【神の顎〈デヴメント〉-2】本当の望み
「聞いてくださいますか? わたしの目的について」
イェルドが頷いたのを確認すると、ティーナは口を開いた。
「わたしの目的は、ここで死ぬことでした」
「は?」
ティーナはイェルドの腕の中から抜け出した。
汚れたスカートを摘んで、膝を折る。
「わたしの名前はアルベルティーナ・フリュデン。フリュデン伯爵家長女にして」
精一杯、胸を張って言った。
「巨人の生贄、です」
ぴちゃ、と溶けた氷柱の先から水が落ちる音がした。
凍りつくような寒さの中、二人は向かい合っていた。
「何言ってんだ、そんなの寝物語のうちの一つだろ」
「町ではそうなのかもしれませんね」
ティーナは座り込んで、イェルドと視線を合わせた。
いつまでも見下ろしているのも失礼に当たる。殿方は何があっても見下ろしてはいけない、小柄なティーナは有利だと、お兄様が言っていた。
ティーナはちっこくも、小柄でもないが。
「巨人の生贄は、強い氷の魔力を持つ貴族の中から選ばれます。神殿で18までを過ごし、18の誕生日に、王宮から出て神の顎を目指します」
そして。
「そこで、巨人の生贄になり、国を救います」
イェルドはかすかに口を開けたまま、ティーナを見つめていた。
ちょっと待ってくれ、と呟いたイェルドは、両手で顔を覆う。
しばらくそうしていた後、ゆっくりと、イェルドは顔を上げた。
「それならティーナは、ずっと、そのため――死ぬために、俺と旅をしていたのか?」
「辞世の旅のつもりでした」
そんな、とイェルドが喘ぐような声を漏らした。
ぴちゃん、と氷柱を伝って水が落ちる音だけが響いていた。
首筋に落ちてきた冷たい水に飛び上がったとき、突然、イェルドが拳を地面に叩きつけた。
「そんなのって、あるかよ……!」
食いしばった歯の奥から、唸り声のような言葉が漏れた。
イェルドの拳が叩きつけられた場所から、ぴしぴしと氷にひびが入っていく。
「は? 生まれた時から死ねって? ふざけんなよ」
ティーナは、憤るイェルドの姿を黙って見つめていた。
そう思っていた時期は、遠い昔に通り過ぎた。後に残ったのは、緩やかな諦念と、使命感だけだ。
ティーナが大切な人を救うのだという、ティーナにしか大切な人を救うことができないのだという、呪いに似た使命感。
ひとしきり毒吐いていたイェルドは、やがて落ち着いたのか、静かに拳を緩めた。
肩で息をしているが、その口調は抑えたように静かだった。
「ティーナは、それを望んでないんだろ」
「そんなことも言いましたね」
「それならなぜ死のうとした」
「わたし一人の命で、国が助かるのなら良いことです」
「いいことなわけがねえだろ!」
イェルドが声を荒らげた。
まっすぐな怒気がぶつけられる。思わず身を引こうとしたティーナだったが、肩を強い力で握りしめた手が、それを許さなかった。
息が混ざり合うような近くで、声が叩きつけられた。
「ティーナが死んだら意味がねえ!」
ティーナは、イェルドの目を見つめ返した。
「その言葉だけで、わたしは十分です」
「んな訳――」
その先の言葉は、ティーナの唇の中に吸い込まれた。
見開かれたイェルドの目をじっと覗き込んだ後、ティーナは唇を離した。
「大切な人がいるから、わたしも命をかけようという気持ちになれるんです」
「……ティーナ」
強く抱きしめられた。
身体の中から押し出された空気が口から漏れるような、痛いくらいの抱擁だった。
ティーナ、とイェルドは何度も名前を呼んだ。ティーナはその度に、はい、と答えた。
しばらくそうしていると、イェルドが、ゆっくりと口を開いた。
「死んだら、二度と会えないんだぞ」
「ええ、そうですね」
「死なないでくれ、と俺が縋ったら?」
「似合わないですよ」
「知るか」
イェルドが鼻で笑った。
「ティーナの命より大事なものなんてねえよ」
イェルドらしく直球で、飾り気のない言葉だった。
そのまっすぐさが、鋭く胸を刺した。
しばしの間目の縁で震えた涙は、堪えきれなくなって頬を滑り落ちた。
「ほんとは、生きたいんだろ」
イェルドが、幼い子供に言い聞かせるように言った。
ちびじゃない、と心の中で反論してから、頷いた。
「はい」
一度口に出せば、止まらなかった。
「わたしは生きたい。……生きたい、です」
イェルドにしがみついて、言葉が溢れてくるのに任せる。
もどかしかった。溢れ出る気持ちに、出てくる言葉の速さが追いつかない。
「イェルド様と、南国に行ってみたいです。この間のお菓子も、また食べたいです。お茶も買いに行きたいし、嫌な態度をとってしまったことをアデラさんに謝りたいです」
「そんなだったか?」
「嫉妬してたんです」
イェルドが言葉に詰まった。
「アデラに?」
「わたしのことは名前で呼んでくださらなかったじゃないですか」
「それは、」
照れたような呟きだった。
「妙に、恥ずかしくて」
「乙女じゃないんですから」
「うるさい」
イェルドの唇が、頭の上に落とされた。
「ちっこくないですから」
「これをそう取るなよ」
「子供扱いしないでください」
「子供に惚れるような危ない趣味はねえよ」
でも、とティーナは呟いた。
「アデラさんとは、対等な感じだったじゃないですか」
「そう気にするな。ほんとに何もねえよ」
「わかってます。でも――」
こういうところが、子供っぽいのだろう。
そう思ったティーナは、大人しく口を閉じた。
「まあ」
イェルドが、笑いを含んだ声で囁いた。
「俺はちっこい方が好みだ」
「……なんだかいやらしいです」
「は!? 何言って、というか、どこでそんな言葉知って」
「そっちは別に小さくないです」
「そんなこと聞いてねえ! ああもう、黙れ!」
イェルドは珍しく本気で動揺している様子だ。
意味もなく手を開いたり閉じたりしている様子に、つい、笑い声が漏れた。
「おい笑うな」
「笑って、ません」
「笑ってるだろ」
イェルドも吹き出した。
冷え切った洞窟の中、二人分の笑い声が反響する。
笑って、笑って、滲み出てきた涙を指先で拭い取った後、ティーナは口を開いた。
「それで、どうしましょう」
「考えてなかったのか」
「ええ。イェルド様なら、なんとかしてくれるかと」
「相変わらず、甘えるのが上手いな」
「わたしのこと、そんなふうに思ってたんですか」
眉を上げて答えたイェルドは、立ち上がると、地面に落ちていた布を拾い上げる。襲ってきた男が身につけていたものだった。
イェルドは、しばらくの間、じっくりとそれを眺めていた。そして、おもむろに口を開いた。
「おかしいと、思わねえか?」
暗い洞窟の中、イェルドの瞳がティーナを射抜いた。




