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G.A.M.E.  作者: 陵野絢香
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9・10・11


 住宅街の中の公園の歩道に沿うように車を停止させ、ギアをPに入れてハンドブレーキを引き上げ、隼人はふうと息を吐いた。「隼人さんおつかれっす!」「ありがとうございます」と口々に言う四人に「おー」とだけ応え、こめかみをぐりぐり揉み解す。

 常にモンスターその他への警戒を怠ることができないので、やはり外を運転するのは相当神経がすり減る。今日はゴブリンと河童にしか遭遇しなかったが、疲弊することに変わりはない。

 その間にラウルを先頭に後部座席の三人が降り、助手席の真奈美もそれに続く。隼人も扉をガチャリと開いて、うーんと固まった身体を伸ばした。

 アダムの放送の翌日、例によって真奈美の携帯にメールが入った。

 差出人のアドレスは『sphinx@…』。件のミッションのためのメールであることは明白だったが、まさかこんな早々に挑まなければならないとは考えてもみなかった隼人達は大いに慌てた。

 例のふざけた表書きの説明書によると、スフィンクスはメールが届いた日とその翌日しか、暗号の示す場所にいない。つまり二日以内に発見できないと、その時点でミッション失敗となる。そのメールが来てしまった以上驚いてばかりいられないと本文を開き、全員沈黙した。

『ふわ×ぬ//ぬぬ×ぬえ//ぬぬ×ぬえ//ふぬ//え//ぬう』

 平仮名と記号の羅列。全く意味がわからないが、ヒントの類は一切なし。

 一分ほど考え、隼人は心の中で白旗を挙げた。元々クイズや論理パズルといったものが苦手なので、解き方すら見当もつかなかった。……だが、早々に諦めたのは隼人だけだった。

(……あれを解いてまうんやもんなぁ……俺、情けな)

 そのとき、車の向こう側で青白い光が沸き起こった。やがて光が収束すると、バゥワゥ!という重低音と共に何かが猛スピードで突進してきた。「うわっ」と声を上げて咄嗟に避ける。

「おいっ、こら! 勝手に遊ぶな!」

スケッチブックを抱えたラウルが声を張り上げる。が、それらは嬉しそうに車の周りを駆け回ったり、ばさばさと翼を誇示したりしている。観察していたさつきと弘毅が同時に首を傾げた。

「……トラ?」

「メスライオン?」

「でかいオオカミ?」

「あとインコ?」

「……シベリアンハスキーと鷹!」

 うつむいて耳まで真っ赤になりながら、ラウルが主張する。言われてみれば確かに犬と鷹だ。

 体長一メートルはあろうかという大型犬が二匹と小型の鳥が一匹。どちらも現実のものとは思えないモノクロの色合いで、まるで現実感のない身体をしている。ラウルのアビリティー『絵の具現化』で作り出された動物だ。

「うわっ、ちょっ…こら! なめるな! おい!」

 本物の犬のようにハスキー犬二匹がラウルを押し倒して、べろんべろんと顔を舐めている。犬達の顔はとても嬉しそうで、鷹らしい鳥もばさりと自分の創造主の頭に舞い降り、上機嫌でつっつき回している。ちょっと痛そうだ。主人にじゃれつく飼い犬と鳥の図にさつきと弘毅はげらげら笑いこけ、真奈美は心配そうにしているものの、動物が苦手なのか車の影に隠れている。

「……っいい加減にせぇ! 主人の言うこと聞け! 座れー!」

 ラウルが必死に怒鳴るとようやく二匹はお座り、鳥は犬の頭に留まって羽を畳んだ。

「ええか、お前らの任務はこの車を守ること。モンスター相手でも人間相手でもこの車を死守。で、お前はこの車を見張ってて、狙ってるやつを見つけたら俺に知らせに来る。わかったか?」

 二匹は野太く、一羽は甲高く一声挙げる。

 ここはセーフティーエリアでも何でもないため、車がモンスターやフェイク、そして考えたくないが他の攻撃的な思想を持つ人間のチームに襲撃されないとも限らない。なにせこの近辺の暗号が解けたチームが皆ここに集まるのだから、これだけ狙いやすい場所もそうない。自衛を怠るわけにはいかない。

 結界等のアビリティーはないが、ラウルのお陰で最低限のことはできる。まだ彼の作り出すものの力が強いとはお世辞にも言えないが、ないよりは断然マシだった。

「よし、じゃあ、頼むで」とラウルが笑って二匹と一羽を撫でると、任せてくださいご主人とでも言うように二匹と一羽が鳴いて応えた。さつきが、いつものように号令をかける。

「さーて、ほな、スフィンクスに会いに行くとしよか!」

「へーい!」

 弘毅を先頭に、隼人達は暗号が示した場所、『たこ公園』に足を踏み入れた。

 『たこ公園』は現在居住する隼人の祖母宅からも車で十五分ほどの山手に行った、I市北部の旧ニュータウンの中にある公園である。正式名称は別にあるようだが、タコを模した大きな遊具があるので地元民は『たこ公園』と呼んでいる。

 隼人が車を停めた入口のあたりは花壇と植え込みと林で鬱蒼とした緑のトンネルになっている。突っ切ると、だだっ広い土の広場があった。その向こうの一段下がった場所に、色褪せた赤い曲線の大きな遊具がある。通称の由来のタコ型遊具に間違いない。

(…あれ、スフィンクスは?)

 しかし隼人がいくら目をこらしても、たこ公園のどこにも、何かモンスターらしきもの影すら見当たらない。全員の頭を嫌な予感が過ぎる。だがそれは杞憂に終わった。

『―――ほう、ようやく次が来やったか』

 井戸の底から聞こえてくるような妙に反響する声が、突然話しかけてきた。

 女性の声のようだがバリトンの歌手のように低く深い。しかも直接頭に響いてくる。

「だ、誰や?! …うわっ! な、なんやこれ!」

 どこからともなく白い靄が広がり、瞬く間に隼人達を取り巻いた。地面すら見えなくなる程の靄なのに、自分自身と他の四人の姿だけははっきりと見える。奇妙な空間だった。

 白靄の中に一点、星が生じる。

『案ずるな。我の力で隔離しただけよ』

 光の中からゆったりと、声の主が歩み出てきた。―――大きい。

 ピラミッド傍の像がそのまま命を得たようだ。獅子の身体に鷲の羽を持つ彼女の身体は燐光に包まれ、砂漠の砂の色に輝いている。美しい柔和な女性の面差しは微笑みを湛えているが、底知れぬ威厳が身体から溢れている。まさに神獣という言葉がぴたりと当てはまる。

「…す、スフィンクス…」とあえぐようにラウルが呟くと、スフィンクスは笑みを深めて頷いた。

『そう、我がスフィンクスじゃ。よう来たの、若僧や。お前らでようやく2組目じゃ。さて、まずはいかに我の居場所を知ったか、話してみよ』

 一堂の視線が真奈美に集まる。スフィンクスに見つめられ、真奈美がおずおずと説明する。

『ふわ×ぬ//ぬぬ×ぬえ//ぬぬ×ぬえ//ふぬ//え//ぬう』

 この暗号を解くきっかけを作ったのは、意外なことにさつきだった。

 実はミステリー好きというさつきは、「こういうのはだいたい置換法やねん!」と言ってネットで調べようと隼人の祖母の部屋にあるパソコンの前に座った瞬間、「これや!」と破顔した。

 日本のパソコンのキーボードには、アルファベットや記号のみならず、平仮名も印字されている。暗号文をキーボードで置換すると、『20×1//11×15//11×15//21//5//14』、全て数字に変換された。しかしここで詰まった。平仮名が数字になっただけで、全く意味が通らない。試しに数字をネットで検索してみたが、何もヒットしなかった。

だがここで真奈美が閃いた。「これ、アルファベットに置き換えられるんじゃ…」と。

 試しにアルファべットをABC順に1~24まで数字を振り、暗号文の数字をアルファベットに変換してみると、『TA//KO//KO//U//E//N』、ローマ字読みすれば『たここうえん』となった。すると今度は弘毅が「あ、たこ公園なら知ってる」と言った。それがこの公園だったというわけだ。

「ミッションのルール上、あなたの居場所はある程度私達の所に近いはずなので、ここが正解かなと思って来てみた、というわけなんですが…」

 ここまで理路整然と話してきた真奈美が、尻すぼみに口を噤む。スフィンクスは『怯えるでない』とやさしく声をかけた。

『三人寄れば文殊の知恵の見本じゃの。なれば、我は喜んでお前らに挑戦権を与えよう』

 よし、と隼人は心の中で拳を握った。さつき達がほっと笑顔になる。この挑戦権をスフィンクスから貰えない限り、居場所を見つけたとしても謎々を出してもらえないのだ。ミッションにチャレンジするための前提条件はこれで全て満たした。

 白靄の中で、スフィンクスが居住まいを正した。空気ががらりと変わり、息が詰まる。

『まず確認するが、我が出す謎々は五問。一人一問ずつ答え、全てを正解した暁には、褒賞を与える。我は回答者が答えらぬ謎々は出さぬから、順番は好きにすればよい。誤答は五人で三回まで許す。答えを述べられぬか、もしくは四回誤答した時点で、ミッション失敗と見なす。ただし一人目で失敗した場合のみ、残りの者にも問うてからその後を考える。…以上、何か気にかかることはあるか』

 つまり一人ずつ順番に謎々を五問解いていき、全て正解すればクリア、全員で四回間違えるか途中で誰かが解けずに降参した時点で失敗ということだ。これも説明文の通りである。そして彼女ははっきりと言葉にはしないが、誰も解けないことがあれば、「食う」つもりなのだろう。

 さつきが全員を見回し、誰ともなく頷いた。隼人も頷き返すが、脇の下に冷や汗をかいていて、本音を言えば今すぐ逃げ出したかった。

(…正直、俺が一番失敗しそうな気してるけど……。まあやるしかないよなぁ…)

 一人で五問解けと言われているわけではないし、『解けない問題』は出ないらしいし、何より少なくとも真奈美は確実に謎々を解くだろうから、最悪の事態にはならないはず。つい隼人はそんな気弱なことを考えてしまう。

 覚悟がないのなら、ここまで来はしない。できる限りの準備はしてきた。これは今、やらなければいけないことだ。生き残るために。だから本当に逃げだそうなんて思ってはいない。ただ、苦手なものは苦手なのだ。謎々も、人の前でやる力試しも、トラウマしかない。

「気にかかることはない。―――うちらはスフィンクスに挑戦する!」

 隼人の胸の内など誰も気付ずくはずもなく、チームを代表してさつきが堂々と宣言した。

『では、第一の挑戦者、前へ』

 宣戦布告を満足げに受け止めたスフィンクスは、ゆったりと、しかし厳かに促した。さつきが無言で、神獣の方へ進み出る。見たことがないほど硬い背中に、咄嗟に口が動いた。

「…黒木特攻隊長ー、頼むでー」

「ホームランよろしくー!」

「芸術的なフリーキックもー」

 てんでバラバラな冗談交じりの激励に、さつきが脱力したように笑った。「当たり前やろ! 期待しとけ!」と一喝してから神獣に向き直り、ぐっと胸を反らして声を張る。

「うちが一番や!」

『ほう、お前か。先程といい、気骨のある女子じゃの。では、一つ目の謎々じゃ。

 非常に有能で多才、細かい作業も情報収集も命令通りにこなし、今や人間の生活になくてはならぬものじゃが、時に融通が利かず、そして人間を怠惰にするものは何じゃ』

 隼人は頭の中で二回繰り返した。が、さっぱりわからない。さつきも考え込んでいる。

 二分が経過した。さつきの握り拳が目に見えて震え始める。つられて隼人も焦る。いやこちらが焦っても仕方がない、まずは自分が落ち着かなければ、と隼人が深呼吸したとき、誰かがはっと息を呑んだ。―――真奈美だ。笑っている。

「さつきちゃん、大丈夫。落ち着いて」

「真奈美……」

振り返ったさつきはいつもの強気が嘘のように、迷子の子どものような、今にも泣きそうな顔ですがるように真奈美を見つめた。こんな顔もするのか、と不謹慎にもどきりとする。

 真奈美はさつきと目を合わせ、安心させるようにふわりと微笑んだ。

「大丈夫。さつきちゃんなら解けるよ。家にいると思って、落ち着いて考えて」

大人びた落ち着いた微笑にさつきは唇を引き結び、大きく首肯する。そしてゆっくりと息を吐いて吸い、顎に手を当てたかと思うと、「あっ」と声を上げた。

「わかった! パソコンや!」

 なるほど、と隼人は頷いた。パソコンは確かに便利極まりないが、時々思い通りに動いてくれず、漢字を書けなくするなど人間を怠慢にさせる。

挑戦者をゆるりと見下ろし、スフィンクスは判定を告げた。

『………正解じゃ』

 さつきの肩から力が抜ける。弘毅が「よっしゃぁ!」とガッツポーズし、真奈美が胸を撫で下ろす。ラウルもほっとしたように眉を下げ、隼人もほうと息をついた。

 最も重圧のかかる一人目の正解は、予想以上に大きかった。何せここで間違えたり答えられなかった場合、次からは報酬を得られるかではなく、襲われるか否かを問われるのだ。さつきがミスをした場合を考えると、かなりそら恐ろしいことになっていただろう。

(…しかし、さつきって実はプレッシャーに弱いねんな…。意外や)

 先程のひどくか弱い表情を思い出し、今のいつも通りの強気なさつきを眺め、隼人は頭を掻いた。大役を任せてしまった申し訳なさと、きっちり果たしてくれた感謝の念が沸いた。

「さつき」

 隼人は帰ってきたさつきに向かって右手を軽く挙げた。一瞬きょとんとし、次いで満面の笑みでさつきが自分の手のひらを隼人の手にぱしっと打ち付ける。弘毅やラウルも笑顔でさつきとハイタッチを交わした。真奈美も嬉しそうに目を細める。

 全てが伝わるはずはない。だが、少しでも感謝と労いの気持ちが伝わればいい。

『では次の者、前へ』

 スフィンクスが促し、弘毅が姿勢を正して歩いていく。神獣は深い海の眸で見定めるように目を眇め、やがておもむろに尋ねた。

『試合にはあり、練習にはなく、退場にはあり、入場にはなく、愛にはあり、恋にはなく、未来にはあり、過去にはなく、世界にはあり、自分にはないものは何じゃ?』

 隼人は面食らった。謎々とばかり思っていたので、まさかあるなしクイズがくるとは予想だにしていなかった。さつきとラウルが不安げに顔を見合わせる。

「…あの、もう一回言ってもらってもいいですか?」

 ところが弘毅はしっかりした声で聞き返した。スフィンクスは淡々と問いを繰り返す。

 整理すると、あるの方には試合、退場、愛、未来、世界、なしの方には練習、入場、恋、過去、自分、だ。単語はそれぞれ対になっているようだが、共通点があるようには思えない。

(…これ出たらどうしよ…)

昨日、暗号を解いた後に謎々をネットで調べたが、あるなしクイズなどについては準備していなかった。内心焦る。ぶつぶつと口の中で呟いていた弘毅がぱっと顔を上げた。

「わかった! あるの方には『あい』があるけど、なしの方にはない!」

「え、愛がある?」と素でボケたさつきに弘毅がずるっと滑り、「ちゃうわ!」とツッコむ。

「あるの方には全部『あ』『い』の音が続きで入ってんねん! 全部ローマ字にしてみぃ!」

 試合SHI[AI]、退場T[AI]JO、愛[AI]、未来MIR[AI]、世界SEK[AI]。確かにどの単語にも『あ[A]』と『い[I]』が続けて入っている。

「どうや、スフィンクス!」

 弘毅がびしっと指を突きつける。神獣は無表情で弘毅を眺めやり、そして、口元を緩めた。

『―――正解じゃ』

「…っ! よっしゃー!」

「弘毅ようやった!」「さすが!」と盛大にガッツポーズする弘毅を、さつきとラウルが喜び勇んで迎え入れる。戻ってきた弘毅はまずさつきとラウル、隼人、そしてちょっと戸惑いながら手を挙げた真奈美とハイタッチを交わす。その触れた手を見つめ、弘毅は少し赤くなった。

(……弘毅…わかりやすー…)

 隼人はにやにや緩みそうな頬を手で隠し、ちらりと真奈美を一瞥した。真奈美は全く気付かず、スフィンクスの方をうかがっている。なかなか弘毅の道は険しそうだ。

『なかなかやるの。では、三人目、前へ』

 びくりと肩を揺らし、ラウルは目を泳がせた。怯えているように見えるのは、隼人の目がおかしいからではないだろう。先程のさつきに続き、こちらも泣きそうである。

「ほら、さっさと行ってこい!」

 弘毅に蹴っ飛ばされ、「うわっ…!」とまろぶようにラウルが神獣の足元に辿り着く。目の前のスフィンクスに圧倒されてまたびくりと怯えるラウルに、隼人は同情した。

『怯えずともよい。我はお前らと取って食ったりせぬ』

 スフィンクスはおかしそうに喉の奥で笑った。実際食われる可能性はあったわけだが、本人が否定すると少々安心したのか、ラウルは多少は落ち着いた表情で改めて神獣に向き合った。

『さて、では三つ目じゃ。少々問いが長い。よう聞けよ』

 深い声音でスフィンクスは謎々を紡ぐ。

『とある海辺の漁村の若者が、ある飢饉の山の農村を訪れた。漁村の若者は、すぐ傍の湖に種々の魚が群れをなして泳いでおるにもかかわらず、飢饉の農村の者が誰も魚を獲って食さぬのを見て驚き、「なぜ魚を食べないのか」と尋ねた。ところが村人も驚き、「魚など、今まで食べたことは一度もない」と答えた。事実、この村には釣竿も網もなく、村人は農業と狩猟だけで生計を立てておった。……さて、この村の者は、なぜ魚を食べないのか?』

 靄に包まれた空間が静まり返った。ラウルが焦っているのが後姿でわかる。

 スフィンクスは目を細めてラウルを見下ろし、再び口を開いた。

『ヒントはなし、と言いたいところじゃが、お前は中学生じゃからの。三つ、ヒントをやろう。一つ。魚は総じて小型じゃが全て食せるし美味で、魚が聖獣もしくは忌避されるものでもない。そして人食い魚もおらぬし、湖が神域でもないゆえ、漁ができぬわけではない。二つ。この村はの、昔は肥沃で広大な畑と豊かな森をいただき、農業と狩猟だけで十分だったのじゃ。三つ。当たり前と思うとることは、実は当たり前でない。……さて、よく考えるがよい』

 宗教的に定められたで禁域でもなく、不可食の魚が多いでも危険があるわけでもない湖から、魚を獲ったことのない飢饉の村人。なぜ彼らは魚を食べないのか、その理由をたった三つのヒントから推理せよと、スフィンクスは言っている。

(………。わからん)

 予行練習としばらくはあれこれ考えてみたが、隼人は結局白旗を揚げた。ところがやっぱり早々に諦めたのは隼人だけで、ラウルはもちろん、真奈美もさつきも弘毅もじっと、あるいはぶつぶつ呟きながら思考に沈んでいる。

「……………あっ…!」

 そのときラウルが小さく声を漏らした。隼人達は思わずラウルに目を向ける。

「ええと………わかった、かも…」

「まじで?!」

 一身に視線を集めたラウルは「…え、いや……でも、間違いかも…」と最初の頃のように及び腰になる。さつきが眦を吊り上げて叱り飛ばす。

「しっかりせぇラウル! 一回や二回間違えたとこで問題ない! 次は真奈美やから大丈夫! 隼人に一回分残しとけば、ここで二回間違えてもええ! 自信なくても、出した答え言い!」

 がくりと隼人は脱力した。真奈美はきっちり一発で正解するが隼人は間違えるかもしれないと、つまり頼りにならないと女子高校生に突きつけられる大学生の男―――ものすごく情けない。情けないが、その洞察は当たっていると言わざるを得ず、隼人は片頬を引きつらせた。

 ふんぞり返って睨むさつきに気圧されるように視線を逸らしたラウルが、隼人を見た。隼人は苦笑して、ただ頷く。ラウルは覚悟を決めたようにスフィンクスに向き直り、言った。

「…ええと………答えは、魚を食べ物と思ってない、から…?」

 魚を食べ物と思っていない? 隼人は虚を突かれた。魚は普通に食べるものだろう。

 毎回だが無表情で見下ろしてくるスフィンクスを怯えたように上目遣いで仰ぐラウルに、神獣の審判が厳かに下される。

『…―――正解じゃ』

 刹那の沈黙、そしてさつき達が歓喜に飛び跳ねる。ラウルは騒ぐこちらを驚いた顔で振り向き、「やったやん!」と讃える弘毅たちを見て安堵したのか、その場にずるりと座り込んだ。

『当たり前と思うとることは、実は当たり前でない。よう気付いたの』

 三つ目のヒントの言葉を繰り返し、スフィンクスがこれまでで一番やさしく微笑んだ。

(そうか、俺らは魚なんて食べて当たり前と思ってるから…)

 隼人は気付き、頭を掻いた。中学生にすら負けるなんて、さっきよりも情けない気分だ。しかし同時にラウルの思考の柔軟さに感心する。さつきと弘毅が喜びのあまりぐりぐりとラウルを小突き回しているのに便乗し、「ようやったな」とラウルの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

『さて、四人目は誰じゃ』

「あ……私です」

 真奈美が応え、隼人達はまだ呆然としているラウルを引きずって元の位置まで下がる。

『では四つ目じゃ。これも長い。よう聞けよ。―――ある森の中にガッドという男が住んでおった。ガッドは見事な林檎の木を、それはそれは大切にしておった。だがある日、その林檎の木から、いくつも実がもぎ取られておった。ガッドは怒り、森の者に訊ね、容疑者を三人に特定した。それは猫、蛇、熊、であった。……しかし、猫は「わたしは食べてないわ」と言い、蛇は「熊は食べたよ」と言い、熊は「猫は食べたよ」と言った。元来動物は嘘を吐かぬが、ガッドの林檎を食べた者は知恵をつけ、言い逃れようとしておる。さて、誰が林檎を食し、嘘を吐いておるか』

 またややこしい問題だな、と隼人は内心うんざりした。だがこれは自分も答えられそうだった。証言を一つずつ正しいと仮定して残りを検証し、矛盾が生じないものを選べばいいのだ。中学生のときに塾の先生が出してきた論理クイズと同じ形式だ。

 隼人が問題に取り組もうとしたそのとき、真奈美はさっと頭を上げた。

「わかりました。猫と蛇が嘘つきで、林檎泥棒です」

 さつきと中学生二人がぽかんと口を開けて驚く。四人のうちで誰よりも早い。圧倒的だ。

『ほう、早いな。それでよいのか?』

 探るようなスフィンクスの視線に真奈美はたじろいだが、「…いいです。それ以外は、考えられない」と小さく首肯した。スフィンクスはじっと真奈美を見下ろし、真奈美も少々腰が引けつつも黙って視線を受ける。重苦しい無言の時間が流れ―――砂色に輝く神獣は唇を綻ばせた。

『…―――正解じゃ。秀麗な女子じゃ、素晴らしい』

 さつき達がわっと沸く。真奈美もほっと力を抜き、こちらへ戻ってくる。

「すごい真奈美! さすがすぎやわ!」

「まさにエース! すごいです!」

 手放しの賞賛に真奈美は照れて、というよりも困ったように「えっ…いや、そんな、別に…」と小さくなる。もっと喜び勇んでもいいと隼人は思うのだが、どうも恐縮しているようだ。

『それでは最後の者、前へ』

 四人の目が隼人に集まる。途端にぎゅっと心臓が掴まれたように痛む。

 皆の前で試されるのも謎々も苦手なのだが、痛いばかりに注がれる期待と心配の視線に、身体が勝手に動いて神獣の前に立っていた。脇の下や手に嫌な汗が滲むのが自分でもわかる。

 しかしもう隼人達を食うことはないと本人が宣言しているし、三回まで誤答もできる。理想的な状況だ。やるだけやって、どうしても答えが見つけられない場合は、仕方がないが諦めるしかない。一番年上が一番弱気なことを考えてここに立ってんのやろな、と隼人は苦笑いを零した。

 近付いて仰ぐスフィンクスはまさに見上げるほど大きく、その目が無感情に自分を見下げていて、ぞくりとする。先程まであった微笑みが、なぜか消えている。

『…では、最後の問題じゃ。朝は四つ足、昼は二つ足、夜は三つ足のものは、何じゃ?』

「え…?」

 隼人は驚き、うろたえた。後ろも困惑している気配が伝わってくる。まさかここでこの謎々が出るのは、完全に予想外だった。

『なんじゃ? もう一度言ってほしいのか?』

「え? いえ…別に」

『では答えを述べよ』

 突然不機嫌になったスフィンクスと出された謎々に戸惑いながら、隼人は恐る恐る回答する。

「ええと……答えは、人間…ですよ、ね?」

 朝の四足は赤ん坊のときのはいはい、昼は子どもから中年にかけての二足歩行、夜は老齢時期に足が悪くなり杖をついて三点で歩くことを指している、スフィンクスの出す謎々の中で最も有名なものだ。ギリシャ神話の一幕で、ネットでも最も多く見た謎々だ。

 それがなぜここで?

『正解じゃ。……なんじゃ、最後に手ごたえのない相手でつまらんの』

 思わず隼人は神獣を睨んだ。勝手に問題を出しておいて、その言い草はさすがにカチンと来た。スフィンクスは冷ややかに目を眇める。

『我はお前が答えられる謎々しか出さん。…この意味すら解せぬ愚か者ではないじゃろうな』

 高飛車な物言いに血が昇りかけ―――その言葉の意味に気付いて、隼人は愕然と凍り付いた。

『まあ、先の四人で充分楽しませてくれたからの、大目に見てやろう。では、約束の報酬じゃ。受け取れ。さらばじゃ』

 神獣は超然と笑むと、前足を袈裟懸けに振り降ろす。その軌跡から目が眩むほどの光と風が溢れ出して渦を巻く。反射的に手をかざして踏ん張る。

 やがて辺りが静かになって、隼人はそろそろと瞼を開けた。靄は跡形もなく消え失せ、足元は土のグラウンドがあり、その向こうには色褪せたタコの遊具。間違いない、たこ公園だ。

「あ、玉…」

 真奈美が呟くのにつられて視線をやる。真奈美とさつきの前に、例のほのかに光る玉が二つ、浮いていた。二人が手を差し伸べると、玉はふわりとその中に落下する。どうやら二つ目のミッションを無事クリアしたようだった。―――隼人だけが最悪に格好悪い形で。


10


 何とも形容しがたい空気が、秋晴れの公園に重苦しく漂っている。

 ミッションクリアしたことを皆が素直に喜べなくなった原因が自分にあるのは嫌と言うほどわかってはいたが、隼人は動けなかった。…スフィンクスに突きつけられた現実が、ただ痛い。

 自分には知識はある。だが智恵はない。機械のように色々なものを記憶しているだけだと、神獣は隼人の本性を看破したのだ。現に隼人は中学生ですらわかるような謎々が解けなかった。

 ―――否、解こうともしなかった。本当は、考えようともしなかったのだ。全力で考えれば、解けたかもしれないのに。

 考えることを、すぐに放棄する癖がついていることに、隼人は気付かざるを得なかった。

(………はは、俺、情けな…)

 五つも年下の中学生の少年よりも劣る自分が、心の底から情けなかった。自分は十九年間、一体、何をしてきたのだろう。勉強は人並みにできる。頭が悪いわけではないはず。なのに。

(なんで俺……こんなすぐに、考えんの諦めるんやろう…?)

隼人が自問したそのとき、不意に羽音が耳朶を打った。現実感のない輪郭の鳥が林の向こうから、鋭く鳴いて一直線に舞い降りてくる。

「…あれ? お前、どうしたん?」とラウルが問いかけると、絵の鷹は焦る様子はないものの、警戒するように甲高く鳴いて激しく翼を動かし、ラウルを車の方へ導こうとしている。

「……何かあったっぽいな」

「とりあえず車は無事っぽいけど…」

 さつきが重く呟き、弘毅が林の向こうに見え隠れする車を確認する。落ち込んでいる場合ではない。たとえ役立たずでも、チームメイトが揺れれば、他の四人も動揺する。それはこれまでのことでわかっている。―――見せかけでいい、虚勢を張らなければ。

 目を閉じてゆっくりと息を吸って吐く。静かに瞼を上げる。

 まず不安げな真奈美が視界に映る。そしてさつきと弘毅、最後にラウルと目が合う。隼人は微笑みをひねり出した。

「…とりあえず、用心して、車のとこ行こか。次のとこが来たんかもしれんし」

「せやな、まずはここから離れなな! あ、真奈美、玉預けとくわ。よろしく」

 さつきがわざと明るく笑った。雰囲気がふっと軽くなる。心の中で感謝する。

 移動する前に、さつきは真奈美にスフィンクスからもらった玉を手渡した。真奈美が受け取って自分の手に落ちてきた玉と共に、肩から提げた革ポーチの中へ丁寧にしまいこむ。

 これで隼人達は五つの玉を得たわけだが、それらは全て真奈美が管理している。

 攻撃能力を持たない隼人、現在その意味では力不足のラウル、攻撃力はあるがおっちょこちょいのさつきと弘毅に玉を預けるのは危険なので、既にアビリティー操作能力が誰よりも高く、しっかり者の真奈美が管理者に最適、と満場一致で決まったのだ。

「一応隠れながら行ったいいですね。私、先頭行きます」

「いや、さつきさん前の方がいいんちゃう? 真奈美さんが危ないわ」

「弘毅! どういう意味やそれは!」

 さつきが弘毅に噛み付くが、残念ながら弘毅の意見には隼人も全面的に同意する。さつきの大胆かつ大ざっぱな攻撃は、『風』の性質と相まって前にいる人を思い切り巻き込みかねない。

 少々の議論の末、さつき、隼人、真奈美、ラウル、弘毅の順でそろそろと公園の出口まで近付き、辺りをうかがう。絵のシベリアンハスキー達がこちらに気付いて嬉しそうに吠えた。ラウルが「しーっ」と指を立てて静かにさせる。

「………なんか異常ある?」

「いや…特にはなさそうな……」

「誰かがいる気配もないような…」

 しかし絵の鷹はまだ眼光鋭く、忙しなく視線をあちこちに走らせている。自分達にはわからないが、動物にはわかる範囲に誰か、もしくは何かいるのだろうか。……どちらにせよ、帰るためには車を確保しなければならない。隼人達は意を決し、小走りで車の陰に駆け込んだ。ハスキー犬達が尻尾を振ってラウルに飛び掛ってべろんべろんと舐めるが、それ以外に動くものはない。

 右、左、上、下、後ろ、前と全員で確認してから、隼人は車のロックを外した。道路側に回らない方がいいだろうと、助手席が定位置の真奈美に、「先入って」とドアを開ける。真奈美が屈んだまま素早く車内に体を滑り込ませる。弘毅もさっと後部座席へ乗り込んだ。

(……思い過ごし?)

 どうにも落ち着かないが、特に異常は見当たらない。ラウルが辺りを警戒しながらスケッチブックを開き、ページに描かれた元の絵に×印をつけて絵の鷹と犬を消そうとペンを手に取った。

 それが終わったらすぐに出発できるよう、先にエンジンだけかけようと隼人は扉を開いたまま運転席の方へ腕を伸ばす。ハンドル横にキーを差し込んでぐっと回し込む。低い回転音と共に車が振動し、いつでも走行できる状態に―――

「―――隼人さんッ!!」

 どん、と背中を突き飛ばされた。小型乗用車の狭い運転席に頭から突っ込んでハンドブレーキでしたたかに額を打つ。背中がハンドルにぶつかり、鋭いクラクションが空気を裂く。

 次いで、耳慣れない音が突き刺さった。ざくりともがぶりともつかない―――何かそら恐ろしい音。そして常軌を逸した絶叫が鼓膜を劈抜く。

「ラウルッ!」

 そう叫んだのは誰だったか。さつきかもしれないし、弘毅だったかもしれない。誰かがやわらかな黒髪の少年の名を呼んだ。どさりと地面に思いものが落ちる音。言葉に表し難い怒号と突風。

 ようやく姿勢を立て直した隼人の視界の端に、見えない手に捕まれて放り投げられたかのように、絵のシベリアンハスキーが吹っ飛んで公園の林に激突するのが映った。ハスキー犬は木々をなぎ倒してごろりと地に倒れ伏し、青い光に包まれて消滅する。

 誰かが後部座席で荒い息をしている。弘毅だ。なぜその双眸には涙が溜まっているのだろうか。

「ラウルっ!」とさつきが地面にすがりついて泣いている。真奈美が助手席から飛び出し、辺りに向かって鋭く誰何する。

「誰なの?! 出てきなさい!」

「ラウル、ラウル、大丈夫か? しっかりせえ!」

 さつきが誰かを抱き起こす。茫然とさつき見た隼人は、ようやく彼を目の当たりにした。

 ラウルはハスキー犬に喰らいつかれ―――左脇腹を抉り取られていた。夥しいほどの鮮血が彼を、さつきの手を、コンクリートの道を染め上げている。

「隼人! 隼人、ラウル助けてよ!」

 誰かが泣いて自分を呼ぶ声がする。でも遠くて、誰だかわからない。

「隼人さん! ぼさっとすんなよ! 早くラウル助けろよ!」

 誰かが胸ぐらを力一杯掴み上げたが、苦しいと感じなかった。息はもうとっくに詰まっている。

 隼人は指一本動かせなかった。何が起きたのか、全く理解できなかった。ここがG.A.M.E.の中だとアダムに告げられたときよりも強烈な衝撃だった。

 自分を突き飛ばしたのはラウルだ。焦った声で、車の中に放り込まれた。そしてラウルは自分がさっきまで立っていた位置に倒れている。それらの意味することは一つ。だが、わからない。―――なぜラウルは、隼人なんかをかばったのだ。

 こんな自分をかばって犬の前に立ちはだかる意味など、何もないというのに。

 ただ呆然と立ち尽くす隼人の耳が、小さな声を聞くともなしに捕らえた。

「………そう、隠れたままやり過ごすつもりなら…」

 いつもは柔らかく響く声が、底冷えするほど平坦に、小さく呟く。弘毅もさつきもラウルにかかりきりで気付いていないその呟きを聞き咎めた隼人は、茫洋とそちらを向いた。

車の向こうで、真奈美が静かに右手を振り上げた。

「……炙り出してあげる」

 少女はその右手をまっすぐに叩き降ろした。

 尋常ではない熱風が迸る。辺り一面を赤い膜が一瞬で覆い尽くす。轟音。隼人は目を疑った。

 ―――広大な住宅街が、劫火に呑まれていた。

 たこ公園と道路を挟んで向かいの家並みが全て、見渡す限り火の海と化している。もう秋だというのに、火傷しそうなほど熱い空気が肌を刺す。胸ぐらを掴む弘毅の力が緩んだ。ラウルを抱いて泣き叫んでいたさつきも顔を上げる。皆言葉もなく燃え上がる家々を眺めている。

「きゃぁああああ! 焦げる焦げる焦げるぅ!」

「騒ぐな! 落とすぞ!」

 突如、聞いたことのない女の悲鳴と男の声が木霊した。

 燃え盛る炎の中から、二つの影が舞い上がる。影はもつれるように空中を滑走し、車から三十mほど離れた歩道の上にふわりと軟着陸した。

「―――お前らか! 」

 さつきがぎっと睨みつける。ぼたぼたと涙が零れる。声が詰まる。後を弘毅が継いだ。

「お前らがラウル襲ったんか! 答えろ!」

「あーもう、見つかってもうたやないか。お前のせいやぞ」

「今のはしょーがないじゃん。あれは反則でしょ。もぅ死ぬかと思ったぁ!」

 男は女を責め、女は火の海を指差しながら不満げに口を尖らせる。

炙り出されて姿を現したのは、共に二十歳前後と見える女と男だ。女の方は所謂ゴスロリの黒ずくめ、男は縁なしの眼鏡でラフなジーンズ姿。平時なら全く接点がなさそうな組み合わせだ。

「………あなたたちがやったの」と真奈美が低く訊問する。ゴスロリが肩をすくめた。

「そうよぉ? だって玉奪わなきゃ、さっさとクリアできないじゃん。うちらもスフィンクスからゲットしたけど、あんなに頭使ったのに二個だけじゃ割に合わないっつの」

「…人を殺してまで早くクリアしたいの?」

 いつもどこか弱気な真奈美ではなかった。鋭利な怒りを込めた声音に、隼人の背筋が寒くなる。だがゴスロリと眼鏡は事もなげに肩をすくめた。

「だってゲームやろ、これ。ゲームってモンスターと敵を倒して、お宝ゲットしてクリアするもんやん。やのに一ヶ月も知らんヤツと仲よしこよし、しみじみ暮らすなんてアホらしいわ。やってられるかい。ゲームは面倒な部分、全部省くからゲームやねん」

「なのにうちらのアビリティー、『憑依と透視』と『飛行』なんだもん。どこまで馬鹿にしてんのって感じ。だから騙し討ちでもして奪うしかないじゃん」

「バカ! 能力バラしてどうすんねん!」

「あ。…ごっめーん」と媚びるようにゴスロリが手を合わせる。眼鏡が蔑むように女を横目で一瞥し、嘆息して首根っこを引っつかんだ。と、ふわり、と二人が林の上まで浮き上がる。

「おい、逃げんのか! 卑怯者!」

 弘毅が怒鳴る。女は傲然とわらう。

「あんた達のアビリティーわかってんのに、正面からやりあうつもりはないわよ。治癒のヤツ始末してからあんた達の誰かに憑依して同士討ちさせたかったんけど、その可愛い顔した悪魔にこれ以上関わりたくないから、早々に退散するわ」

「お、まえ―――…ッ!」

 罵倒された真奈美ではなく、弘毅の顔が憤怒に染まった。周囲の空気がぶわりと湧き上がっる。サイコキネシスを使うつもりか。隼人は咄嗟に叫んだ。

「やめろ弘毅! 相手人間やぞ! 叩き落としたら死ぬぞ!」

 自分の言葉に自分で驚く。弘毅も信じられないものを見る目で隼人を見つめる。―――何故、あんな奴らをかばうようなことを言ったのだろう。奴らは今まさに自分を殺すつもりだったと言ったのに。ラウルを害したというのに。

「ふふふ、やさしいのね。いい男だわぁ」

 女が揶揄を投げる。ざらりと心が削れる。

「甘ちゃんやな。まあ助かったけど」

「どうもありがとー。じゃーねぇ」

 にこやかに手を振る女を、男が引きずって空を飛んでいく。その姿が消えるのに時間はかからなかった。ごうと燃え上がる炎の音だけが残った。

隼人は無意識に首を巡らせ、一人道路側に佇む真奈美を見やった。

 彼女は奇妙なほど静かな面差しで、自分が焼いた家々を眺めていた。血の気のない白くきれいな相貌に、感情はない。ガラス球のような瞳に、踊り狂う火焔が映っている。その表情はなぜか―――嵐の前の静けさのように見えた。隼人の腹がすぅっと冷えていく。

「………ぅ…ぁ…」

「ラウル! ラウル、気ぃついたか? 大丈夫か?」

 さつきに抱きかかえられたラウルが、かすかに呻いた。さつきがはっとして必死に呼びかける。だがラウルは呻くばかりで答えない。その顔は炎に照らされても青白かった。ラウルもさつきも、どくどくと流れ落ちる血で真っ赤になっている。

 弘毅がどんと隼人の胸を叩いた。力任せの拳に胸が詰まる。

「隼人さん! ラウル助けろよ! 早く!」

 そうだ。自分のアビリティーは、何だったか。-――『治癒』だ。こういうときのための能力だ。

 のろのろとラウルの脇に膝をつく。さつきと弘毅が痛いほど自分を見つめている。真奈美もいつの間にか後ろに立って、心配そうに見守っている。

 二人組はこれをゲームだと言った。ゲームの中だから何をしても構わないと。だが、そんなことはないはずだ。目の前であたたかい体温を持つ、意思を持つ人間に、何をしてもいいはずがない。その人間が死にかけている。しかも彼は、隼人なんかをかばってくれた人なのだ。

 自分には、助ける力がある。やるのだ。―――やるしかないのだ。自分しか、助けられない。

 隼人は獣の牙で抉り取られて生々しく血があふれ出す傷口に、両手をかざした。目を閉じ、呼吸を整え、全身の力を掌に集める。

(…助ける―――)

 手が淡く輝いた。やさしい薄緑の光。ぐっと力を込める。―――ぽうと光が広がり、傷口を覆い隠す。光が明滅を繰り返しながら、ゆるりゆるりと傷口を巡っていく。

 『治癒』のアビリティーの使い方は簡単だ。怪我の部分に手のひらをかざす。その怪我を治したいと強く念じ、集中する。そして所謂『気』を放出するように、力を込める。それだけだ。……あとはどれだけ自分に力があるか。気力があるか。ただ、それだけ。

「…………ッ…!」

 思った以上に反動が激しい。大きな傷だ。命に関わるほどの。自分なんかには、やっぱり無理なのか。額に、脇に、全身に汗が噴き出す。心臓が激しく早鐘を打ち、酸素が脳に回らなくなる。視界が滲み、暗くなっていく。ふっと意識が遠のきかけた。光が弱まる。

「隼人! がんばって! お願い!」

「隼人さんっ!」

「隼人さん……」

 さつきと弘毅が悲痛に叫ぶ。真奈美も小さく呟く。

(―――諦めんなアホ!)

 期待が隼人の意識を繋いだ。傷口を覆う光に力が戻る。全身からありったけの力を振り絞り、ラウルの傷口に注ぎ込む。自分はどうなってもいい、ラウルは死なせはしない―――絶対に。

 そうして、どのくらいたっただろうか。

 かざした掌から、ふっと光が掻き消えた。隼人の身体がぐらりと傾ぐ。「隼人!」と慌ててさつきが手を伸ばす。ごん、と鈍い音が響いた。

「ちょ…さつきさん! 何してんねん! ラウル落とすとか何考えてんの!」

 意識を失った隼人は後ろにいた真奈美が受け止めたので大丈夫だったが、焦ったさつきが抱きかかえていたラウルを落とし、その頭が地面に落ちたのだ。睨む弘毅にさつきが小さくなる。

「ご、ごめん…まことに申し訳ない……」

「………ったー……」

 掠れた小さな声に、はっと皆が少年を見た。

 うっすらと、ラウルが瞼を開けていた。まだ茫洋とした目にはしかし、確かに生きている者の光がある。「ラウルっ! ラウル、大丈夫か? 俺わかる?」と弘毅が濡れた声で呼びかける。

 ラウルはゆっくりと、かすかに笑った。

「あーうん…楢崎弘毅やろ、三年四組の」

「…なんでフルネームやねん。なんでクラスが出てくんねん。学校ちゃうぞ、ここ」

「せやなぁ…クラスで俺ら、からんだことないもんな…」

「ラウル! ごめん大丈夫?!」とさつきが勢いよくラウルをのぞき込む。ラウルは緩慢な動作で、しかし確かに顔をしかめた。

「…頭いたい……さつきさん、怪我人の頭落とすとか、ひどすぎ…」

「ご、ごめんって! 別にわざとちゃう! ほんま堪忍!」

 必死で謝るさつきにラウルが目を細める。まだ血の気はないが、もう死相もない。

「お前、傷は? 見た感じ、何ともなくなってるけど」と弘毅が脇腹に目をやりながら尋ねる。

「……血なくなったからかなぁ、ぼーっとして動けへんけど、痛いとかそういうのはないから……たぶん大丈夫……。隼人さんに感謝やー……てあれ、隼人さんは?」

 ゆるゆるとラウルが視線を巡らせる。真奈美が隼人の肩を呼びかけながら叩いた。何度か繰り返すと疲労で気を失っていた隼人がようやく重い瞼を押し開ける。

「…隼人さん……」

 ぼんやりとした隼人の意識が、その声で覚醒した。がっと跳ね起きて、若干ふらつきながら近づいて傍らに跪く。

「ラウル…っ!」

「隼人さん、ありがとう……おかげで助かった…」

 喉が詰まった。―――生きてた。ラウルは、生きてた。

 弱々しいが確かにやさしく微笑むラウルに、隼人の胸の中で泣きたいのと、怒りたいのと、微笑み返したい気持ちが渦を巻いて込み上げてくる。何か言おうと思うのに、全く声にならない。

「……なんで、俺を…」

 しばらく沈黙が流れ、隼人はやっと単語だけ口にした。不思議そうにラウルが隼人を眺め、意味を考えるような間が空いた。それから「ああ…」と掠れた声を漏らす。

「だって俺ら…帰るのに、隼人さんおらな、帰れへんもん…。それに隼人さん、自分の怪我は治せへんし………でも、なんでやろ、勝手に身体が動いてん……」

 ゆっくりと言葉を紡ぎながら、とろとろとラウルの瞼が落ちていく。

「…うれしかったからかなぁ…。隼人さん、俺の絵、ほめてくれたやん……」

 そういえば田中家に移った最初の夜、隼人はラウルの絵を褒めたことがあった。

 水彩独特の淡い色を重ねたラウルの絵はとても繊細で、きれいだと素直に感心した。だから褒めた。ただそれだけの話だ。それがなぜここで、そんな話に。

「……俺、ほんまはサッカー選手やなくて…絵描きになりたい………でも怖くて、親にも、誰にも言えんくて……でも、初めて、真っ正面から、認められたから………うれしくて……」

 半ば夢の中のようなぼんやりとした口調で、ラウルは話し続ける。

「……俺、隼人さんに、救われた………だから、かなぁ……身体、動いたんは……」

 金縛りのように動けない。わけのわからない衝動や感情が体中でうごめいて、どうすればいいのかわからない。ラウルはかすかに目を開き、隼人を見てゆるりと笑った。

「……ありがとう、隼人さん……ありがとう…」

 ごめん、ちょっと寝させて。聞き取れないほどの声でラウルは言い、再び瞳を閉じた。わずかな間の後、静かな寝息が聞こえてくる。ゆっくりと上下する胸の動きに、隼人は筆舌に尽くしがたい安堵を感じてぎゅっと瞼を瞑る。

(……『ありがとう』は、俺の方や…)

 こんな自分に感謝してくれて、ありがとう。こんな自分の言葉を記憶に刻んでくれて、ありがとう。死なないでくれて、助けさせてくれて、ありがとう。

 込み上げてくるものを胸に収め、隼人はただ無言で頭を垂れた。


11


 ラウルの治療で疲弊しきっていた隼人だが、一行の中で車の運転ができるのは隼人だけだったので、なんとか気力で以って祖母宅まで車を走らせた。だが辿り着いてエンジンを切った瞬間に力尽き、ハンドルに倒れ込んだ。そこまでは覚えている。

「………あれ…?」

 ぱちぱちと何度か瞬きをして、隼人は目線だけで辺りをうかがった。

 古い木の天井に和式の吊り電灯、砂壁が豆電球の明かりで橙色に染まっている。寝室にしている祖母の家の二階の部屋だった。

「…しばくぞおまえ……」

 物騒な単語に驚いて見やると、弘毅がごろりと寝返りを打って布団を蹴り飛ばしたところだった。眉間に皺が寄り、むにゃむにゃ口を動かしている。あまりいい夢は見ていないようだ。隼人は苦笑して掛け布団をかけ直してやった。もう秋なので、何もかぶっていないと風邪を引く。

 弘毅の隣に目をやると、ラウルが規則正しい寝息を立てて眠っていた。弘毅と違って穏やかな寝顔だ。隼人の胸に改めて安堵がこみ上げてくる。

 寝床で眠ってはいたが、隼人はまだ昼間の服のままだった。柱の時計を見ると夜中の二時を過ぎている。記憶は昼下がりの車内で途切れていて、おそらくだが十一時間ほどぶっ通しで寝続けていたらしいがどうもまだ身体が重く、朝までもう一眠りできそうだ。今日はさすがにきちんと回復するまで休んだ方がいいだろう。

 だがさすがにジーンズでもう一度布団に入る気にはなれず、だらだらとパジャマ代わりのジャージに着替える。

(………トイレだけ行っとくか)

 隼人はふらふらと立ち上がり、静かに襖を開けて傾斜の急な古い階段を手すりをつたいながらゆっくりと下りる。歩くと下手をすると膝か抜けそうな疲労感が圧し掛かってきた。

(…『治癒』って疲れるねんな…)

 アダムが最初に寄こした説明書のアビリティーの項目では、治癒には心身の力が重要としか書かれていなかったが、本気で使うとその意味がよくわかる。階段を下っただけで膝が笑っているし、握力もかなり落ちている。がんばろうという気力も起こらない。気力と体力の限界まで絞りつくして走った後のような感覚だ。

 かなりぼーっとしたまま廊下を渡り、つきあたりにある御手洗いに入って用を足す。それから便器に付属した蛇口で手を洗っていると、突然、ガタンと物音が飛び込んできた。しかも外から。隼人は一気に覚醒した。

 丑三つ時に不審な物音。かなり怖い。しかしここは隼人の祖母の家でG.A.M.E.の世界でいう『セーフティーエリア』に設定してあり、化け物などは入っては来れないはずだ。

 ―――しかし、人間は? ……もしかすると、昼間の連中が実は隠れて後をつけていた? 夜中に忍び込むつもりで近づいてきた? さっきの仕返しに、火を付けにきたとか?

 頭の中で恐ろしい考えが次々と浮かび、確かめないことには眠れそうにない。しかし猫なんかという可能性もあるので、眠っているさつき達を起こすのは気が引ける。気配を消して外を窺うだけなら、隼人一人でも何とかなる。

 恐る恐る、抜き足差し足、十五歩ほどひっそりと移動して台所の窓に顔をくっつけ、隼人はそっと外をのぞいた。そこにいた人物に驚き、隼人は急いで勝手口から飛び出した。

「……真奈美?」

「…こんばんは」

 夜闇の中で壁際の丸椅子に腰掛けているのは、真奈美だった。寝巻きのスウェットの上にグレーのパーカーを羽織り、ばつの悪そうな、困ったような、しかしどこか作り物めいた奇妙な表情で隼人の方を見ている。

 こんな夜中に何を、と言いかけて、隼人は妙な匂いと薄い白煙にはっと気付いた。

「…ごめんなさい、驚かせて」

 寝起きと疲労と驚きで頭が回らず、目を白黒させて押し黙った隼人に、真奈美は観念したように後ろに回していた両手を、降参のジェスチャーのように軽く挙げた。左手には缶の携帯灰皿。右手には火のついた煙草がくゆっている。

「…………いつから?」

 逡巡の挙句、ようやく隼人が口にしたのは単純な質問だった。

「三年くらい前ですね。中二からです。父と兄が喫煙者なので…」

 真奈美はそこで言葉を切ったので、貰ったのか盗ったのか、隼人には判断がつかなかった。しかしそれを訊くのは気が引けて、別の問いにすり替える。

「……えーっと、ちなみに、どのくらい…?」

「吸いたくなったときだけ吸うので、普段は一週間に二・三本くらいです」

 隼人はこれでも大学生なので、友人や先輩の中には喫煙者ももちろんいる。週に二・三本ならかなり軽い方だし、気付かなくても当然だ。喫煙直後でなければ煙草の匂いなどいくらでも誤魔化せる、と嫌煙家の彼女に隠れてこっそり吸う友人が笑っていた。

「……軽蔑します?」

 細い煙草を口元に運びながら、真奈美が上目遣いで隼人を見る。

「……いや、それはないけど」

「私、未成年ですよ?」

「大学生でも未成年はおるし、そいつも吸っとるからなぁ」

「女が吸うの、男の人って嫌がるでしょう」

「あー、そういうやつ多いけど、女の人が吸うってだけで軽蔑すんのはおかしいやろ。それに俺の母さんも吸うからなぁ」

 隼人が言うと真奈美がわずかに目を瞠った。なぜ驚くのかと首を傾げる。

「ご家族は吸わないのかと思ったので、意外で。……だって隼人さん、煙草嫌いでしょう?」

 言い当てられてぐっと詰まる。なぜわかったのか問う前に「だってずっと眉間に皺が寄ってますよ」と指摘されて慌てて指で眉間の皺を伸ばすと、真奈美が小さな子どもを見るようにくすくす笑った。どちらが年上なのやらわからない、大人びた微笑みだった。

 確かに煙草は嫌いだ。身体に悪いし、匂いも苦手だ。そもそも煙を吸い込むのは、正直怖い。

「…うん、まあ…好きではないけど。でも、だからって真奈美を軽蔑したりはせんよ」

 頬を掻きながら、隼人は言った。煙草を吸うという行為はその人の些細な一部で、別にその人自身が好きか嫌いかの判断基準にはならない。喫煙者でもいい奴はたくさんいる。マナーの悪い喫煙者は嫌いだが、弁えているなら問題はないと隼人は思っている。

 真奈美はじっと隼人を見つめた。そのガラス球のような、感情の無い瞳に隼人は動悸を覚える。あの、燃え上がる住宅街を眺めていた瞳。

 しかし真奈美が先に顔を逸らし、ふっと上を仰いだ。その視線を何気なく追い、隼人は月が出ていることに気付く。―――真円には少し足りない、欠けた月。夜に空を見上げたことなど、G.A.M.E.の世界に連れて来られてからは一度もなかった。本当に現実通り忠実に再現されていることを改めて実感する。

「……なんで吸い始めたん?」

 沈黙に耐え切れず、さりとて部屋に帰る気にもなれず、そして新しい話題も思いつかず、結局隼人はそう尋ねた。底冷えする秋の夜に、細い白煙がたなびく。

「…………隙間を、埋めたくて」

「隙間?」

 ようやく返ってきた真奈美の言葉は抽象的で、隼人は眉根を寄せる。フィルターぎりぎりまで燃えた煙草を携帯灰皿に押し付け、真奈美は革のポーチからもう一本取り出してライターで火をつけた。うつむきながらゆっくりと煙を吸い込み、吐き出す。

 それは味わうというよりどこか―――深呼吸のように見える。

「…隼人さんは、『自分』と『田中隼人』が繋がってないと思ったことは、ありませんか?」

 自分と田中隼人が繋がっていない? 自分とは田中隼人ではないか。それが繋がっていない? 真奈美の言葉を頭の中で反芻したが、どうもぴんと来なかった。首を傾げ、先を促す。

「昼間、『かわいい顔した悪魔』って言われたでしょう? ……弘毅くんは怒ってくれましたけど、私、全然怒れなかったんです。『ああ、よくわかったな』って思っただけで」

「………は?」

 悪魔なんて、いつも控えめで気の利くやさしい真奈美と一番結びつかない単語だ。

 それを本人は肯定する。何故?

「…私、『高橋真奈美』っていう人間を演じているんですよ、いつも。皆が知っている『高橋真奈美』は、皆が見ているときにしか存在しない人間です。皆が望むことを忠実に再現しようとするのが『高橋真奈美』で、彼女は私だけど、『わたし』じゃない。周りのひとが望むものを組み合わせて作られたものなの。本当の『わたし』はいつも頭の中で、『高橋真奈美』の周りに起きていることを実況中継して、面白がったり、嘲笑ったりしているだけ」

 艶やかな黒髪はさらりと肩に流れ、白い肌はきめ細かく潤っている。煙草を挟む指先は細くたおやかで、座る姿もどこか気品がある。細く煙を吐き出す形のいい桜色の唇、すっと通った鼻筋、長い睫毛に縁取られた切れ長の涼しげな瞳。彼女を一言で表せば―――綺麗な少女。

「『高橋 真奈美』と『わたし』は同じ器の中にいる別の人間。ただ同じ体の中に入っているだけ。だって、繋がってないんだもの。普通、『自分』は一人でしょ? 頭の中も、見えているひとも、同じひとでしょ? ―――私は違う。皆が思う『高橋 真奈美』と、自分が自分だと思っている『わたし』は………違う」

 少女は淡々と話し続ける。隼人は何の相槌も打てず、ただ少女を眺め続ける。

 少女が敬語でなくなったことにも気付けずに。

「たとえば悲しいことが起こった。『高橋 真奈美』は泣いている。でも『私』は冷めてて、『あーあ、私、泣いてる』って思うの。なぜ涙が出てくるのか、わからないときもあるし、『悲しいんだから泣かなくちゃ』って思って泣いてるときもある。…本当に悲しいって気持ちを噛み締めて泣いたことって、ただの一度だってない」

 煙草の火が指に近づいていることも気にせず、美しい少女はただひたすら言葉を紡ぐ。機械のように。何かを吐き出すかのように。

「なんていうのかな、感情と自分が繋がってないのか、出来事と自分が繋がってないのか……。いつだって、『私はここにいて、今を生きている』って感覚が、全くないの。自分の目に映るものも感情も全部、映画を見てるみたいに、他人事の風景に見える。………自分のことなのにね」

 隼人ははっと息を呑んだ。秋の夜風が二人の間をさぁっと通り過ぎる。体がぶるりと震えた。寒い。…本当に、寒いのか?

「だからかな。時々ね、私、とんでもないことをしたりするの。今日も家を全部燃やしたでしょう? あれ、考えてやったことじゃないの。勝手に身体が動いて、燃やして、『高橋真奈美』はね、まずいなって焦ってるの。恐ろしいことしたなって。でも『わたし』は炎を使おうとしてることも、実際使っちゃったことも全部冷静に観察してて、『あーあ、やっちゃった』って嘲笑っただけだった。―――『高橋真奈美』と『わたし』は完全に別物だって、突きつけられるの」

 唇の端で少女は小さくわらった。乾いた、意味のない笑み。ぞくりと背筋が凍える。

「…そういうときは、煙を自分の中に入れると、落ち着く。肺が満たされる感覚は、『わたし』も『高橋真奈美』も一緒に感じられる。…………私の中にある、繋がってない空間が一瞬だけ埋まるような、そんな感じがする。煙草を吸うことで、隙間を埋めないと、私は生きていけない。………『わたし』と『高橋真奈美』に引き裂かれて、消えてしまう」

 真奈美は虚空を見つめていた。その瞳に感情はなく、輝きもない。何も、なかった。

 全て理解できるわけではない。隼人は『田中隼人』であり、『自分』だ。だが―――今、真奈美が語ったことの中に、ひどく共感できることが、ある。

 『今ここにいて、生きている感覚』が、隼人もないのだ。

 それこそ自分が『フェイク=G.A.M.E.というゲームのためにプログラミングされた作り物』かどうか、自分で疑ってしまうほどに、自分が生きているという実感が全くない。

 なぜだろう。それなりに充実した人生を送ってきたはずなのに。普通に普通のことをして、ここまできたのに。―――『普通』に『充実』した人生?

 小中と習い事や部活をてきとうにこなしながら過ごし、波に流されるように成績に見合った高校へ進み、周りが勉強するのに合わせて勉強して大学へ入学し、てきとうにバイトとサークルを選んできた。全て『てきとう』、そして『周りに合わせて』、だ。自分で望んで選んでしたことなど、一つとしてない。

 ―――違う。自分がしたいことなど、何一つとしてないのだ。だから周りに合わせておけば、『普通』に振る舞っておけば、『それなりの人生』になっていたのだ。

 そもそも、『自分が何をしたいか』など、考えたことすらない。それは……何故?

(…………考える必要が…なかった、から……?)

 脳裏に浮かんだ言葉に自分で愕然とした。だがその感覚が、それが真実であると示していた。

スフィンクスは隼人が『考える力がない』ことを見抜いた。何故考える力がないのか。自分で考える必要が、なかったからだ。なぜなら。―――いつも誰かの望むように行動していれば、良かったからだ。

 母親が、妹が、祖父母が、先生が、友達が、先輩が、後輩が、世間が、教科書が、参考書が、社会が……誰かが望んだことを、隼人はこなそうとしてきただけなのだ。

隼人には感情もある。意見もある。意思もある。それらは全て、自分の中の確かなものだと思っていた。

 しかし「自分の目に映るものも感情も全部、映画を見てるみたいに、他人事の風景に見える」という真奈美の言葉が、痛いほどわかる。だから隼人は―――本当は、自分が今どう感じているか、何をしたいのか、何にもわかってないのだと気付かざるを得なかった。

 悲しまないといけないから悲しむ。何かをぼんやりと感じていて、その正体がはっきりしないまま、知っている語彙の中では『悲しい』に近いから、そう思っているんだと思い込む。

 全て雲を掴むような、曖昧なものとしてしか感じられないのに、それに誰かが望むように、名前や説明をつけてきたのだ。中身を知らないまま。考えようともしないまま。

 ―――そんな状態で『生きている感覚』など、持てるはずがない。

(……ああ、俺、『俺』のこと全然知らんねんや…)

 隼人は自分が、全く見ず知らずの人間であると気付いた。愕然とする。冷厳なる真実に、全身が総毛立つ。―――『田中隼人』は、周りが、社会が、誰かが『是』とすることを、ただ従順に実行しようとするだけの「人形キャラクター」だったのだ。

 あの疑問が蘇る。『田中隼人』は、本当はG.A.M.E.の中の、ただのプログラミングされただけの存在ではないのか。自分は本当に、『生きている人間』なのか。本当は自分の感情も意見も意思も―――存在すら、虚構なのではないか。

 少なくとも今までの『自分』はただの虚構だ。だが隼人はどこかに『本当の自分』が一欠片でもあることを信じたかった。本当に全部が全部虚構だったとは、信じたくなかった。

 ―――『田中隼人』とはまだきちんと出会っていないだけで、自分の中にいると信じたかった。

 そうでなければ、自分はフェイクと同類のような気がする。虚ろな身の内に化け物を秘めた、あの憐れで恐ろしい偽物の存在と同類ではないと信じたい。

(……自分のことなのに、『信じたい』って……)

 隼人の唇に自嘲が浮かぶ。ふいに、辺りが暗くなった。欠けた月が雲に隠されたのだ。

「……ねえ、隼人さん。……わたし、おかしいのかしらね…?」

 小さく、真奈美がわらった。嗤った。怖い、と思った。自分のことを嗤っているのに、隼人のことを嗤っているのだと思った。

 だが彼女の硝子のような瞳に僅かに、すがるような色が過ぎって、隼人ははっと我に返った。言ってあげなければ。おかしくないと。真奈美は自分を懼れている。疎んじている。隼人に救いを求めている。早く、口を動かして、安心させてあげなければ。―――だが凍り付いたように体が動かない。声が出ない。お前が何か言えた口か―――心の中で何かが嘲笑う。

 おかしいかどうか、隼人にもわからない。おかしいとかおかしくないとか思う自分の価値観が、既におかしいような気がする。確かな土台の上に立っていると思っていたのに、底なし沼だとようやく気が付いて、ずぶずぶと沈んでいく。わからない。何もかもがわからない。

 わからない。認めたくない。―――今までの自分が間違っていた、虚構だったなんて。

ふいに真奈美が微笑んだ。『いつもの真奈美』だった。

「…もう、寝ましょうか。お疲れのところ、すみませんでした」

 おやすみなさい、ともう一度微笑み、真奈美は立ち上がって家の中へと入って行った。

 隼人はその背中をただ見送ることしかできなかった。


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