伯母の来訪 ⑫
バルテリンクとクライフ領との間で行われていた鉄鉱石の売買契約。
リュークは相場よりも高い値段で買っていたと主張し、ドリカ夫人は安く売っていたと言い張る。
その原因について、わたしはすでに予想がついていた。
「まさか書類を偽造……?ありえません。これは確かに私が直筆したサインです。ドリカ夫人の署名もいつも通りの筆跡で間違いありません」
リュークは眉を寄せた。
それはそうだろう。なんど見返しても書類に怪しい所はないはずだ。そんな所があればとっくの昔に、この慎重な辺境伯様が気がついていたはずだ。
「素直に称賛するけれど、あなたってとても優秀な人だと思うわ。なんでもテキパキ片付けるし、やるべきことは期日を前倒してまで済ませてしまうものね。でもね、だからそうじゃない人の気持ちが分からないのよ!」
不可解そうな顔のリュークに満面の笑みを向けた。
「文書を偽造するだとか、小細工をする危険を犯す必要は無かったはずよ。貴方がたの疎遠に目をつけ、なおかつ夫人の性格をようくご存知の人間にとってはね」
「夫人の性格……?」
ここまで言っても彼にはピンときていないようだった。
「夫人、率直に聞きますが普段の契約書は全て目を通されてましたか?」
「いいえ? 頼まれた場所にサインしただけですわ」
ドリカ夫人はあっさりと認める。
隣にいたリュークが息をのむ音が聞こえた。
「ドリカ夫人は頼れる誰かがいれば、書面を読むこともないほど書類仕事が嫌いなのよ」
「……は……? なんと言ったのですか!?」
わたしは指を突き立て、はっきりと言い放った。
「リュークに不手際は無かったわ。そして同時に、そんなあなただからこそ、気がつくことが出来ない盲点だったでしょうね。まさか、内容を確認することもなくサインをしてしまう人間がいるだなんて!」
リュークは理解が追いつかないとでもいうように絶句している。
生真面目なリュークには理外もいいところ。想像すらしなかったに違いない。
5分で済むような確認がどうにも億劫で見ていられない、やらなくてはいけないと分かっているのにどうしても先延ばししてしまう感覚など想像も出来ないようだった。
リュークの非難に満ちた、という言葉ではとても足りない眼差しに耐えかねたのか、ドリカ夫人が反論する。
「だ、だって、今までは何の不都合もなかったのよ! ルドルに任せてさえおけば……」
「そのドリカ夫人の専属商人のルドルよ。あいつは口先だけはドリカ夫人にうまくやっているように伝えて、実際はリュークと正式に、相当にクライフ領に有利な条件で取引をしていたのよ。そしてすっかり自分を信用しているドリカ夫人にはバルテリンクの為に安く売ったのだと嘘を並べ立てたんだわ」
その差額をどうしていたのかは、わざわざ調べるまでも無いだろう。
「……信じられません。何故それだけの事を億劫がるのです? 何よりも大事な事をどうして他人任せにしてしまうのです!」
耳が痛い!……じゃなくて。
「リューク、待って。もちろん褒められたことではないけれど、元凶はそれを利用していた奴でしょう? アン、今すぐ城の方に戻って警備兵にルドルを連れてくるように言いなさい」
すぐさまアンが警備兵を呼びに走り、これでルドルが罪を認めれば万事解決と思っていた。
しかしふと隣にいるリュークが深刻そうな顔をしていることに気がつく。
「どうしたの、リューク? ここにちゃんと書類が揃っているのだから大丈夫よ」
「……そうですね。しかしだからこそ話は、少し厄介なことになるかもしれません」
リュークが何を心配しているのかわからない。
ところが連れてこられたルドルが不敵な笑みを浮かべ、堂々と語りだすと事態は様相を変えはじめた。
◇
引っ立てられるように連れ出されたルドルは、ひざまづかされながらも声高に反論した。
「私は法を犯してはおりません!」
「あなた、何を言ってるの!? そんなわけが無いでしょう!!」
「確かに不慮の事故で夫人に『伝えそこなって』しまいましたが、全ては契約通り。何も罪はないはずです!」
ルドルの言葉にわたしは目を剥いた。
「いくらなんでも何年も伝えそこなうわけがないでしょう!? それに、差額のお金は!!」
「地元のとある団体に全て寄付しております。許可を頂いた書類もこちらにあります」
「だから! その許可証とやらも同じように、ドリカ夫人が何も見ずにサインしてしまったものじゃない!? それに寄付をしたという証拠はあるの? あなたの証言以外に!」
「残念ながらその団体は先日解体してしまっているので、何もわからないでしょうね。しかしわからないということは寄付がされてないという証拠もありませんよね?」
(くっ……ああいえばこういう……! そもそもその『地元の団体』とやらは本当に実態があったわけ!? 絶対に怪しいわよ!)
わたしがギリギリと奥歯を食いしばっていると、ルドルはキッパリと告げてきた。
「恐れながら……全ては、書類上の契約こそが重要なのです。そしてドリカ様はそれにサインなさった。そうでしょう?」
明らかな言い逃れにカッとなった。しかし言い返そうとするより先にリュークが片手でわたしを制し、ルドルの拘束を解くように命じた。
「残念ですが、こちらの落ち度でしょうね」
「そんな! だって、リューク……!」
バルテリンク側はドリカ夫人を思い、ドリカ夫人は亡きソフィアを思っての行動だったはずなのに。状況を知って巧みに悪用したルドルが、こんな言い分で許されるなんて納得できなかった。
「おっしゃりたい事はわかります。……しかし規律を守らせる立場の者が、それを破る事は決して出来ません」
リュークは何と言われようが譲る様子は一切ない。
(そりゃあ、それが正しいのでしょうけど……。でも! でも!!)
くやしさに拳を震わせた。
(許せない……。なんとか反省させる手はないのかしら?)
「もういいわ。私が悪かったのね……」
ドリカ夫人はそう呻いて、両手で顔を覆った。
「わたしがやるよりもずっと早く、適切に処理してくれていたからと甘えすぎていたわ。わたしより上手くやれる人間に任せるだけだと考えていたけど、最後の確認だけは人任せにしてはいけなかったのね」
「ドリカ夫人……」
「主人には本当に悪い事をしたわ。どうしてもソフィアに罪の償いをしたいと、豊かではない財政の中から無理をしてバルテリンクに鉄鉱石を譲り続けるのを許してくれていたのに……」
鼻をすするドリカ夫人の、あの豪華な馬車をふと思い出した。ルドルはドリカ夫人が見栄っ張りなだけだと言っていたが、あれはバルテリンク側に懐事情を知られまいとする彼女の気遣いだったのではないだろうか。
そんなにまでして自分の代わりに嫁いだソフィア様に罪悪感を持ち、死後も気を使い続けるドリカ夫人に対してどうしても消えない疑問がひとつあった。
それは今回の騒動の根幹であり、ドリカ夫人の行動原理。
「わたし、ずっと気になっているのだけど……そもそもソフィア様の結婚生活は本当に不幸だったのかしら?」




