ある日の最果ての島 ~①~
「やあ、おはよう、ラピス。昨日のグリフォードさん、無事に天国に行けたかな?」
いつもの庭の、パラソル付きのテーブル。
猫用に座面を高く設えた椅子に、着くなりロシュはラピスに尋ねた。
「あら、おはよう、ロシュ。あなたが人の事を気にするなんて、珍しいわね?」
「そんな事はないよ。ボクだって、人の事を気にする時だってあるさ」
でもロシュは、『特に君の事はね』という言葉を飲み込んだんだ。
それを言っても、ラピスにはもう、なんの事かも解ってもらえない。
多分、そんなラピスの反応を目にしたら、自分で自分を呪ってしまいそうだから。
そんなロシュの言葉を「そう……」と受け流したラピスは、ロシュの前にティーカップをそっと置く。
「今日はコーヒーよ。キリマンジャロの豆は、キリッとしたコクと、スッキリした後味、爽やかな香りに定評があるから、ミルクなんて入れさせないからね」
「コーヒーになると、今度はラピスが拘るね。確かに美味しいけど……」
そう言って、座面が高く設えた椅子から、黒猫が首を伸ばしてカップのコーヒーに舌を付ける。
「コーヒーは産地によって随分と味が違うもの。猫ちゃんには解らないかもしれないけど」
「なんだか、今日はやけに突っ掛かるね、ラピス。何かあったのかい?」
時に、ラピスとロシュは、立場が代わる。
幼い態度の立場と、大人な態度の立場。
ロシュにとって、子供っぽい意地を張るラピスも愛らしくはあるんだけど、内心では複雑だった。
こういうとき、ラピスはまた一つ、大事な記憶を失っているから。
「いいえ。何にもないわ。ただ、私ももう19歳になるのにこの外見が幼すぎて、大人っぽいファッションが似合わないのが嫌なだけ」
「それは仕方がないよ。ボクだってこんな姿は嫌なんだ」
「何を言ってるの?あなたは元から猫ちゃんでしょう?」
「……うん、まあ、そう……なのかな……?」
「ウフフ。昨日もそんな事を言ってたけど、おかしな子ね、ロシュは」
それは、グリフォードがここに訪れる前。
これに似たやり取りを、ラピスとロシュはしていた。
やっぱり、ラピスはロシュが人間だった頃の事を全て忘れてしまったんだ。
昨日だったら、まだ何か、たった一つでも断片的な記憶が残っていて、そこから話を広げれば、また幾らか繋がる記憶を思い出せたかもしれない。
でも、そんな希望は、もう持てなさそうだ。
ロシュは、心が引き裂かれる程の痛みを抱き、コーヒーも喉を通らなかった。
深い悲しみと共に、沸き上がるのは憤怒と恨み。
あの日、あの時に二人の身に起きた出来事が、ロシュには許しがたかった。
「ラピスは、ここの暮らしは好きかい?」
ふと、そんな事を聞いてみたくなった。
「ええ。こんな素敵な所、世界中を探しても在りっこないもの」
素敵な笑みで答えるラピスに、ロシュは僅かな希望が見えた気がした。
「……そうだね……」
「なあに?本当におかしな子ね、ロシュは」
クスクスと微笑むラピスがとても素敵で。
ロシュはそんなラピスの笑顔が大好きだった。
そんな大好きなラピスから、希望の欠片を感じた気がしたのには、理由があったんだ。
それは、さっきのラピスの答えに『世界中を探しても在りっこない』という言葉があったから。
その『世界中』の“世界”とは、正しく現世の“世界”を指していたはずだった。
そして、グリフォードも言った様に、現世の世界をどれだけ探しても、この最果ての様な美しい場所は在りはしない。
だって次元が違うんだ。
それをラピスは覚えている。
まだ、自分の帰る場所がどこかを、ラピスはちゃんと覚えているんだ。
それが、ロシュが感じた僅かな希望。
ラピスは忘れても、ロシュが忘れられない大切な思い出。
それをラピスが取り戻す時が来るのかは解らないけど、全ての記憶を失う前に、全てを終わらせようと心に誓う。
ここは最果ての島。
一人の少女と一匹の猫が住んでいる。
少女は、その大事な記憶の多くを失い、共にいる黒猫は、小さな希望を胸に、運命に立ち向かう。
ここは、そんな一人と一匹が暮らす、不思議な場所。