epilogue
epilogue
からんとドアベルが鳴り、隼人は流しから顔を上げて「いらっしゃいませー」と笑顔で声をかけた。
濃いブラウンの木枠にアンティークのステンドグラスをはめ込んだ扉から入ってきたのは、落ち着いた三十代のカップルだ。だいたい金曜日の昼下がりにやって来る常連さんだ。
迷わず空いている二人用のソファ席に座った二人に、隼人は白湯を入れたコップを両手に持ってカウンターを出る。
「どうもこんちは、寒いなぁ」
「本当に嫌んなりますよ。仕込みで朝起きるんがつらくてしゃーないっすわ」
「来週からはもっと冷え込むらしいで」
「うわぁ…、来週から営業時間、遅しようかな」
「儲け少ななっても知らんでー」
お客さんに直接コップを手渡しながらぼやくと、常連さんの大阪人らしいツッコミが入り、笑いが弾ける。今日は少し考えると言われたので一旦引っ込み、ドアから吹き込んできた、冬の匂いが混じった晩秋の風にすこし目を伏せる。
この風を感じる季節になるといつも、なんだかセンチメンタルな気分に浸ってしまう。理由はわかっている。
大学二回生の晩秋。隼人は将来を決めた。
自分の特技は料理であり、そして誰かがほっとできる店を作ると決めた。
当時していた警備員のアルバイトをやめ、カフェで働き始めた。そして三回生になっても就活は断固としてしなかった。
母親や祖母と何度となく口論を繰り返し、友達には総じて呆れられ、社会人の先輩達からは心配と共に諦めろと暗に諭されたが、隼人は決して意志を曲げることはなかった。大学卒業後、半ば家出のような形で一人暮らしを始め、大阪市内の人気カフェで修行を積んだ。
卒業から五年。祖母が亡くなる直前にどさどさと通帳を渡された。目を白黒させる隼人に祖母は言った。「開店資金や。ここまで頑固に来たんや、男やったら貫き通し」と。思わず泣いた。
祖母は決して諦めなかった隼人のために、積み立てていた定期預金をほとんど全部くれた。
まだ二十代だから少し早いかなとは思ったが、カフェ勤めを通じて知り合った友人と共に、半年前に地元I市に店をオープンさせた。
駅から徒歩五分。敷地面積は狭いが一軒家で、かなり内装も凝った。妥協はしようとは思わなかった。I市には落ち着ける洒落たカフェがないことは知っていたから、こだわりの空間を作ることは経営戦略の一つだった。
オープンから半年。隼人の作戦は当たり、今では隙間時間がほとんどないほど、常にお客さんがいるカフェになった。
だがまだ半年。油断はできないし、そもそもこの店でやりたいことは山積みだ。だいたい内装もまだ満足いっていないし、もっとできることがある。
(小物とかアクセとか、どっか置かれへんかなー。知り合いに声かけて………あ、あと手作りジャムとか、ドレッシングとかも売りたいし、音楽のイベントも…)
悶々と考えを巡らせる隼人を、先のカップルが呼んだ。
「隼人くーん、注文―」
「はいはーい!」
手を拭いてエプロンからメモ用紙とペンを取り出し、ソファ席へ向かう。デザート盛り合わせとチーズケーキ、ダージリンとカフェラテの注文を受ける。
基本的にこの店は二名、休日などは三名で回すのが基本だが、今は相方が昼食休憩を取っているので隼人一人だけだ。
手早くお茶とデザートの支度を終え、席に届けがてらまた少し雑談をし、カウンターに戻る。
ふと窓の外を見ると、落ち葉が風に舞っていた。
(……もう七年か)
大学二回の晩秋。忘れることができない記憶。
『G.A.M.E.』というヴァーチャルリアリティ世界に巻き込まれたこと。
ラストミッションの後、現実世界に戻った隼人を機械から助け起こしたのは大勢の警察官だった。さすがに驚いて混乱する隼人達を、警官達は病院にそれぞれ個室で保護し、事情聴取をした。
あの『G.A.M.E.』でキャラクターと呼ばれていた面々は全員―――大阪市以北で誘拐された学生達だった。つまり隼人達は、誘拐事件の被害者となっていたのだ。
被害者の数は二十名。
そして、ゲームオーバーになった者の中にも死者は一人もいなかった。
G.A.M.E.の製作と実施の陣頭指揮を取った首謀者は某有名ゲーム会社の社長。大阪府のM市にある会社の倉庫を個人で借り上げ、ヴァーチャルリアリティーゲームに必要な装置を巨額の私費を投じて作り上げ、誘拐してきた学生に無理矢理プレイさせたのである。
つまり―――「命をかけた」や「政府」云々は、全て嘘だったのだ。
力が抜けるような結末だった。
だがその動機を知って、隼人は静かに首謀者に感謝した。
末期癌に侵されていたその首謀者のゲーム会社社長は、裁判が始まる前に亡くなった。彼が死去した後、隼人達被害者に届いた供述書の一節には、動機についてこう書かれていた。
『夢も自分の意志も、何もかも忘れた子どもが多すぎる。
わしは戦争を経験した。あの頃にはなかった自由が今は溢れているのに、子ども達は逆に志を失っている。怠惰にただ無駄に日々を過ごしている。
命をかけることで、子ども達の目を覚まさせたかった』
非常に特殊で大きな事件だったため、世間は大きく騒いだ。
二十名の中でも最年長で唯一成人していた隼人は様々な取材攻勢に困ったりもしたが、その後日本で大震災が起こったこともあり、『G.A.M.E.』誘拐事件は人々の記憶から静かに消えていった。
からんと軽いベルが再び鳴り、今度は女子大学生と思しき初顔さんがやって来た。
「いらっしゃいませー、お好きな席へどうぞ」
常連さんのときよりは丁寧に声をかけて白湯を持っていく。メニューは席に置いてあるのでまたすぐにカウンターに戻る。
(…G.A.M.E.がなかったら、俺、今、どんなつまらん人生送ってたやろう…?)
角切り豚の洋風煮込みを作りながら、ぼんやりと隼人は思考を巡らせる。
―――きっと親や世間の言いなりのまま、何をしても達成感を得ることなく、死ぬまで退屈で茫洋とした人生になったに違いない。
個人的に隼人は、G.A.M.E.に対して、そして社長に対して、言葉では表せないほど感謝している。
カフェ経営は確かに大変で、毎日くったくたのへろっへろになっているが、料理が好きで、人の話を聞くのも、色々と気遣いするのも好きな自分には向いているともう自他共に認めている。……母親以外は。
その母親もごくたまに顔を合わせればまだ嫌味皮肉苦言の嵐だが、二七歳と転職が難しくなる年になっても頑固にカフェに拘る隼人に対し、事実上白旗を挙げている。
一昨日も来た妹の話では、最近母親が真剣に初来店を検討しているらしい。いい傾向である。
ちなみに妹は週に一度は必ずやってきて、「身内やろ? 原価でよろしく」と笑顔で容赦なく半額以下に値切り、腹一杯飲み食いしていく。経営者としては困った客だが、とても店を気に入ってくれているのは伝わってくるし、友達がイベントをするときには必ず店を紹介してくれたりと何かと陰で宣伝してくれてたりするので、隼人としては有り難い限りである。
「すみませーん」
女子大生に呼ばれ、チャイラテを作り、持っていく。
茶色の軽くウェーブのかかった髪に、一人の少女を思い出した。
(さつきとかって、今何してんのやろうなぁ…)
実は隼人はあの四人には、G.A.M.E.から帰還してから一度も会っていない。
いや、厳密には警察の取り調べなどで何度か顔は合わせたが、ほとんど話をしないままで、今では連絡先も全くわからなくなっていた
四人の学校は知っていたので調べようと思えば調べられたが、隼人は何もしなかった。なぜなのか、自分でもよくわからない。
ただ、あの特殊な状況で、人生のターニング・ポイントを一緒に過ごしたという特別な思い出を、ただひっそりと大切にしたいと思った。現実で会うのは……うまく言葉にできないが、何か違う気がするのだ。
だが一人だけ、確かな消息を知っている。ラウルだ。
以前に訪れたカフェ併設のギャラリーで、個展をやっていたのだ。
水彩の細やかな絵は、更に綺麗に、幻想的に、洗練されたものになっていた。一瞬で心を奪われた。
その日は会場にラウルがいない日だったので、やはり顔は合わせていない。しかし折角なので一枚買って、今この店に飾ってある。空と草原と蝶の絵だ。お客さんの評判も上々で、こっそり鼻を高くしている。
彼は自分が最初に見つけたんですよ。あの夢のような世界で、と。
―――からん。
またドアベルが鳴り、もはや染み付いた動きで「いらっしゃいませー」と言いながら来店者を見る。そして―――
互いに絶句した。
「……え…?」
ぽかん、と顎を落として固まっているのは、二十代半ばの女性だった。
髪はパーマのかかったショートカットで、色は栗色。すらりと背が高く、上品なグレーのパンツスーツがよく似合っている。その呆けた顔にはきちんと丁寧に化粧が施されてはいるが、愛嬌のある顔立ちと大きな口は、変わりようがなかった。
「……え……はや、と…?」
記憶より若干ハスキーになった声。流れた歳月の長さを感じた。
七年前の晩秋。
あの不思議な世界で出会った快活な少女が―――見とれるような大人の女性になって、目の前に現れた。
だが驚きすぎたときの呆けた顔は、確かに昔の彼女のままで。思わず笑いがこみ上げる。
(……このアホ面は変わらんなぁ)
懐かしい。
とてもとても懐かしい。
そして―――泣きそうなほど、会えてうれしかった。
こんなにも再会を心待ちにしていたことに、隼人は驚きつつ、納得していた。
探さなかったのは、何もしなくてもいつか巡り会えると、縁は繋がっていると信じたかったからだ。再び出会うまでに自分を変えて、彼女達に堂々と会えるようにしたかったのだ。現実世界の自分はあまりにも怠惰で情けない人間だったから。
ようやく―――会えた。
心がいっぱいで胸が詰まる。だが入り口に突っ立たせておくわけにもいかない。
「………久しぶり、さつき」
何と声をかけるべきか少し悩んだが、結局隼人はものすごく陳腐な言葉を選んだ。
「ひ、ひさしぶり…って…え…? …え、えーっと、な、なんで……?」
「ここ、俺の店やねん」
「隼人の店ぇ―――っ?!」
叫ぶさつきに、何事かと他の客が全員振り返る。
慌てて「すみません!」と謝り、さつきは急いでカウンターに座った。見た目の雰囲気は随分と変わったのに、やはり根本的なところは変わっていないらしい。思わず苦笑が漏れる。
向かい合うと―――あの不思議な世界での二週間の、とてもとても密度の濃い日々の思い出が走馬灯のように脳裏を次々と過ぎる。
二十五歳になったさつきは、泣き笑いのように笑った。
―――会いたかった。
その顔からひしひしとさつきの思いが伝わってきて、つられて隼人も泣きそうになる。
さて、あのG.A.M.E.からの七年を、どう話そう。でもまずはさつきの話が聞きたい。
どう切り出すか迷いに迷った挙句、隼人はこう尋ねた。
「さつき、元気にしてた?」
怒濤のようにさつきが話し始めるまで、あと数秒。隼人は微笑んで待つことにした。
-了-
もう5年も前に書いたものなので色々と古いところのあるお話でしたが、楽しんでいただけましたでしょうか?
VR世界だのゲームだのあまり知らないのに挑んだので、諸々の至らない点があるのは寛容にご容赦いただきたく…(苦笑)
それでも、このお話が、わたしの原点です。
今もわたしを支え続けてくれる、一番最初にきちんと書くことができたオリジナル小説です。
読んでくださったあなたにも、何か残せましたら幸いです。
陵野絢香