【マーセンの街-2】『狂犬』イェルド
「でかくて黒髪の目つきの悪い男ぉ?」
周りの人に道を聞いて回り、やっとのことで斡旋所にたどり着いたティーナは、とりあえずと入り口近くにたむろしていた男たちへと声をかけた。
分厚い暗色の木の扉は入るものを選ぶ雰囲気だったが、ティーナが躊躇することはない。
「ええ。探しているのです」
そんな男はどこにでもいるだろう、と言われると思っていたから、答えを期待していない質問だった。
現に目の前の男だって、ティーナより身長は高いし黒髪だし、お世辞にも優しい目とは言い難い。
しかし、予想に反して男はすっと笑みを消し、ティーナを見つめた。
「そいつは、長ぇ槍を背負ってなかったか?」
「槍……?」
記憶を探ってみれば、確かに長い棒のようなものを背中に担いでいたような気はする。
それをそのまま伝えると、男はゆっくりと寄りかかっていた壁から身体を起こした。
「顔に傷は?」
「わかりません。帽子を被っていて、あまり顔が見えなかったので」
「高そうなやつか?」
「ええ」
男の手が、腰へと伸びた。ちゃり、と金属が触れ合う音がする。
「あんた、あいつとどんな関係だ?」
「そ、れは」
依頼をしたくて探している、と答えるのは簡単だ。
しかし明らかに警戒されている今、そうしてしまって良いものか。あの時の彼はどうやら、普通の人間ではなさそうなので。
「ええと」
ティーナは思い出した。
お兄様が言っていたのだ。女が男を必死になって探す理由など、この世にひとつしかないと。
「一目惚れ、です」
「…………は?」
「ですから、一目惚れ、したんです!」
ティーナは胸を張った。
これで不信感を抱かれることなく、自然にあの男の正体を聞き出せるはずだ。
作戦が功を奏したのか、男の表情が変わった。
「あんた、本気か?」
可哀想なものを見る目。
まるで小さな子供に言い聞かせるように、男は言った。
「あいつだけは、やめとけ」
「なぜですか?」
「ほんとに、なんにも知らねえのな」
男はちらりと辺りに視線を巡らせ、ティーナたちを見ている人がいないことを確認する。
そしてぐっと声を落として、言った。
「あの男はイェルド。『狂犬』イェルドだ」
「狂、犬?」
ティーナは目を瞬かせた。
あの時の彼の態度は、確かに忠犬というような愛想の良いものではなかったけれど、だからと言って狂犬というのはいくらなんでも言い過ぎではないかと思う。
「そうだ。元傭兵の雇われ護衛のくせして、主人に手を上げたんだと。扱いきれない凶暴な男ってんで、『狂犬』」
そうでしょうか、という言葉を飲み込んだ。
それと同時に、彼――イェルドの、あの時の態度が腑に落ちた。
『俺?』
ティーナが依頼をしたいと言ったとき、イェルドは心の底から驚いた顔を見せたのだ。
そんな噂が流れているのだとしたら、確かに依頼をしたいという人は少ないのだろう。
けれど、とティーナは思う。
「この斡旋所には、イェルド様は来ないのですか?」
「様ぁ? ああ、いや、出禁だよ出禁」
男は肩を竦めた。
「当たり前だろ。そんな男、斡旋できるわけねえ」
斡旋所は確かに荒くれ者が多いが、信頼できる機関だ。
その斡旋所がイェルドを出入り禁止にしたとなると、主人を殴ったというのは実際に起こったことなのだろうか。
けれど、とティーナは思う。あの時のイェルドからは、そんな印象は受けなかった。
と、なると。
「それなら、どこに行けば会えますか?」
直接、聞いてみるしかない。
「やめとけ。死ぬぞ」
「もう一度イェルド様に会えなくても、わたしは死にます」
ぽかんと口を開けた男は、一拍置いて吹き出した。
嘘を言ったつもりはなかったのだけれど、何がおかしいのか、男はしばらく笑い続ける。
苦しい息の下で、男が声を絞り出した。
「わかったよ、そこまで言うなら教えてやる」
スカートを掬い取って丁寧にお礼を言うと、ティーナは斡旋所を滑り出た。途端に冷たい空気が肌にきりきりと突き刺さってくる。
イェルドが寝床にしている家があるという路地へ、言われた通りの道を辿る。
乾物の店を右、神殿と太守府の間の道を抜け、しばらく直進して、孤児院の横の路地を抜けたところの、禿げた赤い屋根の建物。
次第に雪に残る足跡が少なくなっていく中、積もったばかりの雪をさくさくと踏みながら進めば、確かにそこに、古びた屋根の建物があった。塗装はほとんどが禿げかけていて、窓は木の扉でぴったりと閉ざされている。
屋根は、赤かどうか、怪しい色をしているとは思ったけれど。
赤ということにして、ティーナはノッカーを握ると、扉を叩いた。
「すみません、イェルド様?」
答えはない。もう一度試してみる気にはならなかった。
路地を見渡し、手頃な石を見つけて腰掛ける。イェルドが帰ってくるまで、張り込むつもりだった。
お兄様には、気に入った男は死んでも手放すなと言われたのだ。何日だって待ってみせる。
寒さがじわりと身体に染み込んできた。座っているお尻がどんどん冷たくなり、服も湿っていく。
絶え間なく降ってくる雪が、襟を立てた外套と首の隙間に入り込んでくるのを払いながら、ティーナは黙ってイェルドを待っていた。
どれくらい経っただろうか。本日三度目の、膝の上に降り積もった雪を払い除けたところで、来た道から雪を踏む音が聞こえた。人の話し声も。
ティーナはぱっと立ち上がった。身体のあちこちに乗っている雪を、丁寧に払い落とす。お兄様が、殿方に会う時は一番美しい状態でなければならないと言っていたのだ。
「なんだ? 女?」
だが、次第に姿が見えてきた男は、待ち人とは違っていた。
同じように黒い髪だが、こちらは艶がない。同じように目つきも悪いが、こちらはどちらかといえば下品だ。何より、外套に帽子がついていない。
なんだ、と座り込んだティーナが気に食わなかったのだろうか。つかつかと歩み寄ってきた男は、ティーナへと顔を寄せた。
「こんなとこに何の用だ?」
なんとなく嫌な予感がして、答えなかった。
街に来て話した人は少ないが、どうやらいい人ばかりでないということも学んだ。そして勝手な印象だが、ティーナはこの人が好きになれそうにない。
「何の用だって、聞いてんだ!」
「あなたは?」
ティーナは首を傾げた。
「あなたはなぜここに来られたのです?」
「お、前、何者だ?」
「先に名乗られるのが礼儀だと思われませんか?」
「はあ? てめえ、何様だ――」
その言葉は、最後まで紡げなかった。
なぜなら突然現れた大きな手が、男の横っ面を思い切り張り飛ばしたから。
「俺の家の前で、何を騒いでいる?」
目つきの悪い目が、じっとティーナを見下ろしていた。