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G.A.M.E.  作者: 陵野絢香
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12・13・14

12


 淡い緑の光が隼人の両掌に収束し、ふっと消える。「…………おっし、終了。どうや? ラウル」と問いかけると、敷布団の上でシャツを捲り上げて寝転がるラウルが「うん、さらによくなった。ありがとう、隼人さん」と血色の戻ってきた顔で笑った。

 スフィンクスのミッションをクリアしてから三日。

 一命を取り留めたとは言え、まだ細かいところが治りきっていない上に血を流しすぎたせいで、ラウルはまだ床についていた。だが幸いなことに内臓にほとんど傷がなかったので、病人食なら普通に食べられるし、隼人のアビリティーの効果もあって日に日に快方に向かっている。

(……ほんま、不幸中の幸いよな)

 隼人のアビリティーはどうやら自己治癒力の促進と細胞の再生能力を兼ねたものらしく、組織が複雑になればなるほど、範囲が広ければ広くなるほど使用者が消耗する。

 体組織の再生だけで気絶するほど困憊したのだ。より造りが複雑な内臓まで大きく傷ついていたら、助けられたかどうか怪しい。それはまさに不幸中の幸いであった。

 どんがらがっしゃーん、という派手な物音と共に、「ぎゃ――――っ!!」と階下で誰かが絶叫した。声からしてさつきか。咄嗟に身構えるが、「あっつー!」「いたいいたい!」「水、水!」と続いた言葉に、隼人はなんとなく状況を悟って半眼になる。

 まもなく軽やかに階段を上って、襖の向こうから真奈美が顔を出した。

「すみません隼人さん、さつきちゃんがお鍋ひっくり返して火傷してお皿割っちゃって…!」

「…やろうな」

「さつきさん、ついにやらかしたんですね」

 呆れながらも面白がっている顔で、ラウルがぼそりと呟く。

 最近隼人も疲労の色が濃いので、昼ごはんはさつきと真奈美が作っている。真奈美はごく普通の腕前で安心して任せられるが、問題はさつきである。料理の基本はできているのだが何分おっちょこちょいで大雑把な質だ。小さな事故はいくつか既に起していたのだが、ラウルの言葉を借りれば今日ついに盛大に『やらかした』らしい。

 嘆息して隼人は立ち上がり、真奈美と共に早足で一階の台所へ向かう。その短い間に落ちる奇妙な沈黙に、隼人はじとりと冷や汗をかいた。

 あの夜以来、真奈美はいたって普通に、『いつも通り』振舞っている。皆に対しても、隼人に対しても。だが隼人の目にはそれが、そら恐ろしいものに見えてしまうのだ。まるで心のない人形が、あたかも人間のように振舞っているように、見える。

 ここにいるのは誰なんだろう。『高橋真奈美』とは、誰。『わたし』とは、誰。

 ―――そして『田中隼人』とは、何者?

「隼人ぉー…」

 食欲をそそるスパイスの匂いの充満する台所に入ると、さつきが世にも情けない表情で、流しっぱなしの水道水で手を冷やしていた。

 コンロの上にはぐつぐつ煮立ったお湯と出汁、その横に五パック入りの冷凍うどんの袋、床には一枚では済まない皿の破片と頑丈な鉄鍋が散乱している。どうやら昨日の残りのカレーで、カレーうどんを作るつもりだったらしいが、何がどうなったら、料理しているだけでこんな惨事を引き起こせるのか。隼人は思わず額に手を当てた。

「ごめん……」

「…とりあえず、火傷どんな感じなん?」

 ひとまず惨状は脇に置いて、隼人は流しに近づく。さつきは一旦、水を止めて隼人に見せた。

 右の手の甲、特に親指側が真っ赤に腫れ上がって水ぶくれができかかっている。普通にお湯がかかって火傷したとか、そんなものではなかった。

 訝しげに眉をひそめると、さつきが観念したように言った。

「……か、カレーがべちゃって手にかかって……」

 粘りのあるカレーのルーが手にべたりとかかったら、百度近い粘体が肌に密着した状態になる。すぐに流れ落ちるお湯などよりひどくなるのは当然だ。なるほどと隼人は納得したが、呆れ顔になるのは止められなかった。さつきがびくりと肩を揺らす。はあ、と隼人は嘆息した。

「………まあ、まずは手治そか」

 さつきの右手を取り、隼人は自分の右手を重ねるようにかざした。治癒の光がやわらかく傷を包み込み、やがて収束する。隼人の額に軽く汗が浮いている。

「…ありがとう…」

 視線を落としたまま、さつきがぼそりと言った。らしくない覇気のない様子に、隼人はべしっとうつむく頭をはたく。「なっ…」とさつきは反射的に顔を上げたが、顔が真っ赤で潤んだ目にも力がない。

「あんなぁ、今更さつきがこれくらいやらかしたって、何も驚かんわ。……だいたい、アビリティーの訓練始めたときに隣の家の二階吹っ飛ばしたことに比べれば、何やらかそうが大したことないしなぁ」

「………あ、あれは別にわざとやったわけじゃ…」

「うん、やから今回もわざとちゃうやろ? まあ横着しようとはしたかもしれんけど」

 うっとさつきが呻いた。図星だったらしい。「次から気ぃ付けろ」と隼人が苦笑してぽんと頭を叩くと、さつきもようやく表情を緩めた。

「ほら、早よ片付けて飯にしようや。もう昼過ぎるで」

 そのときがちゃりと勝手口のドアが開き、畑の水撒きをしていた弘毅が帰ってきた。「うわっ、なにこれ。ついにさつきさんやらかしたん?」と図星を衝く弘毅に、「ちょっと弘毅、なんでうちだけなん?」とさつきがいつもの調子で言い返す。

「だって真奈美さんがこんなことするわけないやん。さつきさんしかありえんやん」

「ぐっ……わ、悪かったなぁ!」

「やーらかしたーやらかしたー、さーつきさんがーやらかしたー!」

「…弘毅! ちょっと黙りぃ!」と節をつけて歌う弘毅にさつきが飛び掛る。弘毅はひらりと避けて笑い、さつきは怒り、それを真奈美は心配そうに見つめている。

(……俺らは、本物の人間、よな…?)

 ふいに隼人の脳裏に疑念が過ぎる。この光景は、人間それぞれが思い思いに行動した結果の偶然のものなのか。はたまた誰かがプログラミングして起きているものなのか。

 心と思考は目には見えない。―――だから、わからなくなる。

「隼人さん? どうかしたん?」

 いつの間にか弘毅が目の前にいて、隼人を覗き込んでいた。隼人は慌てて取り繕う。

「いや、ちょっとぼーっとしてただけ。まだ疲れてんのかな」

「ほんならお昼できたら呼ぶから、上おってくださいよ」

 片付けとかは三人でやっとくんでー、とからりと笑う弘毅の言葉に甘えて台所を後にする。急な階段を、重い足取りで上っていく。

 この三日間、隙さえあれば自分への疑い、さつき達への疑いが頭をもたげてくる。

 真奈美との会話によって、隼人の意見や意志、時には感情さえも他者に支配されていたことを知った。だからこそ、怖くなる。自分の中には何もない気がする。全てが虚構のような気がする。

 隼人には体も、感覚も、記憶も、思考も、感情も、意識も、ある。だが―――それは全てG.A.M.E.というプログラムが『ある』と思わせているだけなのではないか。全て作られたものなのではないのか。悶々と視線を床に落としたまま、隼人はがらりと襖戸を引いた。

「やあ、久しぶりだね。キャラクターの田中隼人君」

 聞き覚えのある、二度と聞きたくない声に、思わず「げっ」と声が漏れた。

「隼人さん…」と頼りなさげな顔でこちらを見つめるラウルのすぐ横の窓の桟の上で、午後の陽差しを受けて金の髪がきらめく。アダムは今日も無意味に整った顔に薄い笑みを湛えていた。

「スフィンクスのミッションも無事クリアしたようだね。なかなか稀有だよ。おめでとう」

「…そりゃどーも」

 唸るような声になってしまったのは、仕方がない。何せ彼には嫌な思いしかさせられていない。アダムは隼人の顔をじっくり眺め、くすりと笑みをこぼした。

「そんなに怖い顔しないでよ。今日はちょっと視察に来ただけさ。各チームがどんな様子かの確認だよ。まだ数が多くて面倒くさいったらないね」

「……数が多い?」と肩をすぼめるアダムに、隼人は思わず聞き返した。

「脱落したりモンスター化したフェイクのチームの方が少ないよ。二十しか減ってないからね」

 説明書によればフェイクも含めた参加者数は七五〇人。五人一組に換算すると一五〇チーム。そこから二十減ったのなら、残りは一三〇チーム、最大で六五〇人。それをアダムは少ないと言う。……だが、百人も減ったのだ。その中に本物の人間キャラクターがどのくらい含まれているのか、隼人は気が気でなかった。

「……全然、面白くないんだよね」とアダムが独り言ちた。意味がわからず、隼人は金髪の少年の、何を考えているのかわからない顔を見上げる。

「一ヶ月のサバイバルって言ったら、素直に『一ヶ月乗り切ればいいや』って思ってる奴らが想定以上に多くて。フェイクも現代っ子の思考パターンをスキャンして作ったからか、意外と大人しいというか考えなしのが多いし、スフィンクスのミッションのクリア率も有り得ないほど低いし。強奪を狙うチームも『他のチームが見つからない』とか言って、実際は本気で見つける努力なんてしてないところもばっかりだし」

 愚痴らしき毒舌を吐くアダムを、隼人とラウルはただ呆然と眺めやる。

「自ら動こうとも考えようともせず、だらだら日が過ぎるのを待つしか能がなく、小手先の工夫はできても言われたことしかできない怠惰な輩が多くて―――がっかりだよ」

 ぎゅっと直接掴まれたかのように、隼人の心臓が痛んだ。…それはまさに自分のことだ。

 G.A.M.E.の中だけの話ではない。今までの隼人の人生そのものが、まさに『怠惰』なものだったのだ。誰かに否定されることを怖れ、誰かに見捨てられることを怖れ、誰にでも認めてほしくて、色んなものの言うことをただ素直に聞いてきただけなのだ。

 何も考えず、誰かの言うことに寄り添っていれば、規格化され、システム化された日常を過ごすことは簡単だったのだ。自分の心を遠くに追いやって、借り物の感情と意思と理性で、ずっと過ごしてきたのだ。―――たとえ自分が本物の人間だとしても、それはプログラミングされたフェイク達と、何が違うのだろうか。

「……俺たちは、誰かを犠牲にするのが…嫌だった、だけです」

 か細い小さな声が隼人の耳朶を打った。ラウルは青ざめた顔で、しかししっかりとアダムを見つめている。アダムが目を細める。

「…へぇ? 誰かを犠牲にしたくない、と」

「…だ、誰かを傷つけて、誰かを足蹴にして何かを成しとげても、うれしくない、です」

 確かに言うときは言うが、慣れていない人に対しては常に弱気で口を開かないラウルが、あのアダムに自分から意見を主張している。隼人は戸惑った。

 そもそもラウルは、今まで積極的に意見を表明することはなかった。話し合いをしていても出た意見に賛成を表するだけのことが多いので、あまり意見のないタイプなのだと思っていた。

 だが違うのだと、突きつけられた。ラウルは自分の意見を持っている、自分の考えと感情と心がリンクしている。―――自分が全くわからなくなった隼人と違って。

 ふっとアダムが笑った。ぞっとするほど冷たい笑み。

「詭弁だね。―――それは、自分が傷つきたくないがための、建前だ」

 ラウルがびくりと肩を揺らす。支えなければと思うのに、指一本動かせない。

「お前達は誰かから自分が傷つけられ、足蹴にされてきたことを知っている。痛みを与えた誰かに怒りを覚え、恨み、与えられた以上の傷を返したいと復讐の機会を窺っている。だが、たいていお前を傷つけた者は、お前より優位な者、お前を支配する者だ。だから、お前は自分より劣位の者、支配できる弱い存在を支配することで傷を癒そうとする。だが傷を与えれば恨まれることは、自分がよく知っている。恨みは復讐心を呼ぶ。更なる傷は負いたくない。だから自分がこれ以上傷つかないために、誰かを傷つけることを怖れるのさ」

 にこりとアダムが微笑む。ラウルが気圧されて目を泳がせるのは視界に映っていたが、隼人は驚愕の津波に飲み込まれ、息をすることすらできなかった。

 怒り、恨み、復讐心……それは隼人の腹の奥底にふつふつと煮えたぎっているものだ。

誰かを傷つけたい。足蹴にしたい。支配したい。服従させたい。自分が抱える痛みを思い知らせて許しを請わせたい。自分の存在を崇めさせたい。そうすることで―――傷を癒したい。

 だが他人を傷つけてはいけないと、理性が言う。自分はそれに従う。従うことしか許されていない。感情の行き場がない。ならば―――全て奥底に閉じ込めて、忘れてしまえ。

(……そっか……。…こんなところに、あったんか…)

 負の感情を忘れるために、全ての感情を一緒に忘れたのだ。正しくない、よくないと言われ、本当に自分が感じている怒りも憤りも痛みも恨み、負の感情全てを、誰かの言いなりになって箱に詰めて沈めようとしたら、自分の感情を全て切り離すしかなかったのだ。

 どれかひとつだけ残すなんて、不可能だから。正も負もなく、全て自分の大事なものだから。

その埋まった箱を今、隼人はようやく見つけたのだ。

「…隼人、さん…?」

 ラウルの驚いた顔がにじんでいる。何故。手を顔に添える。―――涙が、双眸から溢れている。

 泣いたことなんか、ここ十年で数えるほどしかないというのに。どうして自分は泣いているのだ。わからない。ただ涙だけが、静かに流れ落ちていく。

「…疑いを持つことは、考えることだ。それは、いいことだと思うよ? 田中隼人君」

 唐突にアダムが言って、ふいに頬を緩めた。

「じゃあ今日のところはこれでお暇するよ。まだまだ他のチームを回らなくちゃいけないからね。まあ、近日中にちょっとルール変更をすると思うから、覚悟しといてね」

 覚悟? どういうことだ、それは。聞き返そうとする前に、アダムは嫌味なほど整った相貌に微笑を浮かべて小さな音と共に消え去った。ラウルと顔を見合わせる。嫌な予感しかしない。覚悟とは、どういうことなのか。

 がらっと襖が開いた。

「隼人―、ラウルー、お昼持ってきたでー!」と場違いなほど明るくさつきが現れた。ぶつりと緊張の糸は途切れて、なんだかずるっとコケそうになる。

「…あれ? なんか暗い顔しているけど、どないしたん?」

 さつきはお盆を手にきょとんとして隼人とラウルを交互に見やる。隼人は盛大なため息を吐いた。ラウルが「さつきさんって、ほんと空気読めへんよね」と呆れ顔でぼやく。

「は? いきなり何やねん」

「いやこっちの話。お盆もらうわ、ありがと」

 無理矢理話を逸らし、怪訝そうなさつきから隼人はカレーうどんを受け取った。

(……とりあえず待つしかないか)

 心の中で独り言ちる。―――二日後、状況は予想を遥かに越えて、急変する。


13


「やあ、キャラクター諸君、ご機嫌いかがかな?」

 ようやくラウルもほぼ全快となり、久しぶりに五人揃って居間で昼食を取り終えたとき、ブツリという音と共に再びあの憎たらしいほど爽やかな顔が画面いっぱいに映し出された。

 先日、「覚悟しておいてね」と言い残して去っていたことはまだ鮮明に記憶に残っていて、隼人もラウルも、残りの三人も身構える。

「今日はルール変更の通達だ。後で追加の説明書も送るけど、よく聞いておいた方が君達のためだよ。なんたって、ぼやぼやしてると勝手にゲームオーバーになっちゃうからね」

 さつきが「なんやて?!」と思わず声を上げたた。一気に空気が緊迫する。

「変更点は三つ。まず一つ目は、ラストミッションへの挑戦権は、先着の十組にのみ与える。二つ目、僕達は特設サイトを開設した。そこには大阪府全域の地図があって、その地図は二キロメートル四方の升目で区切られていて、一枡ごとに『この区域に何チームがいるか』が表示してある。そして三つ目、特設サイト上では、倒したモンスター数とモンスターのレベルに応じて、君達が望む情報を引き落とせるようにしてある。たとえば、他のチームの家の場所とかね。―――さて、ここまでサービスしてあげたんだから、もっと積極的になって面白くしてくれることを願ってる。じゃあ、誰が一番乗りか、楽しみに待ってるよ」

 テレビがぶつりと消える音とぱさりと紙束が落下する音が、重苦しく響き渡った。誰一人として身動きできない。やけにあっさりと通信は終ったが、その内容はとんでもなかった。

 クリアできる人数を大幅に制限し、キャラクター達を焦らせる。そして各チームの拠点をある程度公表し、またモンスターを倒せば倒すだけ他のチームの情報を入手できるようにする。このルール変更が暗示するものを読み解くのは、簡単だ。

(チーム同士で戦って、玉奪い合えってこと、よな…)

 他の者を蹴落とし、ゲームをクリアしろ。そういうことだ。

(まさかここまでとは……)

 ぶるりと体に震えが走る。さすがに隼人も、先日のアダムとのやり取りで、ある程度の予想はついていた。チーム同士で争わせるルール変更を行うだろうと。だが、予想以上にひどい。

 最初からアダムがキャラクター同士の戦闘を望んでいたのはわかっている。あの体育館の説明のときから、暗に戦えと煽ってきた。だが隼人達を含め、多くのチームが積極的、消極的かは別にして平和主義のもとで暮らしていた。

(……そんなに、戦わせたいんか…)

 率直に言って、隼人は対モンスターであれ、対人間であれ、戦闘はできれば避けたかった。

 傷つけたり、殺すのが嫌だというのももちろんある。だが最大の理由は、隼人には戦う能力がないため戦闘となれば他の四人に守ってもらうしかなく、足手まといにしかならないからだ。

 真奈美を筆頭にさつきと弘毅の戦闘能力はかなり高い。ラウルも純粋な攻撃力はさほど高くないものの、偵察や見張り、囮作戦など発想次第で様々な状況に対応できる。

 しかし隼人はアビリティー的にも、またそもそも持っている特殊な技能(例えば空手黒帯等)も一切ないため、車で逃走するときくらいしか役に立てない。

「…どう、します…?」

 青ざめた顔で、真奈美が誰ともなく問いかける。しかし他の四人と違い、その目に怯えの色はない。ぞくりとする。彼女はこの状況で、実は恐怖を感じていないのではないかと。

「…どう、って………、そんな…人間相手に、戦うなんて…」といつもは真っ先に口火を切るさつきも、さすがに口ごもる。指先でいじっている唇には赤味がない。指も小刻みに震えている。

「…でも、フェイクなら」

 弘毅がはっと気付いたように顔を上げた。

「フェイクだけ狙うなら、よくない? だってあいつらは『人間』やない」

「フェイクも人間と変わらんやん!」

 さつきが感情的に半ば叫ぶ。弘毅が端的に事実を繰り返す。

「見た目は変わらんけど、あいつらは俺らとは違う。あいつらは中身モンスターやし、何より、俺らはG.A.M.E.をクリアできないと死ぬけど、あいつらはそもそも『ゲームの中のキャラ』や。もともとおらん奴やん。俺らとは根本的に全然違う」

「せやけど! せやけど……!」

さつきが唇を噛んでうつむく。

「…でも、俺も、フェイクやとしても、誰かを襲ったり傷つけたりするのは、嫌や」

 膝を見つめながら、ぽつりとラウルがこぼす。二日前にも聞いた言葉だ。アダムに詭弁だと全否定された論理だ。今度は弘毅がその甘い意見を叩きつぶす。

「じゃあお前はこのまま死んでもええんか? ラウル」

「…………それは…」

「……死ぬのは、怖いわね…」

「ですよね! なぁ、なんで躊躇すんの? フェイクなら問題ないやん!」

「そういう問題ちゃうやん! 違うから問題ないんとちゃうって!」

「じゃあどういう問題なん?」

「…………」

「ほら、説明できへんやん。嫌なだけやろ、さつきさんが」

 最早口論の様相を呈する食卓を、隼人は奇妙に冷静に見つめていた。そういえばこのチームで険悪な雰囲気になったのは初めてだ。

「フェ…フェイクはモンスター化するまでは人間と見分けがつかんやん。どやって見分けるんよ? それにものすごい強いのに当たったらどないすんの?!」

「でもここでこのままぼーっとしとったら、勝手にゲームオーバーなるやん! せやったらちょっとでも動いた方がええやろ!」

「…………そうね、見分けるのは難しいでしょうけど、自分が死ぬよりは……」

「ですよね!」

「真奈美まで!」

 さつきとラウルは攻撃主義に反対し、弘毅は強硬にフェイクを探して玉を強奪すべきだと主張し、真奈美もそれに消極的ながら賛意を示した。だが隼人は、真奈美は実はかなり積極的に賛成しているのではないかと思った。

(……また、あの目してる…)

 苦渋を飲み込んだような表情だが、双眸だけは、あの住宅街を燃やしたときと同じ―――ガラス球のような、何もない眼だった。『私』と『高橋真奈美』が完全にリンクしていないときの目。

 恐らく『わたし』の方が襲撃主義で、『高橋真奈美』は反対しなければと考えた。双方の妥協点が消極的賛成だったのだろう。

(……俺は……)

 真奈美と話し、そしてアダムの言葉を受けて、隼人は時間のあるときに自分の中にあるものと少しだけ向き合ってみた。

 隼人は自分を『あまり怒らない人間』だと思っていた。もちろんいら立ちを感じることは多々あるが、『怒る』というところまでいかないことが大半だった。

 だが―――それは違った。怒ることを自分に禁じていただけだった。

 怒ってはいけない、人を傷つけてはいけない、キレてはいけない、手を出してはいけない、大人しく言うことを聞かなければならない、男だから泣いてはいけない、お兄ちゃんだからしっかりしなければならない、迷惑を被っても黙って耐えなければいけない、誰かが失敗したらそれを助けなければいけない。―――たくさんのことを、自分に禁じてきただけなのだ。自分が何を感じているかわからなくなるほど。自分の感情すら、誰かの望むままになるほど。

 だから今も、自分の答えが、わからない。

「………ほんまに、戦うか、戦わないかしか、道はないんかな…?」

 ぽつりとラウルが呟いた。誰もがはっと息を呑んだ。考えもしなかった。目の前にはっきりと突きつけられた二択しか頭にはなかった。アダムの思い通りに。

「―――何それ、そんなんあるんやったら具体的に言ってや」

 聞いたことのないような暗い怒りの声で、弘毅が訊く。

「…具体的には、まだわからん」

「ほら見ろ、ほんまは何にもないんやん。悪あがきしてるだけやん」

「そんなん今すぐ出てくるもんちゃうやろ! もし第三の選択があったらどうすんの!」

「別にクリアできたら何でもええやん! 死んだら終わりやろ!」

「でも…人間としてあかんやろ、他人から無理矢理奪うとかあかんやろ!」

「現実世界ちゃうねんから、そんなんどーでもええやん! 生き残るためには他のヤツ蹴落とさなあかんのに、なんでそんなに腰引けてんねん?! わけわからん!」

 机を力任せに叩き、弘毅が勢いよく立ち上がった。そのまま身を翻すと開いたままの引き戸から居間を飛び出す。乱雑に玄関が開き、足音が遠のいていく。

「………お皿、洗ってきます」

 次いで真奈美もさっと皿を盆にさらって席を立ち、台所の方へ向かう。そのうちかちゃかちゃと陶磁器が触れ合う音が漏れ聞こえてくる。そしてさつきもがたりと席を立ち、肩を怒らせたまま居間を出て行った。とんとんとんと階段を昇る音がしたので、女子部屋に行ったのだろう。

 ラウルは暗い顔で押し黙って、まだ何かを考えていた。

(……そういや、弘毅ってあんなキレ方するねんな)

 よくつるんでいたさつきやラウルと意見が相違したとみると、ねじ伏せるように反論を重ねて自分を受け入れない二人にキレて出て行く。さつきもたいがい感情論だったが、客観的に見れば、弘毅も相当感情的になっていたとも取れる。

 だが思い返してみれば、ラウルを攻撃した絵の犬を吹っ飛ばしたり、宙に浮く二人組みを叩き落そうとしたりと、その秘めた攻撃性の片鱗は見せていたような気がする。ただ、それよりも重篤な事態があったので見逃していただけだ。

 隼人は嘆息した。だが今重要なのはそんなことではない。実際問題、これからどうするかだ。

 戦う戦わない以外の道。正直、それが実在するならどんなにありがたいか。命をかけて戦わず済むし、誰かと傷つけ合わずに済むし、チーム内で諍わずにも済む。

「……玉を得るためには、ミッションをクリアすればいいんですよね?」

 ぼそぼそラウルが問いかけてきた。ラウルは真剣そのものの瞳で、隼人を見つめている。

「せやな。俺らの持ってるんも、最初の一個以外はミッションクリアしてもらったもんやし」

「じゃあ、アダムに頼んで、新しいミッションを与えてもらうことはできないんですかね?」

「………アダムに、なぁ…」

 確かに襲撃によらず、自力で玉をゲットできれば、そちらの方がいいに決まっている。だがあのアダムの様子からして、素直にミッションを与えてくれるかどうかはかなり疑問だ。

「まあ、頼むだけ頼んでみてもええかもしれんけど……」

 暗に無駄だろうと答えるとラウルも言ってみただけらしく、「…ですよね」と更に肩を落とした。

「………とりあえず、今日は晩ご飯まで自由時間にしよか。晩ご飯は俺一人で作るわ」

 隼人は微笑みを捻り出し、敢えて軽い口調で声をかける。

「弘毅と真奈美には俺が言うとくし、ラウルまだ病み上がりやから二階でゆっくりしとき」

「……はい。ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げ、ラウルも居間から出て行く。一人残った隼人は椅子の背もたれにだらりともたれかかり、ぼうっと天井を見上げた。

(……随分、印象変わったなぁ…)

 G.A.M.E.に巻き込まれて一週間ほどの頃だったか。自分を家来B、さつきを王様、弘毅を大臣、ラウルを家来A、真奈美をお姫様に喩えたことがあった。

 だが、さつきはムードメーカーのお転婆な女大臣、弘毅こそ実は王様で、ラウルはただの家来ではなく相談役、真奈美に至っては黒魔法も使える魔術師だ。……では、隼人は?

 ―――わからない。自分のことが、一番わからない。

(…とりあえず、特設サイトとやらをチェックせなあかんなぁ…)

 隼人は重い腰を上げてテレビの前の紙束を拾い上げ、パソコンのある祖母の部屋へと向かった。


14


 調べ物を終えて台所の真奈美に自由時間と晩ご飯のことを伝え、隼人は母家の外へ出た。弘毅にも同じことを伝えなければならないが、見える範囲にはいない。さて、どこにいるのだろうか。

 とりあえず遠いところから捜そうかと、隼人は門を出た。

 田中家は昔は地主だったらしく、建物はさほどだが敷地面積は広い。家の周囲百メートル四方が所有地になる。今はもう休耕している野晒しの土地がほとんどで、今も実際に畑として使っているのは門に続く道の両側、三十メートル四方ほどだけだ。そこだけ葱やなんかの緑がきれいに整列している。ふと隼人の視界を動くものがかすめた。

 大根の葉が青々と生い茂る右手側の畑の奥の畦道、そこにぽつんと佇む小さな祠の影に青いジャージが見えた。

「弘毅」と畑の土を踏んで歩きながら、隼人は声をかけた。ぴくりと肩が動いたが、振り返る気配はない。小さく嘆息し、祠の横まで辿り着いてからもう一度呼びかける。

「……………何ですか」

 嫌々であることがもろにわかる口調。弘毅は祠の前に座り込み、頑なに前を見続けている。

「…午後が自由時間になったのと、晩ご飯は俺作るから、って伝言しに来ただけや。そう構えんくてもええよ」

 胡乱な目でちらりと隼人を一瞥し、弘毅はまた視線を前に戻した。

「………隼人さんは」

「ん?」

 沈黙の後、硬い声で弘毅が口を開いた。しばらく言い淀み、こちらを見ることなく問いかける。

「……隼人さんは、どうしたいんですか」

 さっき、隼人さん、何も言うてませんよね。弘毅が付け加えた言葉に、隼人はひそかに苦笑した。熱くなっていた弘毅がそんなことに気付いているとは思ってもみなかった。

 ―――自分が、どう、したいか。

「……正直に言うてええ?」

「………どうぞ」

 弘毅が身構えるように肩を怒らせた。隼人は今度ははっきりと眉を下げて苦笑し、言った。

「ごめんけど、結論出されへんねん」

「……は?」

 初めて弘毅がちゃんと隼人に顔を向けた。目も口もぽかりと開いている。無理もない。最年長の自分がまだ答えを見つけられないのは、弘毅にとっては驚くべき事態だろう。だが本音だった。

隼人は自分がどうしたいか、わからなかった。

 いつもなら―――今までなら、誰かに同調して誤魔化して終わっていた。できるだけ諍いが少なく済むように、周りや多数派に合わせたり、調停して妥協策を探すことに力を注いでいた。だが今、隼人にはそれができなかった。…してはいけないと、わかっていた。

「……俺さ、攻撃の力ないやん。襲撃とかやってもさ、車運転してみんな運ぶしかできへんくて、実際に誰かを攻撃して傷つけたり、殺したりしてもらうわけやん。自分ができへんことを誰かに押し付けなあかんわけやん。それってどうよ、って思うねん」

 自分の口から出てくる言葉を、隼人は他人事のように聞いていた。全てぶちまけよう、と思った。無意識が体を動かすまま、ありのままを今、話さなければいけない気がした。

「弘毅や真奈美が言うように、このまま何もせずにおるよりは、フェイクを探して玉を奪ってでも生きた方がええんかもしれん。何もせんかった後悔は、しんどい。……でも、誰かを犠牲にしてもうたって知ってるのも、相当しんどいと思う。たとえば自分がいじめられへんために、誰かがいじめられるんを見て見ぬフリしてんのって、すごいストレスやん」

 ざっと弘毅の血の気が引いた。隼人は首を傾げたが、弘毅が無言を貫いたので続ける。

「やから、さつきがフェイクであれ、何かを犠牲にするのにものすごい抵抗を感じるのも、よくわかる。……人間ってさ、自分がしたこと、犠牲にしたもん、誰かを傷つけたこと、全部見てみぬフリしたり、忘れてもうてるから、平気で生きてるんやと思う。それ全部覚えてたとしたら、普通の神経やったら持たへんと思う」

 曇り空の秋の昼下がりは、すこし肌寒い。だがこの風が隼人には心地良かった。

「……攻撃する方も、される方も、どっちも痛い。……それを受け止める覚悟があるんなら、俺はフェイクを襲うんを別に止めへんし、止める権利はない。……まあ、ほんまのところ、ラウルが言ったみたいに別の方法があれば一番ええとは思うけど」

 結局、自分には決定権はないのだと、隼人はぼんやりと悟った。自分ができないことを、しかも痛みを伴う行為をしろと他人に強要することは、ものすごく無責任だ。

 だから四人の結論を黙って受け入れる以外にできることといえば、せいぜいラウルと一緒に、抜け道か別の方法がないか考えるくらいしか、ないのだ。

「…………隼人さんは、死んでもええって言うんですか?」

 弘毅は色々な感情がないまぜになった揺れる双眸で、隼人を見上げた。怒り、悲しみ、苦しみ、憤り、失望、疑念。彼の胸の中には、言葉にできない感情の嵐が吹き荒れているのだろう。

 隼人はなおも苦笑する。

「うーん……そりゃ、積極的に死にたくはないけど。…正直、死んでもうたら、それはそれでええか、って感じやな」

「なんでですか?! 死んだら全部おしまいですよ!」

「そりゃそうやけど……別に未練ないからなぁ」

「現実に戻ってしたいこととか色々あるでしょ! 将来の夢とか!」

 将来の夢。中学生らしい言葉だなと隼人はわらった。心の中で、率直に言えば蔑んだ。生温い、ガキの言葉だ。

 幼稚園では特撮物のヒーローになりたかった。小学校まではスポーツ選手になりたかった。だが中学卒業の頃には、公務員か銀行員にならなくてはいけないと思っていた。母親が安定職に就いてくれと願ったから。その頃から、将来の夢なんてものは隼人の中から消えてしまった。

 かろうじて、隼人は一言だけ口にした。

「……全部諦めてきたから、そんなんないよ」

 親や学校や社会の望むまま、日本の学生に敷かれているレールに沿って、ただ電車に乗せられて流されて進んできただけ。

 隼人の手には、何一つ、自分で選んだものなどない。

 全て、諦めて捨ててきた。自分の意思も意志も感情も、夢すら。

 人生がどうでもいいと思えるほどに、掌の中には―――何もない。大切だったものは全てガラクタになって、ずしりと背中に圧し掛かっている。ガラクタが絡まり合って熱を発し、熱く、重く―――いたい。

 空虚な心は痛みを忘れたはずだった。だが、思い出したのだ。立ち上がるのが億劫なほど、ぼろぼろに傷ついていることを。痛いと泣くことすら、痛いと憤ることすら忘れなければならないほど、今もなお傷だらけであることを。

「……俺は、絶対に生きたいです」

 弘毅がぽつりと言った。静かな声音だが、穏やかではなかった。嵐の前の静けさのような。

「あいつら見返すまでは、絶対死にたくない。……さっき、いじめのたとえ、出しましたよね」

 確かにそこに妙な反応を見せていた。隼人は無言で続きを促した。

「…俺、去年、今の学校に転校したんですよ。ほんまはずっと、たこ公園の近くに住んでたんです。……俺、いじめに遭って、転校したんです」

 隼人は目を丸くした。弘毅は快活で鷹揚、よく笑うリーダータイプで、怒ると容赦はないが、このくらい中学生にはたまにあるくらいの程度だろう。その弘毅が、いじめられていた。正直、意外だ。いじめた方なのかと思ったのだが。

「……まあいじめって言っても、シカトだったんですけどね。…二年の秋に、ある日突然、部活のやつらが俺を無視するようなって。前の日まで、フツーにアホな話とかして、笑ってたのに。…俺、何かしたんかって聞いても、それも無視。……そのうち、学年中に広まって」

 どこか遠くを見つめながら、弘毅はぽつぽつと語り始めた。

 いつもは少し年上に見えるほどはきはきとしゃべる弘毅だが、今は、どこか頼りない。

「俺、ほんまに全然身に覚えがなかった。何も、してないんですよ。何も。…でも、一ヶ月後には、一個上の先輩二人しか、学校でしゃべってくれる人、おらんくなって。……俺、ほんまに、どうしたらええか、わからんくなりました。原因もわからんし、こっちが何しても無視。……耐えられんくて、つい、手が出てもうて…」

 思わず「えっ?」と声が出てしまい、慌てて口を押さえるが遅かった。弘毅は自嘲するように乾いた笑みをこぼす。

「そいつ、部活の新部長やったんですよ。……教室移動のとき、廊下でたまたまそいつがクラスのやつとしゃべっとるとこに行きあって。あからさまに嬉しそうに笑いよったんです、俺が一人でおるの見て。で、ぷつんってキレて一発入れて、後はもう、取り巻きも一緒に殴り合いです」

「…ちなみに、どっちが勝ったん?」

「もちろん俺ですよ。俺、昔、空手やってて、体もごついから。四対一でしたけど、余裕勝ちでした」

 弘毅は誇らしげに笑った。どこか歪な笑顔。

「校長が事なかれ主義で、警察沙汰にはなりませんでした。…親には、何も言ってなかったから、驚かせてもうたけど…。でもシカトのこと話したら、『転校しよう』って……。うち、ばーちゃんと同居してたけど、そのばーちゃんが秋に死んだとこやったから、土地売って引越ししてくれたんですよ。………うれしかったけど、俺、絶対、『逃げた』と思われた」

 ぎゅうと弘毅が拳を握り締めた。震えるほど、強く、強く。

「……今の学校で水泳部に入って、俺、けっこう記録出してるんです。しかも、先生が元国体選手で、高校は強いとこに推薦したるって。……俺、水泳でのし上がりたい。そんでオリンピックとか出て、有名なって、あいつらを―――見返したい。あいつらが無視した俺が、たくさんの人に囲まれて祝福されてんのを見せて、後悔させたい。……そのためなら、俺、何してでも死にたくない。たとえ―――誰かを犠牲にしても」

 強く言い切った弘毅に、隼人は目を伏せた。

 弘毅がキレたのは、自分の意見を押し通すため、つまり否定されないためだった。自分の意見が尊重され、認められるためには、相手を否定することも厭わない。自分が正しく、相手がおかしいとあげつらう。自分がされて嫌なことを、平気でする。いじめられたことで存在否定されたと、弘毅は思ったのだろう。

 だから誰かに認められたい。自分が正しく、素晴らしく、価値のある人間だと認めてほしい。

 だから、認めようとしない人間を敵と認識する。敵は殲滅しなければいけない。否定された瞬間にスイッチが入り、牙を剥いて倒しにかかる。相手の息の根を止めるか、完全降伏するまで。

(………自分が足蹴にされたから、他人を足蹴にしたい、か…)

 アダムの言葉が脳裏を過ぎる。弘毅はおそらく、勇敢な人間なのだ。さびしい、つらい、苦しい、そういう気持ちを全て憤怒と悔しさと復讐心に換えて、自分が認められるためにどんなことでもするのだろう。自分ではなく、ただ前だけを、復讐だけを見据えて突っ走るのだろう。

 たとえ自分の心がどれだけ血を流し、傷と痛みを負ったとしても、それに気付かないまま。

(…ちょっとだけ、羨ましいかもな)

 ひそやかに隼人は苦笑いをした。苦く、笑った。そのエネルギーとバイタリティも、隼人が諦めてきたものの一つだから。

 隼人は臆病な人間なのだ。怒りを、憤りを、痛みを感じても、相手に返してまた自分に返ってくるのが怖い。だから、全て諦めることで、折り合いをつけてきた。自分を殺し、敵対するものを全て受け入れてしまえば―――これ以上傷つかずに済む。

 臆病者はそうして、なんとか穏やかに暮らすしか、できなかったのだ。

(でも復讐を達成したあと、押し込めて無視してきた血と傷と痛みは、どうなるんやろう…?)

 今は必死だからいい。がむしゃらに前だけを目指せばいい。だが、たとえ弘毅の夢が、復讐が達成されたとして―――弘毅はそれを誇れるのだろうか。心からの喜びを感じられるのだろうか。

 痛みを切り離した心は、喜びだって切り離しているというのに。

(……なんか、むなしいような…)

 想像して、隼人の心臓が小さく痛んだ。だが確信はない。隼人と弘毅は違う。…わからない。

 段々頭が混乱してきた。それを鎮めようと、隼人は深呼吸しながら何気なく国道の方を見やる。

 轟音が空気を切り裂いた。


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