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ミツルは、公園のブランコに座っていた。走り回る子供や、散歩をする人々がいた場所は、今はしんと静まりかえり、昼間の暑さを含んだ風が、じっとりとミツルの前髪を撫でて暗闇に消えていく。ミツルは、鬱陶しいと前髪をかきあげた。目の前に落ちている忘れられたオモチャのスコップを無意識に見つめている。会食は、終わった。契約は、成立した。会食は、和やかに進んだ。どうやら、社長は純粋にモデルとしてのミツルを評価していたようだ。
「ホンット、よかったぁ…。」
食事の後に、相手の社長に何か言われるかもしれない…ミツルは覚悟していた。今、国内外で注目を浴びつつあるブランドだ。ミツルにとっては、大き過ぎる仕事と言っていい。なんとしても手に入れたかった。でも、心配は、無用だったようだ。あまりの安堵に、涙が出そうになる。こんな思いをしてまで仕事を得ようとする自分がいるなんて、思いもしなかった。あの日…彼女に追い出されたあの日…。ムーを抱き、町をぶらついていたら、ユウタを見かけた。驚きと戸惑いで、すぐに声をかける事ができず、後をつけた。アパートをつきとめたものの、尋ねていく勇気が出ずに、このブランコに座って迷っていた。泊めてもらいたかった訳じゃなかった。ただ…会って謝りたかった。…秋の午後、教室の窓際の席で一人、本を読むユウタ。ミツル達のせいで、ユウタはいつも一人だった。柔らかな黄色がかった光の中に、ユウタのうつむき加減の横顔が薄い影を作り、静かにそこにある。教室の喧騒がそこだけ消され、静寂の中に置かれた一枚の絵のようだった。おそらく、教室の誰もが意識していなかったであろう風景を、ミツルはそっと眺めていた…。自分がユウタにした事を、ミツルはずっと後悔していた。でも、その後悔を胸の奥にしまい込み、ごまかしながら生きてきた。ユウタに会って謝ることで、心の奥でくすぶっていたものは消えて無くなると思った。やっと、楽になれる…そう思った。それなのに、ユウタに会うのが怖かった。イジメていた相手が怖かった。自分の顔を見て、ユウタがどんな反応をするのか。最悪な展開しか、頭に浮かんでこなかった。けれど、ユウタは受け入れてくれた。予想もしなかった展開に、とまどった。「病気で心が弱ってるから。」と、ユウタは言った。憎くてたまらない相手だろう…そんなヤツでもいいから、一緒にいて欲しいと思うほど、孤独で不安なのか…。でも、一緒に暮らしてみると、ユウタは毎日をしっかり生きている。それなら、自分はユウタの毎日が少しでも楽しくなるように努力しよう、と思った。少しでもユウタの手助けになれれば。そうすれば、ずっと抱えていた後悔も消えるだろう。ユウタへの償いになるだろう。やっと、罪悪感が消せる。
「罪悪感、か…。」
ミツルは、呟いた。その為に、自分はユウタと暮らすのか?もちろん、それもある。ユウタを傷つけた事は確かだ。でも、それだけじゃない。ミツルは、目の前のアパートを見上げた。ユウタの部屋の閉じたカーテンの隙間から明かりが漏れている。優しくて暖かい光だ。あの光の中に、ユウタとムーが待っている。ミツルの瞳に映る光が、微かに潤む。瞳に光を湛えたまま、ゆっくりとブランコから腰を上げる。
「帰ろう。」
空になったブランコが、風に吹かれて「キィ」と鳴った。
初夏の昼下がり。日差しが強く、少し蒸し暑い日だった。ミツルとユウタ、そしてムーは、近場のドッグランにいた。アジリティ施設がある場所で、実践してみようとやってきたのだ。
「よし、行け!」
ユウタの合図でムーが走り出す。白くて長い毛並みが、キラキラと陽に映える。トンネルと山を越えるのは順調。ポールをすり抜けるのがうまくいかない。
「こっち!こっちだよ!」
ユウタは、懸命だった。何度もポールの間を行ったり来たりする。ムーの集中力も、そろそろ切れてきた。
「少し休もうぜ。」
ミツルがそう言った時だった。フッとユウタの体の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「ユウタ!」
ミツルが駆け寄り、ユウタを抱きかかえる。腕の中のユウタの意識は、無い。
「おい!ユウタ!」
ユウタの顔に、全く生気が無い。ミツルは、息を飲んだ。ムーが、心配そうにユウタの顔を舐める。ユウタの眉が、微かに動いた。ミツルは、ハッとして顔を上げた。
「誰か!救急車呼んでくれ!早く!」
ミツルの悲鳴のような叫び声が、ドッグランに響いた。
ユウタは、かかりつけの病院に運ばれた。担当医によれば、貧血との事だった。
「あんまり無理したら、ダメだって言われた。」
ベッドに身を起こしたユウタは、肩をすくめた。ミツルは、大きなため息をつく。
「無茶し過ぎなんだよ。仕事だってやってるし、暇があったら小説書いてるし。」
「うん…。でも、やっておかないと。」
ユウタが、申し訳なさそうに言った。ミツルは、ドキッとする。いつもユウタは、こういう事をさらっと言う。そのたびにミツルは、オタオタしてしまう。
「大丈夫だって。あせんなよ。全部ちゃんとできるって。」
努めて力強く言い、ユウタの肩に優しく手を置く。
「んー…できるかな?」
ユウタが、いたずらっぽく笑う。ミツルは、ユウタの肩に乗せた手に、少しだけ力を込めた。
「できるって。そーゆー風にちゃんとなってんだからよ。」
ミツルはいつも、何の根拠も無い事を堂々と言う。ユウタは、
「だよね。」
と、笑った。そして、ガッツポーズをしてみせた。
「じゃあ、無理しないでがんばるよ。」
「頼むぜ。ムーの躾は、お前が頼りだかんな。」
「本田くんも、教えてよ。」
「だって、俺の言うこと聞かねぇし。」
「真剣さが、足りないんじゃない?」
「え。俺、いつでも真剣だけどな。」
「うそぉー。」
ユウタが、笑った。もう、すっかり元気そうだ。
「明日か明後日には、退院できると思うんだ。」
「おう。ムーの事は心配すんな。」
「うん…。」
ユウタは頷き、窓を見た。
「すっかり暗くなっちゃったね。」
「ん?ああ。」
「ごめんね。」
「何言ってんだよ。余計な気ィ使うな。」
「うん…。」
静かに頷くユウタが、寂しそうに見えて、ミツルは、
「大丈夫か?俺、泊まろうか?」
と、とんでもない事を言い出した。途端にユウタが笑顔になる。
「何言ってんの、大丈夫だよ。」
「そうか?」
「うん。」
「そうか…。じゃ、また明日来るからよ。」
ミツルは、ユウタの膝をポンと叩いて立ち上がった。
「いいよ。明後日には退院するんだから。」
「いーから、いーから。また明日な。ゆっくり休めよ。」
ミツルは、陽気に手を振って病室を後にした。廊下を歩き始めると、膝が少しガクガクしているのを感じる。病気のユウタと暮らしていれば、こんなことは覚悟していなければならないことだ。しかし、初めてのことにミツルは動揺していた。倒れたユウタは、驚くほど細くて軽かった。いくら呼んでも、ぐったりとして動かなかった青白いユウタの顔…。
「ふ…。」
ミツルは立ち止まり、ユウタを抱き起こした両手を見つめた。その手は、震えていた。見つめていると、震えが徐々に大きくなっていく。
「くそッ…。」
ミツルは、右手で左手を押さえつけた。それでも、震えは止まらない。
「く…ッ…。」
ミツルは、両腕で抱え込むように体を折り曲げた。震えは、少し収まった。誰もいない病院の廊下の壁にぶつかるように寄りかかり、そのままストンと尻もちをつくように床に座り込んだ。
「はぁ…。」
自分の体を抱いたまま、深いため息を吐き出す。泣きそうな顔で廊下の傷を見つめ、荒い呼吸を繰り返す。薄暗い廊下に、ミツルの呼吸だけが響いていた。そうやってどのくらいいたのだろう。
「しっかりしろよ…なさけねぇな…。」
ミツルは、ギリッと歯を食いしばり、覆い被さる闇を突き破るように立ち上がる。瞳を閉じ、天を仰ぎ、もう一度深く息を吐く。
「よし。」
力強く頷くと、ムーの待つ警備室へと向かった。その足は、もう震えてはいなかった。
「すいませーん。犬預かってもらっちゃって。」
ミツルが
警備室へ顔を出すと、ムーが飛び付いてきた。ものすごい勢いでしっぽを振り、ピョンピョンと跳ねて抱っこをせがむ。
「よしよし。待たせたな。」
ミツルは、ムーを抱き上げ、頭を撫でた。
「ユウタ、元気になったぞ。すぐに帰ってくるから、心配すんなよ。」
ムーは、ミツルの顔をペロッと舐め、「ワン!」と可愛く鳴いた。
ユウタは、ミツルが去ったドアを見つめていた。ムーの特訓なんてやらなければ、こんな事にならなかっただろう。ミツルが現れなければ、何事もない静かな毎日を過ごしていたに違いない。それで、よかった。ガンの宣告を受けた時、自分でも驚くほど冷静だった。「結局、本は出せなかったな。」とぼんやり考えたくらいで、後はこれから起こる体の痛みが気がかりだった。病気の事を話しておかないといけないのは、仕事先の上司だけだし、自分が死ぬ事で影響がある人もいない。つまりは、この世に未練は無いという事だ。だから、ずっと静かに暮らしてくることが、できた。
「ふふ…ッ。」
ユウタは、さっきのミツルとのやり取りを思い出していた。思い出し笑いなんて、もうずっとしていなかった。ミツルとのちょっとしたやり取りは、くだらない事なのに、後から思い出すとものすごく楽しい出来事だったと感じる。ユウタは、窓へ目を向けた。外は、暗い。ミツルとムーは、もうすぐ家に着くだろうか。
「明日、帰りたいな…。」
ユウタは、掠れた声で呟いた。




