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 ミツルは、寝付けなかった。二日目もソファーで寝る事が苦痛だという訳じゃない。ユウタのあの告白のせいでだ。若年性の胃ガンで、手術ができない状態。両親も死んで兄弟もいないから、一人で最後を迎える準備をしてある。自分としては、整理がついているので、このまま暮らせるところまで暮らしていくつもりだ。という事を、淡々と話していた。

「なんだよ…。」

暗い部屋でミツルはつぶやき、廊下へのドアを見つめた。あのドアの向こうの寝室で、ユウタは眠っている。衝撃を受け、狼狽えて、何も言えないでいるミツルとは対照的に、ユウタはずっと穏やかな顔で自分の病気の事を話していた。あの頃のユウタを思い出す。いつも静かに自分の席で本を読んでいた。やっぱり色白で痩せていて。毎日のように仲間とイジメていたのに、言葉を交わした事なんて無かった。目を合わせた事もないと思う。仲間がからかっても、静かにそれを聞いていた。ちょっと小突いたくらいじゃ、びくともしなかった。それは精神的に、という意味で。普通なら、泣くなり媚びるなりするだろうに、ユウタは凜としているように見えた。

「はぁ…。」

大きなため息が、暗い部屋に響いた。ソファーの下で寝ていたムーが、ハッと頭を上げた。

「はぁ…。」

もう一度ため息をつき、寝返りをうつと、ムーの頭を撫でた。暗闇を、ぼんやり見つめる。

「せっかくよぉ…。」

せっかく…ユウタを町で見かけて、ここまで来る事ができたのに…。

「クソッ。」

ミツルは目をきつく閉じ、毛布を頭まで引っ張り上げた。ムーは、しばらくそんなミツルを見上げていたが、やがてソファーに飛び乗ると、ミツルの足元でくるんと丸くなり、小さな寝息をたて始めた。


 「本田くん、今日も泊まる?」

昨夜、あんな爆弾発言をしておいて、何事も無かったかのようにユウタが尋ねてきた。

「泊まるなら、布団干さないと。」

ミツルは、目覚めてからずっと、ユウタの顔がまともに見られずにいた。見る気もないのに、時計を見上げ、

「んー?いや…やっぱ…出てくよ。」

と、パンを飲み込んだ。「ゴクリ」と、やけに大きな音をたてて、パンはミツルの胃の中へ落ちた。

「そっか。」

ユウタは、微笑み、ミツルの胡座の中にいるムーを見た。

「ムーともお別れだね。」

“お別れ”という言葉に、思わず息を飲むミツル。

「あ、ああ。そうだな。」

それから、ミツルは無言のままパンを口に運び、ミルクで流し込むと、せかせかと立ち上がった。

「じゃあ、俺、行くわ。」

ムーを抱き上げ、バッグを肩にかける。

「うん。」

ユウタも立ち上がり、ミツルの後に続き玄関へ向かう。靴を履き、ミツルはユウタと向かい合った。

「世話になったな。」

やっと、ユウタの顔が見られた。

「その…まぁ…元気で、な。」

「ありがとう。本田くんも、元気でね。」

ムーは、ミツルの腕の中でキョトンとユウタを見ている。ユウタは、そっとムーの頭を撫でた。

「ちゃんと、本田くんの言うこと聞くんだよ。」

ミツルは、軽く咳払いをして、

「んじゃ。」

と、後退った。ユウタに背を向け、ドアを開ける。体をドアの向こうに出すと、一瞬戸惑ったが振り向かず、後ろ手でドアノブを離した。ゆっくりとドアが閉まり、重たい音をたてた。その場に立ったまま、ミツルはフゥッと息を吐き出した。ムーが、不思議そうに見上げている。これで、本当にサヨナラだ。もう、会うことはない。あと少ししか生きられないのに、俺なんかと暮らすなんて最悪だろ。あいつは…一人で最後を迎えると言っていた。あの部屋で、ずっと一人きりで生きていくのか…。まぁ、俺が部屋にいるくらいなら、一人の方がマシか。そうさ、これでいいんだ。俺は、早く自分の住みかを探さねぇとな。ミツルは、自分を納得させるように頷き、ムーをギュッと抱き締めると、ユウタの家を後にした。


 夕飯の買い物客で賑わう商店街。仕事帰りのユウタは、肉屋の前で立ち止まった。揚げたてのコロッケの匂いが、ユウタの足を止めたのだ。ショーケースに並ぶコロッケを見て、

「おいしそう…。」

と、呟いていた。最近、食べ物に興味が無くなってきていたのだが、今、ユウタはコロッケに惹かれている。ミツルのせいだ。ほんの数回、一緒に食事をしただけだったのに、大口を開け、何でもおいしそうに食べるミツルの姿が、ユウタの脳裏に焼き付いていた。おいしいと叫ぶ幸せそうな顔…そして、ミツルのおこぼれを狙うムー…。思わずユウタの頬が緩む。でも、もう一緒に食事をする事は無い。彼らは、今朝、出て行ったのだ。ガンだと告白した時の、ミツルの顔が浮かぶ。僕なんかの家に来なければ、余計な事を知らずに済んだのに。ユウタは、うっすら苦笑いを浮かべた。

「お兄さん、何か取ろうか?」

肉屋のおばちゃんが、ニコニコと声をかけてきた。ユウタは、おばちゃんとコロッケを交互に見て微笑んだ。その端正な横顔は、沈んでいく夕日に照らされ、橙色の薄い影に包まれた。


 アパートのエレベーターを降り、自分の部屋へと歩き出したユウタは、ふと足を止めた。部屋の前に誰かいる。子犬を抱えてドアの前にしゃがみ込んでいる。その子犬がユウタに気付き、ジタバタと暴れ出した。

「ワン!」

嬉しそうな鳴き声には、聞き覚えがあった。ムーを抱いたミツルが、こちらに気づいて立ち上がる。

「よお。」

「どうしたの?」

ユウタは、早足で近づいた。

「いや…。」

ミツルは、口ごもり頭を掻いた。

「その…なんだ…あー、やっぱ、行くとこ無くてよ。…また泊めてくんね?」

気まずそうな顔のミツルを、ユウタは見つめた。ミツルは、バツが悪そうに目をそらす。ユウタは微笑み、

「うん。」

と、言った。ミツルはホッとして、ユウタに視線を戻すと

「サンキュ。」

と、笑った。ユウタも微笑み、

「泊めてくれる人、いなかったの?」

と、尋ねた。

「ん?ああ、まあな。」

ユウタの部屋を後にしたミツルは、駅に向かったものの、どうしても電車に乗る気になれなかった。駅前のベンチに座り、何本も電車が通りすぎていくのを見送った。このままこの町を離れたら、本当に最後だ。もうユウタに会えなくなる。ずっとそればかり考えていた。もし、ミツルが戻ったとしたら、ユウタは受け入れてくれるのか。多分また、仕方ないと思いつつも、ミツルを受け入れてくれるだろう。ミツルは迷った。ユウタに迷惑をかける事になっても、戻るべきか。戻らなければ、ユウタは一人で生きていく事になるだろう。あの余計な物は何も無い、白い部屋で一人。最後の日を迎える日まで。でも…俺が戻ったところで何になる?ユウタは、本当は俺になんか会いたくなかったろう。俺が部屋にいるなんて、嫌に決まってる…。でも…。ミツルは目をつむった。ムーを抱くユウタの笑顔が浮かんだ。その時、ムーが「ワン!」と鳴いた。ミツルは、ハッと目を開いた。足元でムーがミツルを見上げている。ミツルは、ムーを抱き上げ、勢いよく立ち上がった。そして、歩き出したーー。

「あ、そうだ。これ。」

ミツルは、なんともいえない気恥ずかしさを払拭するため、持っていた黄色いビニール袋をユウタの目の前にぶら下げた。

「コロッケ。今夜のメシ。」

一体いくつ買ってきたのか、黄色いビニール袋はズッシリと重そうだ。ユウタに断られたら、どうするつもりだったのか。

「すごいね…。」

ユウタが、半笑いで言った。

「そうか?」

「うん。だって…ほら。」

ユウタは、カバンから黄色いビニール袋を取り出した。

「マジか…。」

「マジだよ…。」

二人は、それぞれの黄色いビニール袋を見つめた。そして、お互いに目を向けた。

「ふっ…。」

ユウタが、吹き出した。

「ハハッ。」

ミツルも、笑い声をあげる。ユウタが、楽しそうに言う。

「食べきれるかな?」

「食えるよ。俺がいるんだから。」

「ワン!」

と、ムーが割り込んできた。

「あはっ、ムーもいるって。」

「マジか。百人力じゃん。」

二人の笑い声が、アパートの廊下に響く。

また、今夜、ここで二人と一匹で過ごす事ができるのだ。


 「ん!うまい!このコロッケ!」

大皿に山のように積み上げられたコロッケを前に、ミツルは声をあげた。

「これから、コロッケはこの肉屋だな。」

コロッケを二口で平らげ、次のコロッケに手をのばす。のばしてから、ミツルは「これから」と言った事に気づいて、ユウタを見た。ユウタは、四分の一に切ったコロッケを箸でつまみ、

「うん。」

と、笑顔で答えた。ミツルは、ホッとしてコロッケを口に運ぶ。これから…どれくらいここにいられるのか…。きっとユウタは、ミツルが新しい住みかを見つけるまで置いてくれるだろう。突然現れた、自分をイジメていた同級生を、泊めてくれるようなヤツだから…。ミツルは、箸を置いた。

「お前…よく俺一人、この家に置いていったな。」

「え?」

急に真顔になったミツルに、ユウタは少し驚いたようだった。

「俺が部屋荒らしていなくなってるとか、考えなかったのかよ。」

「えー、まさかぁ。」

真顔でなに冗談言ってるの?と言わんばかりに、ユウタが笑う。

「まさかって…。ありえるだろ。」

「そんな事、頭に浮かばなかったよ。」

ユウタは肩をすくめて、キャベツに箸を伸ばした。

「だって…俺だぞ?」

吐き捨てるようにミツルが言うと、ユウタは、穏やかな笑みを浮かべた。

「でも、思い浮かばなかったんだ。」

「…何でだよ?何で俺なんか泊めてくれんだよ?」

あんなに図々しく上がり込んでおいて、今さら何を言ってるんだ、と言わんばかりに、キョトンとした顔でユウタに見つめられ、ミツルは顔を伏せて頭を掻いた。ユウタは、そんなミツルのつむじをじっと見ていたが、小さく息を吐いて言った。

「本当は、泊めたくなかったけど。」

ミツルは、頭を下げたままだ。ユウタは、うっすらと冷たい笑みを浮かべた。でも、それはミツルに対してではなかった。

「病気だからかな……。」

ミツルは、ハッと頭を上げた。

「やっぱり弱ってるのかな、心も。」

そう言って微笑むユウタの顔に、もう冷たさは無かった。ミツルは、何も返事ができずに、咳払いをした。乱暴に箸を掴むと、コロッケに突き刺し、

「なるべく早く住むとこ見つけっからよ。」

と、明るく言った。ユウタもコロッケを取りながら尋ねた。

「でも、僕の家にまで来るって事は、実家もダメなんだよね?」

「もう、何年も連絡取ってねぇよ。」

ミツルは、ぶっきらぼうに答えた。

「そうなんだ…。」

あんなにお坊っちゃまだったのに、家を捨てるなんて、よほどの事があったのだろうか。ユウタは、それ以上聞くのはやめた。

「昔のダチもあてにならねぇし。」

「ふぅん…。」

「で、フラフラしてたら、お前見かけてよ。後つけて…。そこの公園で、ずっと迷ってた。」

「迷ってた?僕の家に来るのに?」

「おう。勇気いるじゃん。顔、合わせづらいだろ。その…高校の時の事もあるしよ。」

「えー、本田くんは平気だと思ってた。」

ユウタに悪気は無かったが、ミツルは顔を強張らせた。

「そう…思うよな…うん…だよな…。」

うなだれるミツル。

「ホント、悪かったと思ってる。俺、ずっとお前に謝りたくて…それで…お前は嫌だろうけど、俺…。」

「いいよ、ずっといても。」

「え?」

ユウタの思いがけない言葉に、ミツルは、耳を疑った。ユウタは、笑みを浮かべている。

「本田くん、泊めてよかったって思ってるんだ。」

「え…。」

「だって、本田くんと食事すると、なんか食欲わくんだよね。」

「そ…そうなのか?」

「うん。つられて食べちゃうんだ。元気になりそう。」

「マジか…?」

「うん、マジ。」

そう言って、ユウタがコロッケをパクッと食べた。ミツルが、顔を輝かせる。

「じゃあ、俺、ここにいていいのか?」

「うん。」

ニッコリと、ユウタが笑う。そして、ミツルの側にいるムーのところへ、尻を滑らせ移動した。

「それに、犬と暮らせるんでしょ?」

ムーは、ミツルのジーパンの縫い目を無心に噛んでいる。

「お手とか、できるかな?」

ユウタは、ムーの小さな手をそっと握って尋ねる。

「教えりゃ、何でもできるようになるさ。」

「楽しみだなぁ。」

嬉しそうに、ムーに顔を近づけるユウタ。ミツルも、つられて笑顔になる。すると、ムーに顔を近づけたまま、ユウタが言った。

「でも、僕が死ぬ前には、出て行った方がいいよ。」

ミツルの笑顔が、固まった。ユウタは、ムーの方を向いたまま、続ける。

「面倒くさい事になっちゃうから。」

そう言うユウタの顔は、ムーを見つめて微笑んでいる。声の抑揚も変わらない。けれど、ミツルは、返す言葉が出なかった。固まった笑顔も戻せずにいた。ミツルの様子にようやく気付き、

「ごめんね。変な事言って。」

と、ユウタが身を起こした。

「でも、本当なんだ。僕の事は、気にしないでね。」

ユウタの笑顔は、変わらない。ミツルは、まだ何も言えず、ただ頷いた。少し苦笑いで、ユウタはまたムーの手を取り、顔を近づけた。

「これから、よろしくね。」









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