【ゲートの避難小屋-3】この国を救う
その日は一日中、うつらうつらして過ごしていた。
目が覚めれば大体隣にイェルドがいて、欲しいものがないかとぶっきらぼうに聞いてくれる。
話し相手になってほしいと言えば、断られるかと思ったけれど、イェルドは話を聞いてくれた。ねだれば話してもくれた。
色々な話をした。
ティーナは神殿の話をした。
女性しかいないあの場所は、華やかだけれど蛇の巣窟だと言えば、イェルドは笑いをこぼした。調子に乗ったティーナは、神殿の中に、ある貴族の妻と愛人が一緒にいた時の修羅場の話をした。修羅場が悪化した原因は、愛人の方が魔力が高かったことだった。
イェルドはなんとも言えない顔をしながら聞いていた。
イェルドは旅の話をしてくれた。
イェルドは南の国に行ったことがあるらしい。一年で一度も雪が降らないのだという。
一日中、夏みたいなものだろうか。全く想像がつかない。植物は全て大きくて、目がちかちかするくらいに鮮やかな色をしているのだと、イェルドは話してくれた。
「あんた」
イェルドが躊躇いがちに口を開いた。
「この後、どうするつもりだ?」
「ユギラの町に行きます」
「違う」
イェルドは、囁くように言った。少しだけ緊張しているような声だった。
「その後だ」
「この国を救います」
「は?」
ティーナは微笑んで、小さな声で繰り返した。
「この国を、救います」
「なんだそれ」
イェルドが苦笑した気配がした。ぽん、と毛布越しにイェルドの手のひらを感じた。
「神殿にいたころ、よく孤児の子とお話をしていたんです」
露骨な話題転換だったけれど、イェルドは何事もなかったかのように相槌を打った。
「可愛いんですよ。小さくて、無邪気で」
「あんたの話をしてるのか?」
「ちんちくりんじゃないです」
はいはい、とイェルドが笑った。
「わたしを慕ってくれるんです。わたしはその、あまり人と気軽に話せる身分ではなかったので、そういうのを気にせず集まってくる子供たちが可愛くて」
「ああ」
「だから、この国の未来も、あの子たちが幸せになれれば良いと思うんですよね」
「そうか」
ティーナ、と集まってきては、様をつけなさい、と怒られていた子供たちの姿が、ぱっと目の裏に浮かんだ。ティーナの人差し指をぎゅっと握ってきた、細い指を思い返した。
「だから、この国を救うってか」
「ええ」
「立派だな」
「そうでしょう?」
ティーナは笑った。
きっとイェルドは、ティーナが国のために使命を受けて動いているのだと思っただろう。そしてそれは間違っていない。
それにしても、とイェルドが言った。
「お貴族様ってのは薄情だな」
「え?」
「俺みたいなのを雇わんくても、手練れの兵の一人や二人、つければいいだろうに」
「……確かに、そうですね」
ティーナは知っていた。
かつて、一度だけ、生贄が逃げ出したことがあった。曰く、彼女につけられた騎士が、生贄を攫っていったのだという。
二人は恋人同士だったのだと、もっぱらの噂だ。
それ以来、護衛は平民から雇うのが慣例となった。
それは、平民と貴族が恋人関係になるなどあり得ない、という前提の制度。
イェルドは目ざとくティーナの反応に気づいたようだった。
「俺が踏み込むことでもねえな」
肩をすくめて、あっさりと話題を終わらせる。
ティーナが頷けば、部屋にはしんと沈黙が降りた。
「明日」
イェルドが口を開いた。
「明日出られそうか? 給料は嵩まないほうがいいんだろ?」
「大丈夫です。出ます」
ティーナも笑って頷く。
7日が経った。残りは6日。
予定外の休みが入ったので、もしかしたら、7日。
❆’゜:*。
翌朝も、よく晴れていた。
見渡す限り真っ白な雪原に、アデラのものと思われる足跡だけが残されている。
アデラの足跡と、イェルドがつけてくれた足跡を辿りながら、ティーナは歩いていた。
ただでさえ雪に慣れていない上に、この雪は降り積もったばかりだ。崩れやすくて、深さを見誤りやすい。少しずつ凍り始めているとはいえ、雪に足を取られて倒れれば、あっという間に全身濡れ鼠になる。
イェルドの後を追っていれば、嫌でもその姿は目に入る。
イェルドは終始、警戒するように視線を周囲に彷徨わせていた。その視線は一時も同じ場所に留まることはなく、足元ばかり見ているティーナとは大違いだ。
8日目に突入した旅路は、もうお互いに慣れたものだった。
最初は小走りになってイェルドについていっていたが、イェルドの方が次第に歩調を合わせてくれるようになった。
イェルドが近くにいれば、雪道もさほど怖くはない。ただ黙々と、足を進めるだけだ。
そうして、旅は順調に進んでいく。歩いてはこの間と同じような小屋に泊まり、起き出してはまた歩く。
単調な旅路は、けれど退屈ではなかった。歩いているときは必死というのもあるけれど、小屋ではイェルドが話し相手になってくれる。
そんな旅も、10日目となったときだった。
「おい」
普段と何も変わらないはずの雪道。
しかし突然、雪の上を渡って、低く抑えたイェルドの声が聞こえた。
「できるだけ、無反応で聞け」
「……」
「わかったか?」
「……」
「おい」
「無反応でとおっしゃったので」
「ふざけてんのか」
舌打ちをしたイェルドだったが、ふっとその身体から力が抜ける。
「俺たちをつけてる奴がいる」
「……」
「無反応でってのはそういう意味じゃねえ。態度に出すなって言ったんだ、無視はすんな」
「それは」
ティーナは真顔で言った。
「失礼しました」
「逆に不自然な無表情はやめろ。まあいい、それでずっとつけてる奴がいる。最初からだ」
「気づいていたのです?」
「気づいてはいたが、狙いが俺とは限らねえと思ってた。だがここまでくると黒だな」
「狙いがイェルド様とは限りませんよ」
ティーナは満面の笑みを浮かべて言った。
「わたしかもしれません」
「無表情が駄目だからって笑顔を浮かべるな。で、心当たりがあんのか」
「なくもないです」
生贄に護衛はつけないとは聞いている。
けれど監視もつけないというのはさすがに無理がある。それとなく後をつけられているだろうなとは、旅の初めから思っていた。
接触は、固く禁じられているだろうけど。
「どんな奴だ」
「少々事情があって明かせませんが、こちらに敵意はないはずです」
そう言った瞬間だった。
イェルドが飛びかかってきた。なすすべもなく、二人で雪の中に崩れ落ちる。
首筋に忍び込んできた雪に文句を言おうと思ったところで、ぼす、と隣で音がした。
雪の中に、矢が埋まっていた。
「敵意はないってあんた言ったよな!?」
悪態をつきながらイェルドがティーナを抱きしめた。雪の中を転がるようにして、先へと進んでいく。
ぐるぐると回る視界に酔いそうになりながら、強くイェルドにしがみついた。
「とりあえず森に入る! 矢は凌げる」
「わかりました」
「落ち着き払ってるのはありがたいが少しは危機感を持て!」
「イェルド様なら」
口の中に入ってきた雪を、お行儀悪く吐き出す。
「わたしを守ってくださいます」
「どこから出てくんだその信頼!」
どん、と衝撃が走った。イェルドの向こうに、太い木の幹が見える。
「ここにいろ。絶対に物音を立てるな」
ティーナは頷いた。その瞬間、イェルドがティーナの外套を剥ぎ取る。
「きゃっ」
「お兄様に告げ口すんなよ」
にやりと笑ったイェルドは、ティーナの外套を持って走り出した。
抑えた人の声がした。物がぶつかり合うような音と、矢が風を切る音。呻き声や悲鳴に、複数の慌てたような話し声。
ティーナは言われた通り、黙って雪の中に座っていた。
イェルドが選んだ場所はさすがというべきか、隠れるのに最適な場所だった。こうして蹲っていれば、ティーナの姿はよほど近くに来ない限り見えないだろう。別に、ティーナはちっこくはないけれど。
イェルドはひとり、囮になっている。
『イェルド様は、わたしを守ってくださいます』
それは本心だ。間違いなくイェルドは、ティーナを守る。
けれどそこに、イェルド自身の身を守る、は入っているのだろうか。
不意に、自分がイェルドに投げかけた言葉が怖くなった。
寒さがじんわりと忍び込んでくる。
ちらちらと降り始めた雪が、いくつも肩に乗った。身動きするつもりはなかったから、身体が白くなっていくのに任せる。
外套と違って、その下のワンピースは水を弾くような素材ではない。溶けて染み込んでくる雪は冷たかったけれど、あまり気にならなかった。
また、呻き声がした。
それは聞き慣れない声で、きっとイェルドのものではない。
降ってきた雪が、鼻の頭に乗った。
出そうになるくしゃみを、必死で堪える。
その時、全ての音が止んだ。
一拍置いて、ぎしぎしと、雪を踏む足音だけが響き始める。
それは確実に、ティーナの方へと近づいてきていた。
ティーナはじっと座っていた。
声が聞こえた。
「動くなとは言ったが、雪くらい払え。凍死するぞ」
気が抜けた瞬間、くしゅん、とくしゃみが漏れた。
ふっと笑う声と一緒に、生温かい物が、上から降ってきた。
頬を伝うそれを、指で拭いとる。
赤。