を張ったティーナに対し、イェルドは呆気に取られたような表情を浮かべていた。
「俺があんたに手をあげるかもしれねえぞ?」
「先ほど助けておいて、ですか?」
「……」
言葉に詰まったイェルドに、ティーナは問いかける。
「雇われてくださいますか?」
イェルドが目を伏せた。ふう、と漏れた息が、一瞬だけ白い雲を浮かび上がらせて消える。
やがて、イェルドはゆっくりと目をあげて、言った。
「いいだろう」
「ありがとうございます!」
「ただし」
イェルドは淡々と言った。
「俺は、仕事に私情は持ち込まない主義だ。仕事以上の働きはしない」
はしたなく上がりそうになる口角を片手で隠して、ティーナは大きく頷く。
「ええ。構いません」
イェルドへと駆け寄って座り込んだティーナは、手袋を外し、手を差し出した。
「……なんのつもりだ?」
「握手です。信頼関係を築くときにはこうすると、」
「お兄様が言っていた、か?」
ティーナは笑った。
「ええ」
同じように手袋を外したイェルドが、ティーナの手を取る。
冷え切った手に、大きな手の熱がじわりと染み込んできた。その手を握って、ティーナは勢いよく上下に振った。
❆’゜:*。
「わたし、可愛いですか?」
新しい外套の裾が、ふわりと靡く。
足首まである長い外套は、身体に巻きつけ、腰の辺りを別の布できゅっと締める作りになっている。帽子の周りと手首、裾に毛足の長い毛皮が取り付けられているのが、なんともおしゃれだ。
ティーナは帽子の毛皮に顔を埋めて、上目遣いにイェルドを見上げた。
「……」
すたすたと歩いていくイェルドは、答えようとしない。その手に握られた荷物を持とうと手を伸ばせば、ひょいとその手が持ち上げられた。
「わたしの荷物です。わたしも持ちます」
「ただでさえ足が遅いんだ。これ以上待てるか」
最初の1日は、買い物に費やされた。
イェルド曰く、ティーナの格好は、到底北に向かえるようなものではなかったらしく。たっぷりと毛皮を使った外套に分厚い手袋、雪の中を歩ける靴と、昨日から今日にかけて大量のものを買っている。加えて蝋燭や食料など、移動のために必要なものも。
ちなみにもちろん、そのお金はティーナの革袋から出ている。
腰に取り付けていた革袋は、イェルドの助言によって胸元にしまわれたが、それでもずっしりと重さを保っている。ようやく、最初にティーナが提示した額が非常識であったことを悟った。
胸が押されて痛いと文句を言ったら、イェルドに黙れと頭を叩かれた。胸の開いたドレスも映える、ちょっと自慢の胸だ。
まあ、もうドレスを着る機会もないのだけれど。
物心ついた時から神殿で暮らしていた。膨大な魔力を大切に溜めながら、神に祈りを捧げて18までを過ごした――というのは建前で、こっそり書庫に忍び込んで本を読んだりはしていた。
あとは時折訪ねてきてくれるお兄様と話したり、やってくる孤児たちと遊んでやったり。ドレスを着るのもそんな時だった。
類を見ないほどに強い氷の魔力を抱えて生まれた子供は、昔から巨人の怒りを鎮めるために捧げられると決まっている。
高位の貴族ほど強い魔力を持つことが多い。だから生贄は高位貴族から選ばれるかと思いきや、歴史に残る数人の巨人の生贄たちは、みな伯爵家や子爵家の生まればかりで、そこに貴族の云々を感じなくもない。
けれど、ティーナはそれでも良いと思っていた。
孤児院の子は可愛い。ティーナを姉と慕ってくれる。
神殿に足繁く通ってくれた兄も、両親も、大切な家族だ。
だからティーナが生贄になることで、巨人の怒りが鎮まり、雪崩や災害に怯えることなく皆が暮らせるというのなら、それはきっと幸せなことなのだ。
「おい、だから歩くの遅いっつってんだよ」
「イェルド様が早いのです。身長差を考えてください」
「確かに、あんたちっこいな」
「ちっこい、は禁句です」
思い切り睨み上げれば、イェルドが楽しそうに笑った。
「ほら行くぞ、ちび」
「悪化してます。わたしはもう大人です」
「はいはい」
小走りになって、イェルドの大きな背中を追いかける。
神の顎まで13日。頑張って引き伸ばしても15日。
その間だけは、ティーナは自由だ。
魔法さえ使わなければ、本の中から憧れていた場所も見られるし、ご飯も食べられるし、服も着られる。
ティーナは買ったばかりの外套を見下ろして、小さく笑う。
言うなれば、辞世の旅。
せっかくなら、思い切り楽しむつもりだ。
「買い物は終わりか」
「そうですね」
「何を買うべきかわかってないだろうが」
「イェルド様が終わりだというのなら、そうなのでしょう」
肩をすくめたイェルドが、街の門を指差した。
「行くぞ」
「ええ」
足を一歩踏み出した。大きな通りだ、踏み固められた雪に足跡は残らないけれど、ティーナにとっては最初の一歩。
ふふ、と笑って、イェルドに続く。
その時だった。
「あっ! イェルドに一目惚れした嬢ちゃん!」
斡旋所で会った男が、ぴしっとティーナを指差した。
「良かったな! 口説き落としたんか!」
ぎぎ、とティーナはイェルドを見上げた。
温度のない黒い瞳が見下ろしてくる。
誤解なんです、と呟いた。
ああそうか、とイェルドが言った。
それでもその目は、変わらない。
「……俺を雇ったのは、まさかそのためか?」
どうやら、まだまだ、出発までには時間がかかりそうだった。