北に向かう旅をしていた頃・砂利道で・魂を・抱えきれないほど貰いました。
「いるかね?人間の心、いるかね」
不思議な物売りに出会ったのは、まだ自分が年若い頃だった。だが正確な年が何故か思い出せずにいる。もしかしたら、10代の終わりに学校も仕事も何もかもが嫌になると言うおきまりのような自棄だったのか。20代で恋人の失恋であったのかも分からない。だが一ついえるのは、当時の私はこの世界の苦しみは私一人が背負っているものであって、誰にも理解されないと思いこみ美化していたのだが、世界を見回すと頻繁に人々が踏み外す道のひとつなのだと分かって、なんだか武勇伝のように語っていた己を恥ずかしく思うのだった。その時の苦しみは間違いなく世界で私一人のものだった。それは間違いない。だが、その苦しみは大多数の人間の通過儀礼である。その見聞を広めたとき、私は私の非凡なる経験を凡人の経験として汚してしまったような気がした。
物売りに会ったときには、私は世界を知らない若輩者だった。だが女一人で自暴自棄になり、物寂しい気分になる北に向かうのは珍しい方だと思う。そう思わなければ、この体験が色あせてしまう気がするのだ。物売りは、にやにやと不気味な笑みを浮かべ、手の平に乗せた蛍光グリーンの小さな固まりを見せてきた。傍目には、100円くらいで露店で売っている蛙のおもちゃに見える。人の心と言われても、なんだか胡散臭く感じてしまったものだ。だが物寂しい砂浜の帰り道、観光客などいない観光客用の駐車場で露店を出していたので、彼の存在は際だっていた。観光シーズンを終えた冬の海にさすらう一人の若い女、まるで演歌や探せばJーPOPの世界にも居そうなテンプレート通りの思い出である。自殺などをするつもりはなかったが、冬の潮風に当てられて冷え切った体に灰色の海を見たばかりの網膜には、蛍光のグリーンは目に眩しかった。
「人の心ってなんですか」
「人の心ですよ。魂、なんて言う人もいます」
ははあこれはこの店独自の売り文句なのだろう。かえるのおもちゃには目が付いていない。遊びすぎて塗装が剥がれてしまったような不完全さがあった。だからつい、触ってもいいかと私は尋ねてしまったのだ。アスファルトの駐車場には、砂がその隙間を埋め尽くしてじゃりじゃりと言う。背伸びして買ったブーツがたまに滑りそうになるのを堪えながら、私はひょこひょこと不格好に近づいて、その人の心とやらに触れた。それは、何故か暖かかった。冬の代名詞のカイロであるかのような不思議な温みがあった。思わず私はその暖かさに手を引っ込める。物売りは冬なのに薄着で、やはりにやにやとして笑っていた。
「人の心、いるかい?」
「おいくらですか」
ここでまだ私はオモチャが暖かくしてあるのだろうと思い、寒いから一つ貰おうと思ったのだが物売りはひっひっひと笑って言った。
「全部、全部あげるよ。私はいらないものだから」
そう言って露店に並べてあったオモチャをすべて私の腕の中にぶちまけ始めたのだ。私は咄嗟に受け止める素振りをしたが、何個かが駐車場にごろごろと転がってしまう。それを拾わないと思って屈んだとき、私は何故かそれを見失っていた。そして顔を上げると、腕の中には魂とやらも、目の前に物売りの露店さえも無くなっていた。おかしい。私はこの出来事はまだ誰も経験したことがないだろうと思うが、誰かに私も会ったことがあると言われてしまうと、なんだかこの思い出が色褪せるような気がして、黙っている。腕いっぱいに抱えていた魂のおかげか、冬の駐車場にぼうっと立ち尽くしていた私の体はぽかぽかとしていて、今になって思うと、もしかしたらあの物売りは妖怪か何かで、人の生きた肉は必要だけれど魂はいらなかったのかな、だから売っていたのかなと非現実的な仮説を立ててみている。私が夢を見ていただけでそれでいいのに。でも、私はまだ覚えている。魂のぬくもりが、じんじんと胸や腹に広がって、この上なく暖かかったのを。もう一度会えるものなら、私は一個貰おうとするのだろうか。これは平凡で非凡な出会いの一つである。