第三十話 獣人娼婦と香水調合
「おぉ、久し振りだな、クラウゼ殿… 今は北西領の騎士候だったか？」
「若輩扱いだけどな、そちらは変り無さそうで何よりだ」
「へ！？ いやいや、ちょっと待ってくれよ」
首を左右に振りながら両手も掲げ、辟易した態度で顔見知りの人狼が塵取りと箒を見せつけ、何処か自虐的な苦笑を浮かべる。
彼の姿を見る限り、娼館住まいで働く現状に対する不満が窺えた。
「毎日、昼は店の掃除と娼婦達の下着まで洗濯して、夜になると締まりのない面下げてやってきたベルクス兵を案内する仕事もあるんだぜ？」
「何やら御愁傷様だな」
「まったく、こんな事の為に精鋭の斥候猟兵隊に入ったんじゃねぇよ」
思わず零されたであろう類の愚痴だが、大神の眷族に於ける群れの序列は遵守されねばならない。
可愛らしい狐耳をぴくりと振るわせた人狼公の娘ペトラがジト目になり、少しだけ底冷えのする声音で失言に釘を刺す。
「この件、父上より与えられた正式な任務だと理解してる？」
「ぐッ、すみません。ちゃんと分かっています、御嬢」
「はぁっ、余り気を緩ませない様に……」
小さく吐息して薄暗い館内へ進み始めた狐娘の背中に続けば、やや出遅れた純魔族の娘シアも軽快な足音をさせて追随してくる。
首都でも有数という娼館は本館と小さな中庭を挟んだ別館で構成されており、前者には娼婦達の職場である個室が並び、後者は食堂があったりするので皆の寄宿舎なのだろう。
先導されるがまま別館の突き当りを曲がって、最奥に設えられた恐らく娼館主の部屋に辿り着く間際、躊躇いがちに外套が引っ張られた。
「うぅ、“仲間に引き込もう” って…… まさか、娼婦ですか？」
「違うとは思うが、ただ飯喰らいを置いておく場所でもないか」
「その気があるなら、此処を仕切っている麗蘭姉に仲介してあげるけど？」
「ひぇっ、お気遣いなくぅ」
純粋な善意もしくは戯れか、不意に提案してきた狐娘が歩みを止め、わたわたと両手を振って拒否するシアなど歯牙に掛けず、質素かつ重厚な木製扉を連続して三度叩いた。
その所作に呼応して、すぐさま室内から若い女性の声が返ってくる。
「この忙しないノックはペトラだろ、入りな」
「出掛けに言ってた奴も連れてきたけど良い？」
「あぁ、別に構わないさ」
承諾を得て開かれた扉の向こう側では、寝椅子の一種であるカウチベッドに横臥して、露出の激しい衣装を纏った妙齢の狐人族が優雅に寛いでいた。
足を踏み入れると微かに甘い香りが漂っており、卓上の加熱用ランプの炎に晒された銅製器具が発生源になっている。
「珍しいかい、橙の果皮から精油を抽出しているんだ。既製品の香水だと獣人系種族には匂いが強すぎて論外だし、仕事で必要だから自家精製してるのさ」
自然と顔に出ていたと思しき疑問に応え、気だるげに身を起した御婦人が件の器具付近を指差す。そこには刻んだ果皮や橙の花などの素材に加え、幾つか調合に使うような道具も置かれていた。
絵面だけ見たら薬師かと疑ってしまう光景だが、それらの所有者は印象にそぐわない妖艶な娼館主である。
「まぁ、確かに柄じゃないけどね。この蒸留器を含む道具一式、そっちの姫君に作って貰ったんだ。出費にはなったけど… って、あんたがクラウゼで間違いない？」
「あぁ、彼女の騎士などしている。暫く厄介にならせて貰おう」
「あたしは東域から流れてきた麗蘭だ。人狼公の依頼だし、面倒見てあげるよ♪」
にやりと笑った女狐は視線を隣に流して、縮こまっていた純魔族の娘を琥珀色の瞳に捉え、予期せぬ事柄の説明をペトラに促す。
「ん、街の酒場で拾ってきた」
「…… 元の場所に捨てて来なさい」
諸々の事情を悉く端折り、“さも良いことをした” とばかりのどや顔で告げられた言葉に対して、真顔になった相手は取り付く島もない態度で却下を言い渡した。
狼藉物の手から救い出されたとは謂え、強引に連れて来られたシアとしては立つ瀬がない。
「うっう～、私の扱いが酷い」
嘆く姿に溜息を吐き、仔細を語る素振りも無い狐娘に代わって事の経緯など伝え、揉めた駐留兵らの報復が無いと判断できるまでの間だけ、彼女の身内に渡りを付けた上で匿ってくれる様に頼めば…… 特段、気にした様子も無く娼館主の麗蘭はさらりと言ってのける。
「あんたの為に用意した部屋があるからさ、連れ込むなら勝手にしなよ」
「…… 別の部屋は？」
当たり前の疑問と一緒に元凶たるペトラを見遣るも、娼婦の一人と相部屋になっているとの事で、他に残された選択肢は無いようだ。
「余り部屋に籠る気も無いからな、此方は構わないが……」
「ふ、不束者ですが、宜しくお願いします」
「さて、顔合わせは済んだし、うちの娘らが使う香水の調合に没頭させて貰うよ」
邪魔はしないでくれといった雰囲気で硝子管を手に取り、適量の精油を酒精に落とし込んで攪拌し、立ち昇る芳香を分析していく。
鋭い嗅覚故に強い匂いは苦手と言いながら、その成分を分析する事に長けているあたり、大神の眷属は調香師に向いているのかもしれない。
既に集中している相手に遠慮しつつ、聞き損ねていた空き部屋の位置を確認してから、そっと娼館主の部屋を辞した。
★人物紹介
氏名：麗蘭(平民出身：姓なし)
種族：狐人族
階級：メレトリックス
技能：調香 調薬 狐火 幻術(中級)
房中術 状態異常付与 完全獣人化
称号：中原の女狐 娼館主
武器：毒物一式(補) ガーターベルトナイフ(主)
武装：娼婦服
香水の調合は精油とアルコールが必要ですけど、どちらも中世中期だと水蒸気蒸留法で抽出してますね(*'▽')
