【ゲートの避難小屋-2】熱に浮かされて
ぱちぱちと薪が爆ぜる音と、吹雪の音だけが聞こえる夜だった。
小屋の中央に設けられた炉を囲むようにして座り、木のコップに入った温かい飲み物を啜っていると、身体の芯から温まっていくような気がする。
「アデラ様、これは」
「様? アデラでいいわよ」
「アデラさん」
ティーナはアデラをじっと見つめた。アデラが根負けしたように頷く。
「この飲み物は何なのです?」
「これ? 知らないか、この辺りでは有名なお茶なのだけど」
「あ、えっと」
「もういい」
同じようにお茶を傾けていたイェルドが、口を開いた。
「アデラ相手なら別に隠す必要もねえだろ。ってかもうバレてる」
「ああ、ティーナが貴族ってことかしら?」
アデラが唇の端を持ち上げた。薄い唇の隙間から、微かに赤い舌が覗いた。
「隠す気があったと言うのなら驚きね」
「とっくに諦めたよ、俺は。うっかり外套脱ぎやがった時点で」
「そう」
ゆったりと言葉を交わす二人の姿は、まるでそれ自体が一枚の絵のように馴染んでいて。
ティーナは思わず、口を開く。
「お二人はどういうご関係なのです?」
「古い馴染みだ」
「そんなところね」
「……そうですか」
イェルドが眉を上げた。
「やけにしおらしいな」
「そうでしょうか」
「ああ。吹雪にやられたか」
イェルドが傍にコップを置くと、ティーナへと身を乗り出す。
その手がティーナの額に触れそうになった瞬間、思わず、ティーナは後ずさった。
「は?」
イェルドの顔が剣呑に顰められる。
アデラの笑い声が響いた。
「イェルド、警戒されてるわね」
「い、や」
イェルドは表情を緩め、戸惑ったように目を瞬かせた。
しかし、ティーナ自身、驚いている。
食べ物を分け合ったし、背負ってもらったし、押し倒された。お兄様基準で言えば、もうあとは成り行きで最後まで行けるくらいに仲が良いのだ。
最後まで、と言った意味はよくわからなかったけれど、少なくとも額に触れるくらいなんでもないはず。
それなのに、今更、これはなんだろう。
アデラはくすくすと笑って、イェルドをからかっている。
イェルドはそれを、煩わしそうに捌いていた。
そんな二人を見ていると、自分が小さな子供になったような心地がする。
ティーナはちっこくも、ちびでも、ガキでも、ちんちくりんでもないけれど。
イェルドがそう言うとき、アデラと比べていたのならば、ちっこいのかもしれないと、思ってしまう。
「ティーナ、このお茶が気に入った?」
アデラが優しく問いかける。それに、ティーナは黙って頷いた。
「良かったわ。ランデルの名産なのよ」
「ランデルの町には、来るときに通りましたが、売ってませんでした」
「今の季節は売ってねえだろ」
イェルドが肩をすくめた。勝手知ったる様子でお茶のおかわりを入れてきたイェルドは、床に胡座をかいて言う。
「だいたい収穫は初春だ。そっから乾燥させるから、安く手に入るのは来年の夏ってとこか」
「そう、ですか」
「なんでそんな顔する。来年また行けばいいだろ」
お貴族様なら、取り寄せたりすんのか、とイェルドが言った。
質問されているのはわかったけれど、ティーナは答えられない。
来年。
ティーナには存在しない未来を、イェルドは簡単に語る。
違う、というのはこういうことかと思った。
頭がぼんやりとしていた。頭の芯にずきずきと痛むような感覚があって、少し息が苦しい。
ティーナは立ち上がった。
「すみません。わたしはもう休みます」
イェルドは驚いたような顔をしたが、すぐに苦笑を浮かべた。
「疲れたか。部屋は奥だ」
「好きなところを使ってね」
「失礼、します」
言われた通り奥へ向かおうとして、ふらり、と足元が揺れた。
イェルドの姿が、ぐるぐると回って見える。
「おい!」
何か力強いものに支えられたような気がした。
安心感に気を緩めた瞬間、ふっと意識が途切れた。
❆’゜:*。
目が覚めたときには、吹雪は止んでいた。
ティーナは目を閉じたまま、外の音を聞いていた。
しんと静まり返った冬の朝。
毛布がかけられている身体の方は温かいけれど、外に出ている顔は刺すように冷たい。
表面は凍りつきそうなのに、内側には熱がこもっているような、嫌な感覚だった。
ティーナはぱちりと目を開いた。
見慣れない部屋だ。木を組んで作られた分厚い壁が、外の寒さから守ってくれているようだった。
ゆっくりと昨日の記憶が蘇ってくる。
ひとりでここまで歩いてきた記憶はなかった。イェルドが、運んでくれたのだろうか。
昨日は身体も清めずに眠ってしまったようで、汗で張り付く衣服の感触が不快だった。
重く気だるい身体を起こせば、寝台の下に水で満たされた桶と布が置いてあった。遠慮なく使わせてもらうことにして、ティーナは水に布を浸して絞る。
毛布から抜け出して肩から服を落とせば、凍り付くような寒さが忍び込んできた。あっという間に全身に鳥肌が立つ。
「……つめたい」
水は冷え切っていて、布もまたまるで雪に触れているように冷たかったが、丁寧に身体を拭っていく。
右腕を持ち上げて、脇の辺りを拭いているような格好の時、外から、声がした。
「入るぞ」
待ってください、とティーナが言うのと、扉が開くのは同時だった。
イェルドと、目が合った。
「……」
イェルドは何も言わずに固まっていた。イェルドの手から落ちた布が、床に当たってびしゃりと濡れた音を立てた。
ティーナが口を開こうとした時、無表情だったイェルドの顔にみるみるうちに朱が差していった。
「わ、るい」
珍しく本気で動揺したような声。
そこからの行動は早かった。凄まじい速度で扉の外へと飛び出し、壊れそうな勢いで扉を閉め、ようとして落ちた布に阻まれ、しゃがみ込んで布を抜き取った後扉を引く。
その間、わずか数秒。
ティーナは何も言えず、そのままの姿勢で動けなくなっていた。
寒さに、ぶるりと身体が震えた。呪縛が解けたように身体が動き出し、急いで服を着込む。毛布をかぶって、ほとんど顔まで覆ったところで、ティーナは蚊の鳴くような声をあげた。
「イェルド様」
「……ほんとに、悪い」
がちゃりと扉の音がして、イェルドが入ってきた気配を感じた。
近づいてくる足音と、水音がする。ふわりと温かい空気が頭の上で揺れた。
それに釣られるように、ティーナは毛布から顔を出した。
イェルドの顔が見えた。目があった瞬間、イェルドはさっと目を逸らす。
その頬には、まだわずかに朱が残っていた。それがなんだかおかしくて、ティーナはくすくすと笑う。
「なんであんたが平然としてんだ」
イェルドが怒ったような声を上げた。けれどそれは本気で怒っているというよりも、どこか困惑しているような響きを帯びていた。
イェルドもそれに気づいたのだろうか。誤魔化すように、イェルドの指先が目の上に触れた。促されるまま、目を閉じる。
温かい布が、頬を撫でて嫌な汗を拭っていく。
「俺が悪かった。悪かったが、こんな日に冷水で身体を拭くな。凍死したいのか」
「そのための桶かと思いました」
「あれは熱を冷ます用だ」
イェルドのため息が聞こえた。
「熱、ですか」
「そうだ。だからあんたは寝てろ」
「わかりました」
イェルドが笑う気配がした。
「そういうとこ、あんたは素直だよな」
「そうですか」
「人に甘えるのに躊躇がねえ。さすがお貴族様だ」
「それ、褒めてないと思います」
温かい布が離れていくのが嫌で、それを追いかけるように顔をあげた。すかさずぴしゃりとイェルドの叱責が飛ぶ。
「寝てろ。暴れるな」
「暴れてません」
すぐに温かさが戻ってくる。ふっと身体の力が抜けた。
「アデラは吹雪が明けてからすぐ出たが、心配してたぞ」
「……そうですか」
ティーナは唇を尖らせかけて、やめた。
代わりに胸を刺したのは、深い深い、寂しさだった。
どこまでも、底のない暗い穴に落ちていくような。
真っ暗な中を下に向かって落ちながら、上にいるイェルドとアデラを見上げているような。
ティーナは両手を伸ばして、イェルドの手を捕まえた。
ぐっと引き寄せて、自分の額に押し当てる。
「何なんだ。逃げたと思えば――」
イェルドの言葉が途切れた。
遠慮がちに、声が聞こえた。
「泣いてんのか」
「……そうみたいですね」
「なんだその気の抜けた返事は」
イェルドは何も聞かなかった。
ただ黙って、ティーナのしたいようにさせてくれた。
ぎし、と寝台が軋む音がした。きっとイェルドが座ったのだろう。
その温もりを離したくないと思った。
「お兄様によると」
ティーナは呟いた。
「弱っている女性につけ込むのは、最低な行為なのです」
イェルドが笑った。
「そうか」
それでも、イェルドはティーナの隣を離れなかった。
ティーナはぐずる子供のような口調で言った。
「これは仕事内容に含まれてません」
「そうかもな」
「イェルド様は――」
仕事に私情は持ち込まない主義なのでしょう?
そう言いかけた言葉を飲み込んだ。言葉にしてしまえば、イェルドが離れていってしまう気がしたから。互いになんとなく気づいている事実から、目を逸らしておくために。
黙って、イェルドの手を掴む手に力をこめた。
大きな手を感じていれば、ぎゅっと縮こまっていた身体が解けていく。
ティーナはもう一度、緩やかな眠りの世界に吸い込まれていった。