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「…怪我と聖子の治療、助かった」
坊主が礼を言うと少女がぺこりと頭を下げ、その横で少年二人も会釈した。隼人は苦笑を返す。
「いやこっちこそ。結界なかったら俺とっくに死んでたし、真奈美の居場所もわからんかったし」
弘毅のサイコメトリーによって、真奈美の精神が体から消えていることがわかった。どこかに隠れているのではなく、完全に体の中に『いない』がないのだという。衝撃を受け混乱する隼人達に、坊主が「それ、たぶん妖精の仕業や」と言った。
聞けば以前にフェイクの一人から、「スカイビルの空中庭園には妖精の楽園があり、人の魂を集めて遊んでいる」という情報を得たのだそうだ。
他に当てもないし、真奈美をこのまま放ってはおけない。疲労はあるが、隼人達はすぐに大阪市の北地区の中心部に程近いスカイビルの屋上に作られた『空中庭園』へ向かうことにした。
「…じゃあ元気で」
「…ああ、お前らもな」
ぎこちなく挨拶を交わす。一時的に共闘はしたが、これ以上一緒にはいられない。それが互いの結論だった。
彼らも無事に生き延びてほしいと思うのは、隼人が甘いのだろうか。
「よし、いくでー!」
掛け声と共にさつきがアビリティーを発動させる。
風が沸き起こり、隼人達が乗り込んでいる現実感のない丸い壷のような浮遊物体、ラウル曰く『空飛ぶ籠』が勢いよく空に舞い上がった。
車のないラウル達が隼人達の許へ駆けつけられたのは、この空飛ぶ籠をさつきが風で操り、文字通り飛んできたからだった。籠には宙に浮かぶくらいのスペックはあるが、スピードを出して飛行する能力はない。そこをさつきが力技で何とかするのだ。
(き…気持ちわる……)
万事大雑把なさつきの操縦は案外まともで、下手に車で行くよりよっぽど早く安全ではあるが、籠は直径四メートルほど。五人が悠々座れる広さはあるが、これが空を飛ぶとなると、どれだけ操縦者が気を遣おうとも空気抵抗でかなりぐらぐらする。
実は乗り物酔いしやすい隼人は青い顔で口を押さえる。その背を、「大丈夫ですか?」とラウルがさする。
一瞬吐き気が治まった隙に、隼人はちらりと横目で右側を見た。ちょこんと座った真奈美に、弘毅が寄り添っている。
通常意識がなければ体は弛緩するものだが、『精神』がないと状態の真奈美は、こちらが促せば立ったり歩いたり普通に動く。まるで大きなマリオネットのようだ。
「じゃ、今から上がるで!」
さつきが声をかけ、ずっと横移動していた籠が縦に浮上を始めた。
すぐそばには先程の場所から車では最低十五分かかる件のスカイビルが聳え立っている。五分ほどしか経っていないが、もう着いたらしい。さすがに早いなと感心しながら、隼人は徐々に開けていく景色を何とはなしに眺め、そして言葉を失った。
「な、んや、これ……」
さつきが呟き、上昇が止まる。だが誰も注意する余裕はなかった。
(海と山の方が…真っ黒に…)
大学一回生のときに少しだけ付き合った彼女にせがまれて、隼人は空中庭園を訪れたことがあった。あまり楽しくない思い出の場所なので、逆に周りの展望は鮮明に記憶に残っている。
スカイビルからは、大阪府を囲む北・東・南の三方の山並み、そして西の海の向こうには兵庫県の瀬戸内海沿岸部が見えた。
夕焼けが広がる快晴にもかかわらず、山脈の上の方は黒くぼんやりと霞んでいる。その黒い靄はごくゆっくりとした速度ではあるが、麓を飲み込むように降りていっているように見える。
西方も海があるはずの場所が黒く塗りつぶされ、黒い靄が蠕動する虫の大群のように内陸へと徐々に這い上ってくる。
大阪府だけがぽかりと世界に浮かんでいるような、闇に呑まれかけているような、そら恐ろしい光景。
「……また揺れてる」
ラウルが小さく呟いた。確かにもう何度目になるかわからない地震で建物がぐらぐらと揺れていた。
大規模な損壊を被るほどの揺れは最初の二回だけだったようだが、繰り返される余震に段々と建物の数が減ってきている。
何が起きているのだ。このG.A.M.E.の世界に。
『どうしたのじゃ? 何か恐ろしいものでも見たような顔をしておるぞ』
唐突に話しかけてきた声に隼人達はばっと振り向いた。
ちょうど誰もいなかった籠の中央部に、女が佇んでいた。思わずごくりと唾を飲む。
雪の肌はしっとりと潤いに満ち、長いぬばたまの髪は黒曜の輝きを放つ。着崩した浴衣の襟元から豊かな膨らみが覗き、スリットのように割れた着物の裾から艶かしい生足がのぞいている。百合も牡丹も霞むような、絶世の美女だ。年の頃は二十から四十までのいくつにでも見えた。
だが涼しげな狐目の黒い眸の奥にちろちろと紅いものが底光りしている様に、隼人の背筋はうすら寒くなった。
これは、人間ではない。弘毅が左腕で真奈美を庇いながら、唸るように誰何する。
「………お前、何だ」
『ふふふ、賢しい小僧どもじゃ。素晴らしい。わらわはの、九尾の弧じゃ』
手にした豪奢な白い羽扇で口元を隠し、満足げに美女が目を細めた。
九尾の狐と言えば『妖弧』と呼ばれる化け狐の中でも最強のものだ。非常に頭がよく、狡猾で、中国の伝説によれば人間に化けて王朝を滅ぼしたこともあるという。
『そなたらの用件は、先程招いたそこの小娘の魂じゃな? 心配するな、わらわの庭で遊んでおる。フェアリーガーデンの主が許す、それ、上がってきや』
くるりと九尾がその場で回転すると、白い煙と共にその姿は掻き消えた。どうやら分身だか幻だかを見せられていたらしい。
自ら『妖精の庭』の主を名乗ったところをみると、この上にある空中庭園を仕切っているのはどうやらこの九尾らしい。
しかし妖精といえば、最も有名なティンカーベルを含め、全て西洋の伝承のものだ。なぜ東アジアの大妖怪がフェアリーガーデンの主なのだろう。
「……とりあえず、上がろか」
「…了解」
考えていても仕方がない。隼人が促すとさつきが再び風を放った。みるみるうちに高層ビルの四十階に―――デートスポットとして名高いスカイビルの空中庭園に到達する。
そこは以前の記憶から、がらりと様変わりしていた。
『庭園』という名がついているが、星をテーマにした施設、屋上展望台、カフェやバーがあるばかりで植物はほとんどなかった。
しかし今は至る所に蔓性の植物が咲蔓延り、種々の花々で埋め尽くされている。しかもどういう仕組みなのか、三九階から屋上にかけて丸く吹き抜けていた部分には、高木低木が入り混じって林立している。何も知らない人間が見ればあたかもビルの中に森があるかのように見えただろう。
しかもその森と化した空中庭園のあちこちで、仄かな明かりが―――違う、たくさんの妖精がふよふよと飛び交っている。
まさに、妖精の庭。
『ふふふ、小僧、小娘、よう来たの』
空飛ぶ籠から降りるのも忘れて呆気に取られていると、笑みを含んだ声が降ってきた。
視線を巡らすと、最も高い木々の頂上付近に、銀に輝く毛皮を敷き詰めた玉座があった。
容姿はさきほどの分身とほとんど一緒だが、こちらには先ほどなかったふわふわの尻尾が九本、孔雀の羽のように広がっている。羽扇で襟元を煽ぎながら足を組むその仕草は扇情的だが、隼人は何よりもまず恐怖を覚えた。
(気ぃ抜いたら、呑まれる…)
ドラゴンやリヴァイアサンも相当恐ろしかったが、種類が異なる。スフィンクスが一番近いが、それともまた質が違う。美貌では隠しきれない、禍々しさを感じる。
妖艶な微笑みと雅やかな言葉に誘われて油断すれば、狡猾に嵌められると本能が警鐘を鳴らす。
『どうした? 降りぬのか?』
不思議そうに九尾が首を傾げる。本音を言えば、隼人はこの庭に足を踏み入れたくなかった。だがそれでは真奈美を返してはくれないだろうとわかっていた。
互いに目配せを交わし、頷き合ってまずは弘毅が跳び移り、そして次に真奈美を男三人で担ぎ降ろす。最後にさつきがひょいと籠を乗り越えて、空中庭園の屋上に着地した。
かすかにビルが揺れた。また地震だ。小さいが確かに揺れた。
(…ほんま、何が起こってるんやろう……?)
次から次へと事件が起こるので、考える暇がない。だが明らかにG.A.M.E.が始まったときと比べ、様子がおかしい。
「……真奈美さんはどこにおる?」
弘毅が唸るように尋ねる。九尾は優雅な仕草で、羽扇で口元を隠す。
『せっかちな男は女に好かれぬぞ』
「んなことどうでもええ! 真奈美さんはどこや!」
なおも詰め寄る弘毅に九尾はため息を吐いてゆったりと肘かけにもたれ、さも残念そうな顔で緩慢に答えた。
『それがのう……その小娘の魂はわらわの夢の庭がいたく気に入ったらしく、「もう体に帰りたくない」と言うておるのじゃ』
「はぁ?!」
「何やって!」
さつきと弘毅が同時に声を上げる。行き違いはあったが、こういうところは息が合っている。ラウルも信じられないと眉根を寄せて絶世の美女の方を睨む。
『体に帰らぬということはG.A.M.E.を放棄するということ。ゲームオーバーになってもよいのかとわららも確認したが、「もう疲れた」と言って、この庭の何処かで妖精たちと遊んでおる。まあしかし、別に今すぐゲームオーバーにさせるには惜しいからの、とりあえずわらわの力で保護しておるのじゃ』
「そんな……」
『わらわの力ならば、一度離れてしまった魂を無理矢理に戻すことは可能じゃ。だが、さすれば歪みが生じる。たとえG.A.M.E.を無事クリアして現実に帰ったとしても、何か不具合が生じるじゃろう。……小娘の魂を招いたのは、わらわの可愛い妖精どもじゃ。責任はわらわが取ろう。……これ、あれを持って来や』
九尾が扇を二度叩くと、ふわりと五つの燐光が隼人達の前に現れた。いや、燐光に包まれた妖精達だ。
姿形は人間とほとんど同じだが、隼人の手のひらに納まるほど小さく、トンボのような透明な羽がきらきらと背に輝く。確かに映画やマンガで見る妖精そのものだ。
少年少女からお年よりまで様々な年齢と見える妖精が、色とりどりの洋服に身を包み、それぞれ、その腕には大きな球体を抱えている。
さつきが目を丸くして呟く。
「玉…!」
『そなたらは確か、今五つの玉を持っておったな? これらはわらわ達が拾ったものじゃ。これがあればそなたらは最後のミッションへの挑戦権を得られるであろう。どうじゃ? 悪い話ではなかろう?』
ふわりと玉座から九尾の体が宙を舞い、音もなく隼人達の目の前に着地する。
数多の宝石が象嵌された白い羽扇を広げ、耳元に囁く。
『あの小娘はお前達と共に生き残ることを拒否したのじゃ。こちらを見限った相手に別れを告げれば、労せず残りの玉を得て―――こんなゲーム、すぐにクリアできるぞえ……?』
ぐらりとビルが揺れる。地震だ。やはりおかしい。
隼人はちらりと広がる風景を横目で展望する。黒い靄のような、虫の大群のようなものが、先程よりもわずかに近寄っている。
(……何が起こっとるんや)
隼人はもはや確信を持っていた。何かとんでもないことが起こっていると。
『……なぁ、拒絶された者が拒絶するのは、当然の報いじゃろう…? そなたらはただ、「うん」と云えばよいのじゃ…さあ……』
とろりとした密の中に甘い毒薬をほんの一滴混ぜたような心地よい声が、隼人の鼓膜を甘く震わせる。駄目だとわかっているのに、頷きたくなる。騙されたくなる。だが。
「嘘はやめてください。真奈美が、生きて現実に帰ることを拒否するなんて、ありえません」
強張る頬を動かし、隼人は意思の力でゆるりと微笑んだ。
蠱惑的な囁きに半ば茫然としていた弘毅達がはっと顔を上げる。
全く耳を貸さない隼人に、九尾は訝しげに眉根を寄せた。
『何じゃと? ありえないなぞ、他人のお前がどうして言える?』
「確かに真奈美は、疲れとるでしょう。……でも」
周囲に応えるために他人の望むまま人形のように振舞い続ける『自分』を、常に冷静に観察する『別の自分』がいるなんて、考えただけでも気が狂いそうだ。しんどすぎる。隼人には到底無理だ。
隼人は自分を殺すことで、感情を捨てることで、周囲に従って生きてきた。ゆえに死に直面するまで『生きたい』という単純な欲求すら忘れていた。
だが真奈美は違う。
「真奈美は、誰よりも『生きたい』と願ってます。……俺よりも、よっぽど」
自分の中に二人の人間がいたとしても、それで構わないと思っているなら、葛藤するはずがない。
日々やりすごしながら、必死で『私として生きたい』と願っているから。客観的に、冷徹なまでに自分を、周囲を見つめ、自分が何をしているかきちんと理解しているから、悩むのだ。
自分の中に在る矛盾も瑕疵も空虚さも穴も、全てきちんと受け止め、受け入れて、真奈美は何とか生きてきた。煙草を吸っても、時にやらかしたとしても―――本当の『私』になることを求めて。
『わたし』が真奈美自身として生きる。
その夢を達成しないうちに、彼女が諦めるとは思えない。
「真奈美が帰らんって言うたんなら、それはあなたが甘い夢見せて、現実を忘れさせとるから。もしくは、あなたが真奈美を返したくないから、どっかに閉じ込めてる。………違いますか?」
隼人はぐっと腹に力を込めて、九尾に向かって微笑んだ。
しばしの対峙の後、先に視線を外したのは九尾の方だった。嘆息して羽扇を広げる。
『…大層な自信じゃの。しかし真実、小娘が体に戻ることを拒否しておるとしたら、どうするのじゃ?』
「うーん…、まあ、そのときは、俺の思い違いやったってことでしょう」
隼人は頬を掻く。まあないと思いますけど、と心の中で付け加えながら。
ぱちりと羽扇を閉じ、ふわりと九尾が展望台の床を蹴って高座へ戻った。肘置きに頬杖をつくその表情は、どことなく面白くなさそうだ。
刹那、地鳴りと共に激しくビルが揺れる。
立っていられない。展望台の手すりに必死に縋り付く。
(なっ………!)
山の方を眺めやった隼人は絶句した。
黒い蠢く靄が振動と共にぐわりと広がり、山も麓の町も海辺の住宅街も飲み込んでいく。靄は緩やかにだが確実に先程よりも速度を上げて、山から平地へ、海から内陸へとゆっくりと進攻していく。黒の領域が着実に広がっていく。
まるで―――G.A.M.E.の世界が消えていくような。
「あれは……?!」
『知りたいかえ?』
妖弧の唇が、紅い三日月を形作る。背筋を氷塊が滑り降りる。
九尾は耽美な仕草でいつの間にか取り出した煙管を咥え、煙で四つの円をなし、二本の尻尾をふわりと振った。
『……これを見よ』
煙の円は宙を漂いながらやがて光を放ち、鈍い銀色の、丸い古代の鏡へと変じて隼人達四人の前に浮かび上がる。
目の前の鏡を反射的に覗き込み、隼人は全身の力が抜けていくのを感じた。
―――母親が、そこにいた。
優秀な生物学の研究者であり、専業主婦を求めた会社員の父に三行半を叩きつけて現在有名私立大学で教鞭を取る、改めて見ると皺が増えて昔よりも随分と険しい顔つきになった母親が、鏡面で溜め息をついた。
『隼人、そんなゲームさっさとクリアして、帰ってきてちょうだい。トモが待ってるんよ。隼人の料理が食べたいって』
トモは二つ下の妹だ。母と同じく勝気で理系の女で、性格が正反対だからか、兄妹仲は良かった。
『隼人はいい子で、手ぇかからんくて助かるわ。言うたことは昔から一度で覚える頭のええ子やから勉強もようできるし、変に遊び歩いたりもせんし、バイトもちゃんとしてくれて、自分のことはちゃんと自分でできるし。料理も洗濯も掃除も、トモよりよっぽど上手やしねぇ。お母さん、安心して家を任せられるわ。あ、晩ご飯はアサリの酒蒸しでね。付け合せは任せるわ。そういえば来年は就活やね。狙うは銀行か公務員やで。安定したとこがやっぱええわぁ…』
鏡の中の母親が、滔々としゃべる。
その全てが、自分を縛るための呪文のようだ。途中から、もはや隼人は母親の言葉をただの音として聞き流し始めた。
母が隼人を褒める内容のほとんどは、隼人が母にとって都合のいいこと、母が求めることをしたときだけなのだと、改めて気付かされた。
(……そりゃ、褒められよう思ったら、言いなりになるしかないよな…これ…)
小学校の高学年のときだったか。
下校途中、通りがかった畑の向日葵がきれいでじっと眺めていたら、おじさんが一輪分けてくれた。母が喜ぶかなとわくわくしながら花を持って帰り、花瓶を探して生けて居間で母を待っていた。
だがたまたま疲れて帰ってきた母は向日葵に見向きもせず、隼人が話そうとすると「うるさい! 疲れてるんだからあっち行って!」と怒られた。そういうことが何度かあった。母のためを思ってしたことで褒められたことは、ほとんど記憶にない。
逆に失敗したことで怒鳴りつけられたことは、両手で余るほどの数をはっきりと記憶している。特に人前で失敗したときは「恥ずかしい! どんな子育てをしてるのかと思われるやないの!」と散々責め立てられた。
そして隼人の話はたとえ喜ばしいことでも母の気分が向かないと聞かないくせに、自分が話したいときは隼人の状態などお構いなしに、愚痴や世間話を無理やり聞かせる。嬉しいことがあれば「よかったね」と言わないと拗ねる。「ここまで育ててきたのに」とぼそりと呟く。言うことを聞かなければ正論で詰る。
―――子守をしているようなものだ、これは。
いつでも母親の機嫌をうかがう癖がついている。それは他人の顔色をうかがい、常に波風を立てないように行動する隼人の性格の由来なのだ。
(……うん、まあ、……こっちに来て、気付いてた、けど)
女手一つで育ててくれた母に感謝はしている。
しかしG.A.M.E.の世界で真奈美と話し、アダムにざくりと指摘され、弘毅を見て、ラウルやさつきの考えに触れて、思い知らされた。
『……隼人、聞いてるの?』
いつの間にか母が立体となり、すぐそばに立って自分を睨んでいた。妹によく似た、自分よりもう十五センチも背の低くなった母親の顔を見下ろす。自分に集中しない隼人をどうやって詰ってやろうかと考えているときの表情をしている。
いつもなら笑って誤魔化す。だがもうそんなことはできなかった。
気付いてしまったものをもう一度忘れることなんて、できない。
「なあ、ええ加減にしてや。―――俺はあんたの玩具でも所有物でもない」
無表情で言い捨てた隼人に、母親が更に眦を吊り上げる。
『自分のお母さんになんて失礼なこと言うん! あんたが小さいときから色んなとこ連れてって時間取ってあげたのに! キャンプにも海外旅行にも散々連れて行ってあげたのに! 塾だってちゃんと行かせてあげて、ちゃんと大学までやってあげたのに! いつも『ありがとう、母さんのおかげや』って言ったのに!』
「あのさぁ…それ、母さんがやりたいからやってくれただけやろ。俺がどう思うかなんて考えたことなかったやろ。『こんなにしてあげてんのに』って―――俺が全然うれしくなくても、感謝しろって強制されて言っただけや!」
『………謝りなさい!』
がっと母親が隼人の頭を殴った。さすがに予想外でぐらりとよろめいて、思わず膝をつく。その喉に皺が目立つようになった両手が絡みついた。
―――ここまでやるか。自分の息子に。
気道が閉まって息が詰まる。引き離そうともがくが、どこにそんな力があるのかと思うほど恐ろしい怪力で母親は隼人の首を締め付ける。
殺したい、と反射的に心が呟いた。
こんなやつ殺してしまえ。こんな非道な女、母親でも何でもない。ずっと隼人の心を足蹴にし、意志を踏みにじり、奴隷としてきた女に復讐するんだ。同じように―――殺してやればいい。
人間の『命』を奪うことを、殺人という。
ならば人間が人間たる証である『心』を殺すのも、罪は同等じゃないか?
―――ふいに、ぽたり、水が落ちた。
『こんなにあんたのこと考えてあげてる私に対して…そんな…ひどい…ひどい……謝れ! 跪いて謝れ! 私が許すまで謝れ!』
認めろ。認めろ。認めろ。私の方が正しいと認めろ。
私のやることは、やってあげることは全て正しく素晴らしく、感謝される価値のあることだと認めて褒め称えろ。
―――首を絞める怒り狂った母親の形相から、涙が転々と落ちてくる。
これまでの隼人だったら母親を泣かせたことに動揺して、ひたすら謝っただろう。彼女の望むように跪いて許しを乞うただろう。
だが今はただ、かわいそうな人だな、とだけ思った。
母親は支配することでしか愛せない人なのだ。支配して崇められることでしか、満足を得られない人なのだ。そしてその満足もわずか数瞬で失って、次々に新しい満足を求め続け、支配し続けることしかできない人間なのだ。
そして―――どこかでこの人がいつかは『本当の隼人』を褒めて、認めてくれると信じていて、その願いは永遠に叶わないことを悟った。
血の繋がりという他人にはないものを共有するこの人は、他人から承認され続けなければ満たされないこの人は、自分で自分を満たすことができないこの人は―――『本当の隼人』など理解できないのだと思い知った。
万力を振り絞る母の手にそっと手を添えると、弾かれたように母が離れた。
奇妙なものを見る目で、隼人を睨んでいる。
「………ごめんな、母さん。俺、先に行くよ」
隼人は目を閉じた。
胸の中に渦巻く感情の濁流があるのが、しっかりと感じられる。
常に誰かに何かに支配されていた自分への嘆き。
支配してきた者の筆頭である母への恨みと復讐心。痛み。苦しみ。
誰かにただ認めてほしいという欲求。自分の望むように褒めてくれと強請る気持ち。子どものように、子どものときに甘えられなかった分、誰かに甘えたい、ひたすらにどろどろに甘やかしてほしいと希う欲望。
―――たくさんの、認めたくないような醜い感情。
(……全部、俺のものや)
人間には感情がある。ポジティブなものもあれば、反対にネガティブなものもある。だがどちらもなければ、快い方も味わうことなどできやしないのだ。
捨てていたから隼人は『今生きている感覚』を失くしていたのだから。
「―――九尾。俺は全部受け入れるよ」
隼人が静かに、しかし力強く言い切った。
ぴしりと母親にヒビが入る。
『…裏切り者ッ!』
ひび割れながら母親が金切り声で叫んだ。だがその声にもう支配されることはない。
「ごめんな。…さよなら」
金属の割れる音と共に母緒が粉々に砕け散った。
ぐわりと空気が歪む感覚の後、目を開けると『妖精の庭』と化したスカイビルの空中庭園だった。空がうっすらと赤く染まってきた。もう夕暮れの時間なのか。
ぼんやりとしていた隼人の耳が、唸る声が捕らえた。
『………なぜじゃ』
九尾が信じられないものを見る目で隼人を睥睨する。
『なぜじゃ! 自分の醜い部分を突きつけられて、なぜ、それを受け入れられるのじゃ!』
静かに隼人は苦笑する。
「……だって、それがなかったら、俺は『俺』やなくなるから」
隼人はもう誰かのいいなりになってきれいなものだけ見る『人形』ではない。―――人形ではいられなくなった。見て見ぬふりしていた醜い自分の一部を受け入れたから。
自分のために。自分が『自分』であるために。
―――ありのままの『自分』で生きていくために。
再びぴしりという音が夕空に響いて振り向く。
ラウルの前の鏡が砕けて、床にばらばらと床に落ちた。へなへなと床にへたり込んだラウルに、慌てて隼人は駆け寄る。
「大丈夫か、ラウル!」
青ざめてはいたが、隼人が呼びかけるとラウルが眉を下げて笑った。出会った頃は頼りないばかりだったが、今はずいぶんと顔つきが変わったなと隼人は気付いた。
「う…あぁぁあああ!」
突然弘毅が頭を抱えて絶叫した。彼の頭上には真鍮の鏡が夕陽を受けて赤くきらめいている。
「消えろ消えろ消えろ消えろ……」
弘毅が腕を振りかぶる。サイコキネシスを使うつもりだ。弘毅が睨みつける先には、呆然と膝をつくさつきがいた。まずい。九尾がにやりと唇を綻ばせる。
「消えろぉおおおッ!」
「さつきっ!」
弘毅が握りこぶしを振り下ろす寸前、隼人は咄嗟に飛び出した。
さつきを引き倒して床を転がる。目に見えない圧力が嵐のように吹き荒れる。小さな石や木の枝がむき出しの顔や手に辺り、皮膚が切れる。
ようやく念動力がやんだ。目を開ける。弘毅が肩で息をしながらぶつぶつ呟いている。
「ラウル」
名前を呼んだだけだったが、ラウルはひとつ頷いて弘毅に近付いた。ひとまずあちらは任せよう。一遍に二人は相手できない。
床に倒れていたさつきがゆるゆると起き上がり、ぼんやりと辺りを見回した。
「……あれ…? 父ちゃん? 母ちゃん?」
「は?」
唐突な言葉に隼人は素で声を漏らした。
「…あれ? おにいちゃん、だあれ?」
退行状態なのだろうか。さつきが小首を傾げ、まだ焦点のぼやけた目で隼人を見上げる。
九尾が出現させた鏡がいつの間にか一つ消えていた。先程のサイコキネシスの嵐で壊れたか。だが鏡が割れてもさつきはいつものさつきに戻らず、子どものような拙い口調で話しかけてくる。
(自力で抜け出す前に割れるとこうなんのか…)
どういう仕組みかわからないが、鏡が要なのは確かだろう。そして壊せばいいというものでもないらしい。
何にせよ、どうにかしないことには大変まずい。だがどうすればいいのだろうか。
混乱しながらも、隼人はとりあえず質問に答えてみた。
「隼人、やで」
「はやと?」
「そう。君の名前は?」
「さつき。ねえ、はやとおにいちゃん」
「うん?」
「……うち、いらん子なん?」
隼人は驚いてさつきを見つめた。さつきはうつむいて歯を食いしばりながら、小さな声で訥々と問いを重ねる。
「いらんこやから、おとうさんとおかあさん、さつきがおてつだいいっぱいしても、ほめてくれへんの? だいやぜんみたいに、いいこいいこしてくれへんの?」
大や善というのは、何度か聞いた名だ。確か年の離れた二人の弟だ。
雑談や世間話で、さつきは家族の話をすることが多く、仲の良いところしか聞いていなかった。さつきの家は古くからの商家で、両親がいつも忙しそうに働いていて、さつきも小さい頃から手伝っていると言っていた。それが楽しいし、頼りにされてうれしいのだと。
だが今の質問は、今まで聞いた話と食い違っている。なぜ。
(………もしかして、退行してるから…?)
そう思いついたとき、隼人の口からするりと言葉が飛び出した。
「…さつき。大丈夫、さつきは大事にされとるよ。お姉ちゃんやから、しっかりしとるから、お父さんもお母さんも安心してるねん」
「………ほんまに?」
幼い舌っ足らずな声で、涙目でさつきが聞き返す。自分の言葉に驚きながら、隼人は「うん」、と頷き、小さい子どもにするようにさつきの頭を撫でた。
頭の上に手を置いたまま、続ける。
「さつきはお仕事いっつも手伝って、えらいな。いいこや。いっつもお父さんとお母さんのこと考えて、我慢してて、えらいな」
「……うん…」
「さつきがしっかりしてるから、お父さんとお母さんは、さつきのこと、子どもみたいにいいこいいこやなくて、『ありがとう』って笑ってくれるねん。それは、お父さんお母さんと、対等なんやで。大くんや善くんより、すごいことなんやで」
「………うん…」
「でも、たまには『さみしい』って、素直に言ってもええよ。さつきが我慢すると、お父さんとお母さん、さつきがさみしいこと、すっかり忘れちゃうからな。我慢せんでも、ええよ」
「…っ………うん…っ!」
何度も何度も大きく頷き、さつきが笑った。子どものように開けっぴろげな、向日葵の花のような笑顔。
諭しているのは隼人の方なのに、隼人の心が軽くなる。
―――まるで過去の自分に語りかけているような、そんな気分。
隼人もいつも家の手伝いをしていた。母を助けたくて、褒められたくて、構ってほしくて手伝いをすればするほど、「ありがとう」の言葉だけで済まされるようになっていった。それが欲しい訳ではなかったのに。
言葉を紡ぎながら隼人はもう朧げな記憶しか残っていない、昔の寂しさや痛みを思い出していった。さつきを諭しているのに、本当は、自分に語りかけていた。
(……でも、今更やけど、なんか軽くなった…)
忘れていた棘がぽろりと抜け落ちた、そんな、とても心地よい感覚。
「…やめろ…俺は…俺は……!」
「弘毅! 弘毅、目ぇ覚ませ!」
弘毅の唸り声が聞こえ、隼人は顔を上げた。
頭を抱えて唸る弘毅に、必死にラウルが呼びかけるが、効果はない。やがて駄々をこねるように弘毅が上半身を振り回し、うわ言のように「…俺は、お前を…」と繰り返す。
(…もしかしたら……)
隼人はぐっと拳を握り締めて立ち上がった。
「ラウル、さつき頼む。まだぼーっとしてるから」
足早に近づくとラウルはほっとしたような情けないような表情になり、弘毅から離れた。弘毅が恐怖に引き攣った目で隼人を睨みつける。
「こっち来んな! 近寄ったら殺す!」
「うん、わかった。これ以上、近寄らんよ」
隼人が両手を挙げて立ち止まると、弘毅は近づくなと言ったくせに、泣きそうに顔を歪めた。さつきのときと同じように、何も考えず、口が動くままに語りかける。
「…弘毅、お前は悪くない」
「…………」
「お前は悪くないんやで」
「……でも、俺は、あいつらに…」
「そう、確かに何かしたんかもしれへん。でも、弘毅をシカトする理由にはならん。いじめていい理由には、ならへん」
ラウルが驚いたように振り向いた。
隼人はそれに気付いたが無視して弘毅をひたすら見つめた。
「…あのさ、そいつらがほんまの友達やったら、シカトする前に、絶対お前に話ししてくれる。喧嘩になっても、ちゃんと話して指摘してくれたやろう。何が気に入らんかったんか。何に気ずついたんか。……でも、違ったんやろ? 急にシカトし始めたんやろ?」
「………何にも、話してくれんかった…」
「うん。だから、そいつらは、友達ちゃうかってん。いつまでも気にすることないねん。これから悪いとこも指摘しあえる、ほんまの友達を作ったらええねん」
「……そんなん、俺に…できへん…」
「それは、できへんと自分が思い込んでるからや。誰も信じられへんと思ってるからや。……でも一番の原因は―――自分を信じられへんくて、嫌いになってもうてるからや」
「………俺は…」
「弘毅、もうええよ。自分が悪かったんかもって、疑わんくて、ええ。弘毅はええヤツや。俺が保証する。……やからもう、自分を許して、自由になってええんやで」
大粒の涙が、弘毅の目から零れ落ちた。
ぼろぼろ、ぼろぼろと、次々に頬を濡らしていく。
自分を否定されたことで頑なに正しくあろうとしていた弘毅の心が緩み、今までの苦しみや痛みが雫となって体の外へ押し出される。それは隼人の心も洗っていく。
『……ほう。他人の心の傷すら、受け止めて癒していくか。なんとまあ、面妖な小僧よ』
呆れ果てたように九尾が言った。
隼人は眉を下げる。そんな立派なものじゃない。
「…俺は、自分が癒されたいだけ、ですよ」
どんな醜い部分も、切り離せばその人の心を削ることになる。その痛みは、我が身を持って知っている。だから受け入れるしかないのに、自分だけでは気づけない。だから隼人は、その人が言ってほしい言葉を代弁する。
それは隼人が誰かにしてほしかったことで。G.A.M.E.に巻き込まれてから、誰かが無意識に、あるいは故意に隼人にしてくれたことだ。
自分がしてほしかったことを誰かにしてあげた、ただそれだけのこと。なのにそうして他人の傷に触れ、受け入れ、赦し、肯定することで―――実は自分を肯定しているのだと、やってみてから気が付いた。
結局は自分のためだ。
大義名分も何もない。ただしてあげたいからする。それだけ。
『……では、あの小娘は、何とする?』
面白がるように九尾が、人形のように正座する真奈美を煙管で指した。
『恐らく、この中で一番根が深いのはあやつぞ』
「…そうでしょうね」
苦笑して、隼人は真奈美の前に屈み込んだ。
完全に硝子玉と化したその黒い瞳を、覗き込む。
脳裏に浮かぶのは、あの夜のこと。隼人に自分を気付かせるきっかけをくれたあの夜。隼人は混乱して何もかもが疑わしなって自分のことしか見えなくなって、真奈美の問いに何ひとつ言葉を返せなかった。
だが今なら言える。今だから言えることがある。
あの日、真奈美と話をしたから、今の自分があるから。
「……真奈美。あのとき、真奈美は俺に聞いたよな。『わたし、おかしいのかしら?』って」
僅かだったが、ぴくりと真奈美が身を震わせた。
「今なら自信持って答えられる。―――真奈美は、おかしくなんかない」
生まれ持った美貌と優れた頭脳を持つ少女に、周囲は過剰な期待をかける。そして器用で聡明なその少女は、周囲が望むまま、期待通りのことを実際に行動に移せる能力があった。
期待に添えば認められると気付いて、少女はその通りの振る舞いをした。そうして認められて褒められた。
すると、周囲の期待は圧力に変わり、応えるのは義務になった。それでも彼女は応え続けられるだけの力があった。応え続ける限り周囲は少女を認めて褒めた。認められたいと思うのは、人間の自然な欲求だ。逆らうのは難しい。特に子どものうちは。
やがて成長した彼女の心を、これまで誇りだった自分の能力と周囲の賞賛が、引き裂いた。
それでも少女は自分の傷を直視して足掻きながら、さりとて周囲の期待と圧力にも律儀に応え続けた。更に自分が苛まれると知っていても。
―――なんて勇敢なのだろう。隼人は物心つく頃には逃げて忘れることを覚えたというのに。
心からの尊敬を込めて、勇敢で聡明な少女へ言葉を贈る。
「真奈美。お前は悪魔でもないし、おかしくもない。真奈美はさ、やさしすぎて、賢くすぎて、器用すぎただけや。周りのこと、大事にしすぎただけや。―――でも、もう自分の方を大事にしたらええ。ゆっくり手探りでええから、真奈美は、『私』として、偽りのない自分で、生きてええんやで」
隼人ははっきりと、そう言い切った。
刹那、ひゅっと赤い人魂のようなものが森の中から現れた。それは迷うことなく真奈美の胸の中へと飛び込んでいく。
白かった頬に赤味が差す。
ぱちりと一つ瞬きをしたその双眸が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
「―――隼人さん、ありが…っ!」
いつも丁寧な真奈美の言葉尻が途切れる。
涼やかな目元が赤く染まり、少女は静かに嗚咽した。美しい涙につられるように、隼人の眦からも雫が零れ落ちる。
『偽りの無い自分で、生きてええんやで』
それもまた自分に向けた言葉だ。
ずっと誰かに迎合してきて、何もかも捨てて諦めてきた自分に贈る言葉だ。
すぐには無理かもしれない。だからゆっくりでいい。自分を探して、自分を知って、ありのままの自分になっていいのだ。
気がつくと、さつきも弘毅もラウルも隼人達の肩を抱きながら、泣いていた。隼人さんありがとうと口々に言いながら、泣いていた。礼なんかいらんわと返しながら、隼人も泣いていた。夕焼けの橙の光に照らし出されるおかしな光景に、隼人は涙を流しながら笑った。
それは禊に似て。
自分の中に溜まりに溜まったものを溶かして流し出しているような、あたたかく、ほろ苦い涙だった。
(……生きたい。行きたい、いけるところまで)
自分に誰が賞賛するほどの重要な価値や才能があるかなんて、隼人にはわからない。でも、今確かに四人がありがとうと隼人に言ってくれた。それだけでいい気がした。
大切なのは、価値とか誰かの評価とかそんなものじゃなく、自分が一生懸命、ありのままの自分で生きるということ。
自分のことを知らない人間が、他人のことを真に知ることはできない。
自分を嫌いな人間が、自分をどうでもいいと思っている人間が、他の人を大切にできるはずがない。
(…俺は、俺として、俺を大事にして生きたらいいんや……)
生きていてよかったと、どこかで本当に諦めてしまわなくて良かったと心から思った。
しかし終末の刻限は、容赦なくすぐそこに迫っていた。
大地が泣き叫んでいるような地鳴りが沸き起こり、次いでスカイビルが左右にぐらんぐらん揺れた。
18
「…これは…っ!」
涙も瞬時に引っ込んだ。立っていることはおろか、平衡感覚すらおかしくなって、今どういう揺れ方をしているのかわからなくなっていく。
悲鳴すら上げられないまま床に這いつくばる隼人達を、奇妙な浮遊感が襲った。
(…まさか…!)
地上四十階、メートルにして約百七十メートル。そんなところから自由落下すれば人間なぞひとたまりもない。
だが無情にもビル自体の倒壊と共に、空中庭園も音を立てて崩落する。何も考えられずにぎゅっと目を瞑った。
「おわっ!」
べしゃっと隼人は土のグラウンドに放り出された。
咄嗟に何とか不格好な受身を取ったが、右肩がひどく痛む。さつき達もそれぞれおかしな姿勢で地面に激突したらしく、身体のあちこちをさすっている。
(……何がどうなって…?)
見たところ運動場併設の公園らしいが、隼人には覚えのない場所だった。
どうやら隼人達は、誰かに瞬間移動させられたらしい。西日が眩しいが、秋なのでもうすぐ日は落ちるだろう。
昼からの断続的な地震でほとんどの建物が崩れ落ちて、いくら見渡せど瓦礫の山ばかりだ。
(世界が壊れたみたいや…)
浮かんだそら恐ろしい喩えに隼人は小さく体を震わせた。自分で思いついておいて自分でぞくりとした。―――コンピューター内のこのG.A.M.E.の世界が壊れてしまったら、どうなるのだろう。
「うぐっ」
「ぎゃっ! …あーん、いったーい。もー何なのよ、まったくぅ」
現れた二人組にはものすごく見覚えがあった。「…お前ら!」と弘毅が睨みつける。隼人も自然と半眼になる。
「あー、あのときのぉ。まだ生き残ってたんだぁ、意外ー」
相も変わらず派手なゴスロリが隼人達を見て小馬鹿にしたように笑い、冷めた顔の眼鏡が「やめとけ」と小さく嗜める。スフィンクスのミッション後に罠を仕掛けてくれた二人組だった。忘れたくとも忘れられる相手ではない。
弘毅とさつきとゴスロリがばちばちとガンを飛ばし合う。一触即発だ。
「ぐあっ!」
「いっ…!」
「きゃあ!」
ところが現れたのは二人組だけではなかった。
「あれ、あんた達も…?」
「…あ……どーも……」
本日の昼に会ったばかりの坊主達四人も、名前のわからぬ小さな公園にテレポートしてきた。こちらは最終的に和解のようなものが成立しているものの、何とも言えない微妙な空気が漂う。
『ふふふ…』
ふわりと甘い香りが漂い、何もない空間が歪んで銀色の霧が滲み出た。その霧が消えると、妖艶な美女がふうっと息を吐いていた。
「九尾!」
『さて、さて、さて。ようやく役者が揃ったようじゃの、のう―――アダムや』
「全く…最後まで色々と面倒をかけてくれるね、君達は」
最後の陽光が瓦礫の山に消えたと同時。
九尾の隣にいつものように空気からするりと現れたのは、ナビゲーターのアダムだった。もう反射的に睨む癖がついてしまっている。端正な顔に相変わらず薄い笑みを刷いている。
アダムはまず九尾に顔を向け、尋ねた。
「ところでエバ、いつまでそのモンスターの仮装を続けるつもりだい?」
『似合わんかの? 気に入っておるんじゃが』
「まさか。とても素敵だと思うけど、最後くらいは本当の姿でしめないと」
『それもそうね……仕方がないわね』
唐突に現代風の言葉使いでこぼすなり、九尾は青い狐火を手のひらの上に顕した。
青い炎はたちまち彼女の全身を覆い尽くし―――狐火が収束したとき、立っていたのは小柄な少女だった。
まるでアダムと双子のようによく似た、美しい少女だ。
黄金の髪は腰までさらりと流れ、アダムよりわずかに青みの濃い碧眼は長い睫毛で彩られている。アダムはどこか硬質な冷たい印象を与えるが、少女の微笑はもっとやわらかく、ずっと親しみが込められているように見える。
彼女の手をとって恭しく口付けると、アダムは隼人達に言った。
「知らない人もいるみたいだから紹介しとくよ。彼女はエバ。もうひとりのナビゲーターさ。普段は九尾の妖弧として色々と仕掛けてくれていたんだ」
隼人はなるほどと納得した。どうりで九尾はどこかモンスターでありながら、通常のモンスターとは一線を画し、隼人達で遊ぶような試すような行動をしていたわけだ。
ぽう、と公園に備え付けられた街灯に明かりが灯る。
それを待っていたかのように、アダムがにこりと笑んだ。
「さてキャラクター諸君。今日の世界の異常には気付いたかな?」
誰もが内心「気付かないわけがないだろ」とツッコんだが、口には出す者はいなかった。しかしさつきや弘毅をはじめ何人かの顔にはあからさまにそう書いてあり、アダムは目を細める。
「まあこれだけ地震が起きれば気付くのは当然だね。ただ、大阪府の県境から徐々に近付いてきている黒いものについて気付いているのは、おそらくスカイビルを訪れたそこのチームだけだろう」
アダムが隼人達を手のひらで指す。ゴスロリがわざとらしく首を傾げた。
「黒いものぉ? なぁにそれ」
「そうだね、見ていないと説明は難しいんだけど………まあ重要なのは、地震も黒いものも、このG.A.M.E.の世界を破壊していっているってことだ」
「なんやて?!」
さつきが叫ぶ。他のキャラクター達も疑問と信じたくないという思いを口々に呟く。
だが、隼人はやはりか、と小さく嘆息しただけだった。
あの黒いものは触れたところを飲み込み、『無』にしている感じがしたのだ。それに地震もあまりにも頻発しすぎていた。世界の崩壊と言われても納得できるほど。
「まあちょっと色々あって、G.A.M.E.を管理統括するシステムに外部からの不正アクセスがあっんだ。それで自爆プログラムが起動しちゃったんだ」
「自爆プログラム?!」
「なんでそんなもんが……」
「政府には色々とあるんだよ、事情ってやつがさ」
有無を言わさぬ笑顔でアダムが肩をすくめる。無言になったのを確かめ、アダムは再び話始める。
「僕達も鬼じゃないからね。できれば自爆プログラムが終了する前に、キャラクター自身の手で決着を付けさせたいと思って、この場を提供することを決めたんだ」
眼鏡の奥の碧眼が、すっと細まる。
嫌な予感しかしない。
「実はラストミッションへの挑戦権を得られるのは、残り一つなんだ。で、フェイク達を除くと、本当のキャラクターで残っているのは君達三チームのみ。しかもどこも十個未満しか玉を持っていない。―――命をかけるには、おあつらえ向きのシュチュエーションだろう?」
アダムが両手を広げて微笑んだ。だが全く笑えない。
「ということで、舞台はこちらで用意した。役者も揃えた。―――さあ、あとは僕が開幕ベルを鳴らすだけってわけだ。…何か質問は?」
にこりとアダムが微笑むが、重苦しい沈黙を拭い去ることは到底できない。
(……なんか変やな)
隼人は一人首を傾げた。
何の因果か、どちらも一度顔を合わせているチームだ。お互いの能力はよくわかっている。二人組はやる気は満々だろうがアビリティー的に不利で難しい顔をしており、坊主達四人は隼人達と昼間共闘した手前、お互いにやりにくいことこの上ない。
そして弘毅や真奈美も人間相手に攻撃をしかけられないし、さつきやラウルは言わずもがなだ。誰も口火を切れない三竦みの状態。
だがそもそも、アダムの言い分が何かがひっかかった。何かがおかしい。というか、何かがずっと気になっていることがある。だが形にならない。
―――それさえわかれば、この状況がひっくり返せる。そう確信しているのに、何かわからない。
「……あの…」
ふいにおずおずと手を挙げたのは―――なんとラウルだった。
隼人達も他の六人も、驚いてラウルを見やる。
「何かな? 斉藤羅宇流君」
「…ちょっと気になったんですけど、質問してもいいですか」
どうぞ、とエバが柔らかに笑い、ラウルは考え考え口を開く。
「あの……玉って、俺たちが五個で、そちらの四人が八個持ってるんですよね。あと、二人もいくつか持ってるわけですよね?」
「そうだね」
「…で、俺、ずっと気になってたんですけど……確か説明書にも、アダムさんの説明会のときにも」
ぎゅっと胸元を握りながら、ラウルは言った。
「G.A.M.E.が『チーム単位でしかクリアできない』とは一言も言わなかった、と、思うんです、けど……」
虚をつかれたように、アダムが目を丸くした。アダムだけではない。隼人もさつきも真奈美も弘毅も、ゴスロリも眼鏡も、鳥の巣頭も茶髪も坊主も少女も、ぽかんと顎を落とした。
エバがゆっくりと、面白そうに頬を緩める。
(……G.A.M.E.は、チーム戦や、ない?)
最初に五人一組のチームに分けられたのだから、何も疑うことなくそのチーム単位で戦ってクリアしていくゲームなのだと思っていた。普通のRPGと同じように。
心臓が興奮で早鐘を打つ。―――掴んだ。
そう、それだった。ずっと引っかかっていたのは。
「つまり俺ら三チームが玉を持ち寄れば―――この場の全員がラストミッションに挑戦できるってことか!」
半ば叫んだ隼人に頷いて、ラウルはアダムとエバにうつむき加減で問いかける。
「……ええと、どうなんです、かね…?」
自信なさげなラウルの質問の答えを、全員が固唾を呑んで見つめていた。
金髪の双子のようなナビゲーターは、どう答える。それで運命が、決まる。
エバはゆるやかに笑ったまま、静かに目を伏せた。だが何も言わない。任せたような態度で、この質問に答えるのはアダムだと知れた。
皆が憎らしいほどきれいな少年を、半ば睨み付ける。
アダムは長い間、手のひらで顔を覆っていた。
「………ふ…、あははは!」
そして―――ふいに喉の奥で笑うと、笑い声を上げて相好を崩した。
「……まさか、最年少の君に見破られるとは思わなかったな」
初めて見るやわらかい笑顔。
隼人達の顔にも喜色が広がっていく。
「…ってことは…!」
「三チーム合わせて、玉は十九個。―――G.A.M.E.ラストミッションへの挑戦権、この場の全員に与えましょう」
秋風に長いブロンドの髪をなびかせ、エバが告げた。
アダムも微笑んで頷く。
さつきと弘毅がまずラウルに飛びついた。
「すげーっ! やったーっ!」
「ようやった! ラウル、あんたほんま天才!」
「お前すごいわ! やばい! すごい!」
二人の勢いにたたらを踏んで、しかしうれしそうにラウルが頷く。真奈美も「ありがとう!」と涙目で感謝し、隼人も「さすが!」と猫っ毛の頭をぐりぐり撫で回す。さすがに二人組は遠慮していたが、坊主たちもラウルに礼を言いに来た。
本音を言えば、最初は人見知りが激しすぎて、どうしようかと思った。だが―――よかった。ラウルが一緒で良かった。
初めは見ることのなかったラウルの笑顔が弾け、笑顔の輪ができる。
まだG.A.M.E.は終ってはいない。
だが、隼人はなぜかもう大丈夫だと確信していた。
19
不意にまた地面が振動した。
立っていられないほどではなかったが、全員が顔が引き締まった。アダムとエヴァはそれを満足げに眺め、おもむろに少年が口を開いた。
「―――『今、生きていることを証明せよ』。これがラストミッションだ」
きょとん、と皆が目を丸くする。
短い台詞の意味は理解できたが、何を求めているのかわからないと言った顔だ。誰ともなく「……は?」と素っ頓狂な声が上がる。
「言った通りです。今、あなた方が生きているということを、証明してください」
エヴァが丁寧語で繰り返す。
どうやら何かするのではなく、質問に答えよということらしい。
『今、生きていることを、証明せよ』
隼人の顔に笑みが広がった。
それはこのG.A.M.E.に連れて来られて、必死に考えたことだった。ゆっくりと、隼人は静かに口を開いた。
「―――俺は『生きて』る。だから、今、生きてるよ」
言葉遊びのような回答に、しかしアダムとエヴァは楽しげだ。
「それは客観的に証明しているとは言えないな」
「だって、『生きて』るかどうかなんか、本人しかわからん、主観的なものやんか」
思考、心、志、愛、意思、夢、感情。
そういったものは全て目には見えない。
人間が大切だというものは、言葉の上、論理の上、常識の上、つまり視認できないものの上に成り立っているものばかりだ。
見えないものを聞きかじりの知識で『知った』と断じるのは容易い。
だがとても傲慢で、無知な回答。
自分が知っていることは、わかっていることは、全て虚構かもしれない。また、変化してしまったかもしれない。今は真実でも、いつかは虚構になりかわるかもしれない。
自分のことを知っていると思っていた隼人が、己を全く知らなかったように。
だから常に自分を確かめ、周りを確かめ、社会を確かめながら、虚構かもしれないものの上で日々を暮らしていく。―――複雑になりすぎた現代では、そうすることしかできない。
ひとつずつ確かめるように、隼人は言葉を紡いでいく。
「まだ知らない自分や世界があることを常に自覚して、無知をわかって、日々を進んでいく。自分の本当の感情を知って、受け入れて、ありのままの自分を日々知り続けて、間違いながら、謝りながら、人のことを自分のことを赦して、また自分を理解しながら生きていく。自分や他のものの変化を常に受け入れながら進む。―――俺はそれを『生きて』いるってことやと思う」
金髪の双子を真っ正面から見据えて、隼人は笑った。
双子は笑っている。ただ柔らかに、笑っている。
ごう、と世界が揺れた。
黒い靄が目に見えるところに迫ってきた。津波のように、黒に呑まれて消えていく。G.A.M.E.の作り物の世界が消えていく。
だが怖いとは思わなかった。
隼人は隣に目をやった。
さつき、真奈美、弘毅、ラウル。
四人がいてくれたから、隼人はこの結論に辿り着けた。誰一人欠けていてはいけなかった。
心からの気持ちを込めて、隼人は四人に笑いかけた。
「-―――ありがとう」
五人分の声が重なった。
さつきも真奈美も弘毅もラウルも同時に、同じことを言った。なんだか笑える。
苦楽を共にした仲間みんなで、笑った。
―――それが隼人の、G.A.M.E.最後の記憶。
黒い雪崩に巻き込まれ、隼人の意識はぶつりと途切れた。