3
ミツルは、寝付けなかった。二日目もソファーで寝る事が苦痛だという訳じゃない。ユウタのあの告白のせいでだ。若年性の胃ガンで、手術ができない状態。両親も死んで兄弟もいないから、一人で最後を迎える準備をしてある。自分としては、整理がついているので、このまま暮らせるところまで暮らしていくつもりだ。という事を、淡々と話していた。
「なんだよ…。」
暗い部屋でミツルはつぶやき、廊下へのドアを見つめた。あのドアの向こうの寝室で、ユウタは眠っている。衝撃を受け、狼狽えて、何も言えないでいるミツルとは対照的に、ユウタはずっと穏やかな顔で自分の病気の事を話していた。あの頃のユウタを思い出す。いつも静かに自分の席で本を読んでいた。やっぱり色白で痩せていて。毎日のように仲間とイジメていたのに、言葉を交わした事なんて無かった。目を合わせた事もないと思う。仲間がからかっても、静かにそれを聞いていた。ちょっと小突いたくらいじゃ、びくともしなかった。それは精神的に、という意味で。普通なら、泣くなり媚びるなりするだろうに、ユウタは凜としているように見えた。
「はぁ…。」
大きなため息が、暗い部屋に響いた。ソファーの下で寝ていたムーが、ハッと頭を上げた。
「はぁ…。」
もう一度ため息をつき、寝返りをうつと、ムーの頭を撫でた。暗闇を、ぼんやり見つめる。
「せっかくよぉ…。」
せっかく…ユウタを町で見かけて、ここまで来る事ができたのに…。
「クソッ。」
ミツルは目をきつく閉じ、毛布を頭まで引っ張り上げた。ムーは、しばらくそんなミツルを見上げていたが、やがてソファーに飛び乗ると、ミツルの足元でくるんと丸くなり、小さな寝息をたて始めた。
「本田くん、今日も泊まる?」
昨夜、あんな爆弾発言をしておいて、何事も無かったかのようにユウタが尋ねてきた。
「泊まるなら、布団干さないと。」
ミツルは、目覚めてからずっと、ユウタの顔がまともに見られずにいた。見る気もないのに、時計を見上げ、
「んー?いや…やっぱ…出てくよ。」
と、パンを飲み込んだ。「ゴクリ」と、やけに大きな音をたてて、パンはミツルの胃の中へ落ちた。
「そっか。」
ユウタは、微笑み、ミツルの胡座の中にいるムーを見た。
「ムーともお別れだね。」
“お別れ”という言葉に、思わず息を飲むミツル。
「あ、ああ。そうだな。」
それから、ミツルは無言のままパンを口に運び、ミルクで流し込むと、せかせかと立ち上がった。
「じゃあ、俺、行くわ。」
ムーを抱き上げ、バッグを肩にかける。
「うん。」
ユウタも立ち上がり、ミツルの後に続き玄関へ向かう。靴を履き、ミツルはユウタと向かい合った。
「世話になったな。」
やっと、ユウタの顔が見られた。
「その…まぁ…元気で、な。」
「ありがとう。本田くんも、元気でね。」
ムーは、ミツルの腕の中でキョトンとユウタを見ている。ユウタは、そっとムーの頭を撫でた。
「ちゃんと、本田くんの言うこと聞くんだよ。」
ミツルは、軽く咳払いをして、
「んじゃ。」
と、後退った。ユウタに背を向け、ドアを開ける。体をドアの向こうに出すと、一瞬戸惑ったが振り向かず、後ろ手でドアノブを離した。ゆっくりとドアが閉まり、重たい音をたてた。その場に立ったまま、ミツルはフゥッと息を吐き出した。ムーが、不思議そうに見上げている。これで、本当にサヨナラだ。もう、会うことはない。あと少ししか生きられないのに、俺なんかと暮らすなんて最悪だろ。あいつは…一人で最後を迎えると言っていた。あの部屋で、ずっと一人きりで生きていくのか…。まぁ、俺が部屋にいるくらいなら、一人の方がマシか。そうさ、これでいいんだ。俺は、早く自分の住みかを探さねぇとな。ミツルは、自分を納得させるように頷き、ムーをギュッと抱き締めると、ユウタの家を後にした。
夕飯の買い物客で賑わう商店街。仕事帰りのユウタは、肉屋の前で立ち止まった。揚げたてのコロッケの匂いが、ユウタの足を止めたのだ。ショーケースに並ぶコロッケを見て、
「おいしそう…。」
と、呟いていた。最近、食べ物に興味が無くなってきていたのだが、今、ユウタはコロッケに惹かれている。ミツルのせいだ。ほんの数回、一緒に食事をしただけだったのに、大口を開け、何でもおいしそうに食べるミツルの姿が、ユウタの脳裏に焼き付いていた。おいしいと叫ぶ幸せそうな顔…そして、ミツルのおこぼれを狙うムー…。思わずユウタの頬が緩む。でも、もう一緒に食事をする事は無い。彼らは、今朝、出て行ったのだ。ガンだと告白した時の、ミツルの顔が浮かぶ。僕なんかの家に来なければ、余計な事を知らずに済んだのに。ユウタは、うっすら苦笑いを浮かべた。
「お兄さん、何か取ろうか?」
肉屋のおばちゃんが、ニコニコと声をかけてきた。ユウタは、おばちゃんとコロッケを交互に見て微笑んだ。その端正な横顔は、沈んでいく夕日に照らされ、橙色の薄い影に包まれた。
アパートのエレベーターを降り、自分の部屋へと歩き出したユウタは、ふと足を止めた。部屋の前に誰かいる。子犬を抱えてドアの前にしゃがみ込んでいる。その子犬がユウタに気付き、ジタバタと暴れ出した。
「ワン!」
嬉しそうな鳴き声には、聞き覚えがあった。ムーを抱いたミツルが、こちらに気づいて立ち上がる。
「よお。」
「どうしたの?」
ユウタは、早足で近づいた。
「いや…。」
ミツルは、口ごもり頭を掻いた。
「その…なんだ…あー、やっぱ、行くとこ無くてよ。…また泊めてくんね?」
気まずそうな顔のミツルを、ユウタは見つめた。ミツルは、バツが悪そうに目をそらす。ユウタは微笑み、
「うん。」
と、言った。ミツルはホッとして、ユウタに視線を戻すと
「サンキュ。」
と、笑った。ユウタも微笑み、
「泊めてくれる人、いなかったの?」
と、尋ねた。
「ん?ああ、まあな。」
ユウタの部屋を後にしたミツルは、駅に向かったものの、どうしても電車に乗る気になれなかった。駅前のベンチに座り、何本も電車が通りすぎていくのを見送った。このままこの町を離れたら、本当に最後だ。もうユウタに会えなくなる。ずっとそればかり考えていた。もし、ミツルが戻ったとしたら、ユウタは受け入れてくれるのか。多分また、仕方ないと思いつつも、ミツルを受け入れてくれるだろう。ミツルは迷った。ユウタに迷惑をかける事になっても、戻るべきか。戻らなければ、ユウタは一人で生きていく事になるだろう。あの余計な物は何も無い、白い部屋で一人。最後の日を迎える日まで。でも…俺が戻ったところで何になる?ユウタは、本当は俺になんか会いたくなかったろう。俺が部屋にいるなんて、嫌に決まってる…。でも…。ミツルは目をつむった。ムーを抱くユウタの笑顔が浮かんだ。その時、ムーが「ワン!」と鳴いた。ミツルは、ハッと目を開いた。足元でムーがミツルを見上げている。ミツルは、ムーを抱き上げ、勢いよく立ち上がった。そして、歩き出したーー。
「あ、そうだ。これ。」
ミツルは、なんともいえない気恥ずかしさを払拭するため、持っていた黄色いビニール袋をユウタの目の前にぶら下げた。
「コロッケ。今夜のメシ。」
一体いくつ買ってきたのか、黄色いビニール袋はズッシリと重そうだ。ユウタに断られたら、どうするつもりだったのか。
「すごいね…。」
ユウタが、半笑いで言った。
「そうか?」
「うん。だって…ほら。」
ユウタは、カバンから黄色いビニール袋を取り出した。
「マジか…。」
「マジだよ…。」
二人は、それぞれの黄色いビニール袋を見つめた。そして、お互いに目を向けた。
「ふっ…。」
ユウタが、吹き出した。
「ハハッ。」
ミツルも、笑い声をあげる。ユウタが、楽しそうに言う。
「食べきれるかな?」
「食えるよ。俺がいるんだから。」
「ワン!」
と、ムーが割り込んできた。
「あはっ、ムーもいるって。」
「マジか。百人力じゃん。」
二人の笑い声が、アパートの廊下に響く。
また、今夜、ここで二人と一匹で過ごす事ができるのだ。
「ん!うまい!このコロッケ!」
大皿に山のように積み上げられたコロッケを前に、ミツルは声をあげた。
「これから、コロッケはこの肉屋だな。」
コロッケを二口で平らげ、次のコロッケに手をのばす。のばしてから、ミツルは「これから」と言った事に気づいて、ユウタを見た。ユウタは、四分の一に切ったコロッケを箸でつまみ、
「うん。」
と、笑顔で答えた。ミツルは、ホッとしてコロッケを口に運ぶ。これから…どれくらいここにいられるのか…。きっとユウタは、ミツルが新しい住みかを見つけるまで置いてくれるだろう。突然現れた、自分をイジメていた同級生を、泊めてくれるようなヤツだから…。ミツルは、箸を置いた。
「お前…よく俺一人、この家に置いていったな。」
「え?」
急に真顔になったミツルに、ユウタは少し驚いたようだった。
「俺が部屋荒らしていなくなってるとか、考えなかったのかよ。」
「えー、まさかぁ。」
真顔でなに冗談言ってるの?と言わんばかりに、ユウタが笑う。
「まさかって…。ありえるだろ。」
「そんな事、頭に浮かばなかったよ。」
ユウタは肩をすくめて、キャベツに箸を伸ばした。
「だって…俺だぞ?」
吐き捨てるようにミツルが言うと、ユウタは、穏やかな笑みを浮かべた。
「でも、思い浮かばなかったんだ。」
「…何でだよ?何で俺なんか泊めてくれんだよ?」
あんなに図々しく上がり込んでおいて、今さら何を言ってるんだ、と言わんばかりに、キョトンとした顔でユウタに見つめられ、ミツルは顔を伏せて頭を掻いた。ユウタは、そんなミツルのつむじをじっと見ていたが、小さく息を吐いて言った。
「本当は、泊めたくなかったけど。」
ミツルは、頭を下げたままだ。ユウタは、うっすらと冷たい笑みを浮かべた。でも、それはミツルに対してではなかった。
「病気だからかな……。」
ミツルは、ハッと頭を上げた。
「やっぱり弱ってるのかな、心も。」
そう言って微笑むユウタの顔に、もう冷たさは無かった。ミツルは、何も返事ができずに、咳払いをした。乱暴に箸を掴むと、コロッケに突き刺し、
「なるべく早く住むとこ見つけっからよ。」
と、明るく言った。ユウタもコロッケを取りながら尋ねた。
「でも、僕の家にまで来るって事は、実家もダメなんだよね?」
「もう、何年も連絡取ってねぇよ。」
ミツルは、ぶっきらぼうに答えた。
「そうなんだ…。」
あんなにお坊っちゃまだったのに、家を捨てるなんて、よほどの事があったのだろうか。ユウタは、それ以上聞くのはやめた。
「昔のダチもあてにならねぇし。」
「ふぅん…。」
「で、フラフラしてたら、お前見かけてよ。後つけて…。そこの公園で、ずっと迷ってた。」
「迷ってた?僕の家に来るのに?」
「おう。勇気いるじゃん。顔、合わせづらいだろ。その…高校の時の事もあるしよ。」
「えー、本田くんは平気だと思ってた。」
ユウタに悪気は無かったが、ミツルは顔を強張らせた。
「そう…思うよな…うん…だよな…。」
うなだれるミツル。
「ホント、悪かったと思ってる。俺、ずっとお前に謝りたくて…それで…お前は嫌だろうけど、俺…。」
「いいよ、ずっといても。」
「え?」
ユウタの思いがけない言葉に、ミツルは、耳を疑った。ユウタは、笑みを浮かべている。
「本田くん、泊めてよかったって思ってるんだ。」
「え…。」
「だって、本田くんと食事すると、なんか食欲わくんだよね。」
「そ…そうなのか?」
「うん。つられて食べちゃうんだ。元気になりそう。」
「マジか…?」
「うん、マジ。」
そう言って、ユウタがコロッケをパクッと食べた。ミツルが、顔を輝かせる。
「じゃあ、俺、ここにいていいのか?」
「うん。」
ニッコリと、ユウタが笑う。そして、ミツルの側にいるムーのところへ、尻を滑らせ移動した。
「それに、犬と暮らせるんでしょ?」
ムーは、ミツルのジーパンの縫い目を無心に噛んでいる。
「お手とか、できるかな?」
ユウタは、ムーの小さな手をそっと握って尋ねる。
「教えりゃ、何でもできるようになるさ。」
「楽しみだなぁ。」
嬉しそうに、ムーに顔を近づけるユウタ。ミツルも、つられて笑顔になる。すると、ムーに顔を近づけたまま、ユウタが言った。
「でも、僕が死ぬ前には、出て行った方がいいよ。」
ミツルの笑顔が、固まった。ユウタは、ムーの方を向いたまま、続ける。
「面倒くさい事になっちゃうから。」
そう言うユウタの顔は、ムーを見つめて微笑んでいる。声の抑揚も変わらない。けれど、ミツルは、返す言葉が出なかった。固まった笑顔も戻せずにいた。ミツルの様子にようやく気付き、
「ごめんね。変な事言って。」
と、ユウタが身を起こした。
「でも、本当なんだ。僕の事は、気にしないでね。」
ユウタの笑顔は、変わらない。ミツルは、まだ何も言えず、ただ頷いた。少し苦笑いで、ユウタはまたムーの手を取り、顔を近づけた。
「これから、よろしくね。」




