【マーセンの街-1】アルベルティーナ・フリュデン伯爵令嬢
ティーナが生まれて初めて街に下りたのは、相も変わらず重苦しい雪の日だった。
灰色の雲が空を覆い、立ち並ぶ家々はすっぽりと雪を被っている。
下町に馴染めるように、と渡された薄い手袋越しの雪は、冷たいを通り越して痛かった。
手袋を脱いで、両手に息を吹きかけた後、ティーナは意を決して道ゆく屈強な男へと声をかけた。
「あの、すみません」
「あ?」
ティーナはワンピースのスカートを摘んで、ゆっくりと腰を落とす。
「初めまして。わたしはアルべ――いえ、ティーナと申します。ひとつ、あなたにお願いしたいことがありまして、お忙しいとは思いつつ、声をかけさせていただきました」
こてん、とティーナは首を倒した。男の顔が、みるみるうちに変化したからだ。
怒り、困惑、そして――わざとらしい笑顔。
「願い、だ?」
「ええ。行きたい場所があるので、道中の護衛と道案内をお願いしたいのです。ユギラの町――と言ってお分かりになります?」
「知らんな」
「それなら、神の顎〈デヴメント〉は?」
その地名を出した瞬間に、男の目が探るようなものに変わった。
それも当然。普通の人間ならば足を踏み入れようなどと考えもしない、禁忌の土地だ。
雪と氷を司り、最北端の山に住むという巨人〈マーグ〉。
その山の麓には、神の顎と呼ばれる巨大な洞窟がぱっくりと口を開けている。天井からは鋭く尖った氷柱が垂れ下がり、身体の中まで凍りつきそうな冷気で満たされている――ともっぱらの噂だが、真偽は定かではない。
なぜなら、生きて帰った者がいないから。
「知ってるが、あんた、俺に神の顎まで行かせようって?」
「いえ」
ティーナはゆるく首を振った。
「あなたは、その手前のユギラの町までで結構です」
男は考え込むような表情を見せた。ティーナの言葉に含まれたものには気が付かなかったのだろう。
行けそうだ、とティーナは身を乗り出す。
「報酬は、これくらいでどうでしょう」
腰に括り付けていた革袋を取り外して、中を広げてみせた。
その瞬間、男の顔が凍りつく。
「……は?」
「不足でしたか?」
「い、いや」
忙しなく肩を上下させた男が、探るようにティーナへと問いかける。
「本当に、護衛と道案内でこの額なのか?」
「ええ。一日あたり、この額で。ユギラの町まで、ここマーセンの街から13日ほどと聞いております」
遠回りして稼ごうったって、無駄ですから。
ティーナはふんと鼻を鳴らすと、腰に手を当てて男を見上げた。しかしその視線はティーナを見ておらず、革袋に釘付けになっている。
やがて、ゆっくりと顔を上げた男が、両手でティーナの手を包み込むと革袋の口を閉じた。
「この話は俺以外にしたか?」
「いえ。あなたが初めてです」
「……運が良かったな」
「え?」
「いや、あんたが。俺みたいな腕利きに声をかけられて、運が良かったって話だ」
「そうかもしれません」
ティーナはふう、と息をついた。
王都からここまでは馬車で送ってもらったものの、この先神の顎まではティーナ一人で進まなければならない。
そう聞いたときは正気かと疑ったものだが、無事に護衛も見つかりそうだ。
「それでは、よろしく――」
「おい」
その時だった。
男に革袋を差し出そうとした手が、無骨な大きい手に覆われた。
「はい?」
ティーナは手の主を確認しようと、斜め上を見上げた。
背の高い男だった。真っ先にそんな印象を受けるくらいには、大きな男だった。
顔のほとんどは、たっぷりと毛皮を使った雪除けの帽子で覆われている。長く使い込まれているようで色はくすんでいるが、艶があり毛も多い。物は悪くないだろう。
髪は黒く、目も同じ色。鋭い視線が、ティーナを射抜く。
ちらり、とティーナは先ほどまで話していた男を見上げる。
同じような雪除けの帽子を被ってはいるが、見るからに毛の量が少ない。
ティーナは革袋を引っ込めると、新しくやってきた男へと笑顔を見せた。
「どうされました?」
「相場を考えろ」
「依頼料のことです? あれ、わたし、まだあなたには何も言っていないはずですが」
「袋を見ればわかる」
「お金について、とてもお詳しいんですね」
「喧嘩なら買うぞ?」
ティーナは両手で口元を押さえた。
素肌が触れる感覚に、手袋を外したままだったことを思い出す。いそいそと手袋をはめ直すと、もう一度男を見上げた。
「失礼しました。そんな意図はなくて、素直に教えていただければ、と。この場合、いくらが適切なのです?」
「斡旋所に行け。そこで元傭兵でも雇え。戦が終わったばかりで、奴ら暇してる」
「そこへ行けば、あなたも雇えますか?」
「俺?」
男は目を見開いた。だがすぐに、ああ、と納得がいった表情になる。
「このあたりに来たのは初めてか?」
「ええ、そうですが。それと何の関係がありますの?」
「いや。ならいい」
男は、これで話は終わりだとばかりに立ち去ろうとする。
その背中に、ティーナはもう一度問いかけた。
「あなたも雇えるのです?」
「なぜ俺にこだわる?」
「信頼がおける方と思いましたので」
男は鼻で笑った。
「この俺が?」
「あなたは、どうやら相場以上の額を払おうとしたわたしを止めてくださったのでしょう?」
「俺もあんたを騙しているかもな」
「あなたは今のところ、わたしの依頼を受けるつもりはないのですよね。それなら騙す意味もないはずです」
ティーナは食い下がった。
明らかに、先ほどの男よりも信頼できそうだ。ついでにお金の相場がわからないことが判明したので、その辺りに詳しそうでかつ教えてくれそうな人は貴重。
「わたしはあなたを雇いたいです」
ティーナは縋るように男を見上げた。じっと見ていると首が痛くなってくるが、それでもめげずに見つめ続けていれば、男は静かにため息をついた。
「そうか」
「それなら――」
「断る」
あっさりと、男は言った。
「相談しましょう」
「相談する前から、あんたが特大の厄介ごとだってことはわかる」
心底嫌そうな表情を浮かべた後、遠ざかっていく後ろ姿を呼び止めようとして、結局その言葉を飲み込んだ。
追えば追うほど逃げるものだと、お兄様が言っていた。押しと引きの微妙な駆け引きが重要なのだと。上手く行けば、そのうち向こうから求めてくれるようになる、と。
まずは、下調べ。
ティーナはひとりうん、と頷くと、目についた毛皮売りの男へ向かって歩き出す。
「すみません」
客が来たと思ったのだろう。毛皮売りの男は愛想の良い笑みを浮かべると、両手を擦り合わせた。
「らっしゃい! 何かご入用で?」
「少し、聞きたいことがありまして」
そう言った瞬間に、男の顔が訝しむようなものに変わった。
ティーナは慌てて両手を振ると、弁明する。
「怪しいものではなくて! その、さっきの男性についてお聞きしたいのです」
「さっきの男性? あんたと一緒にいた男か?」
「ええ」
男の顔が、さらに顰められる。
「あんた知らないのか?」
「え? はい」
素直に肯定したけれど、毛皮売りに答える気はないようだった。
ティーナを客でないと判断した後の行動は早い。行った行った、と両手で追い払おうとする。
言われた通りに一歩ずつ下がりながら、ティーナは最後に聞いた。
「誰なのです?」
「悪いことは言わねえから、あの男には関わんな」
まったく不吉だ、とばかりに毛皮売りは袖に積もった雪を払い落とした。そのまま落ちた雪を数度踏みつけ、その上で両手を天へ掲げる。
「何をされているのです?」
「厄落としだよ。……あんたそんなことも知らないのか?」
毛皮売りの目が、完全に怪しいものを見るそれになった。周囲に人も集まりだしている。
ティーナはくるりと背を向け、走りだした。これ以上怪しまれて、正体が知られたら困る。
冷たい雪が頬を打つ。冷え切った頬の上では、雪はなかなか溶けていかない。
ティーナ――アルベルティーナ・フリュデン伯爵令嬢。
フリュデン伯爵家長女にして、王国一の氷の魔力の持ち主にして、
巨人の生贄〈マーグ・サリゥム〉。
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