最終話
〈5〉
ミツルは、部屋の窓からぼんやりと外を眺めた。公園のブランコが見える。あのブランコに乗ってずっと迷っていたあの日…。自分がこんな風になるなんて、思いもしなかった。ミツルは、深いため息をついた。ムーが、伸び上がり、ミツルの膝のあたりに前足をかける。
「なんだよ。」
ミツルは微笑み、ムーを優しく抱き上げた。
ーーー競技大会は、真ん中くらいの成績で終わった。それでも、ユウタは結果に満足したらしく、
「僕って、才能あるのかな。」
と、笑っていた。そして、夏の終わり、ユウタは、永遠の眠りについた。ミツルとムーに見守られ、静かに微笑んで旅立っていった。
「はぁ…。」
ミツルは、また、ため息をついた。ユウタのパソコンの画面に、ユウタの書いた小説が表示されている。あの雪の日、ドッグランのカフェで、ユウタがミツルに言っていた。「僕がいなくなってから、読んでね。恥ずかしいから。」と。ユウタは、小説を書き上げていたのだ。小説は、青年二人の友情物語だった。最後に主人公の青年は死んでしまうのだが、物語の中でこう言っている。
「僕の人生は、草一本生えていないアスファルトの平坦な道を、ずっと同じペースで歩いているようなものだった。けれど、彼に出会ってからの僕の人生の道は、変わった。緑の木々が連なり花が咲き誇り、曲がったり坂があったりする道になった。時に、全速力で走ったり、立ち止まっていなければならなかったりする事もある。きっと、自分一人だったら、通る事の無い道だったろう。でも、この道を彼と一緒に進んでいける。それが、何よりも嬉しくて誇らしいんだ。」
と。小説を読み終えたミツルの目と鼻は、真っ赤だ。ムーがその顔をそっとなめる。
「ありがとよ。」
ムーの頭を撫でながら、部屋を振りかえる。まっ白な部屋。初めてこの部屋に入った時、そう思った。見た目は今も変わらない。けれど、今は、目に見えないたくさんの色がついている。二人と一匹で塗った色だ。こんなに長くここに居られるなんて、思わなかった。それは、ユウタが俺を許してくれたから…。俺を守ろうとしてくれたから…。
ベッドから起きられなくなっても、ユウタは微笑んでいた。ミツルに水を飲ませてもらった後、ユウタは言った。
「幸せだなぁ…。」
ミツルは、
「そうか…。」
としか言えなかった。それがユウタの本心だとしても、ミツルには笑って返せる事ではなかった。ユウタは、そんなミツルの様子を見て、言った。
「死にたくないなぁ…。」
ミツルの顔を見つめて、
「死にたくないよ、僕…。」
と、一筋の涙を流した。
「ユウタ…。」
ミツルは、たまらずユウタを抱きしめた。ユウタが、ゆっくりと片手をミツルの背中に回す。
「ミツルが来る前は、僕、死ぬのに何の未練も無かったんだよ…。だけど、ミツルとムーが来てから…僕は、死ぬのが嫌になっちゃったんだ…。まだ…ミツル達と一緒にいたいよ…もっと、いろんな事、一緒にしたいよぉ…。」
ユウタが、初めて弱音を吐いた。体を震わせ、泣いている。
「ごめん…ごめんな、ユウタ…。俺が、お前ん家に行ったりしたから…。」
ミツルは、ただユウタを抱きしめるしかなかった。泣き続けるユウタを、ただ抱きしめていた。ひとしきり泣いたユウタは、ミツルから腕を離した。ミツルも、そっとユウタから離れる。そして、涙に濡れたユウタの顔を優しく拭いた。
「謝らないでよ…僕は、死にたくないって思える事が、うれしいんだから。」
「ユウタ…。」
「だって、死にたくないくらいの人生なんだよ?うれしいよね?」
「そうだな…ユウタの人生、最高だよな。」
ミツルは、何度もうなずいた。ユウタは、嬉しそうに微笑む。
「…ミツルは?」
「え?」
「ミツルの人生は?」
「俺の、人生?」
ユウタが、ミツルを見つめる。ミツルは、
「最高だよ。」
と、優しく答えた。
「これからも?」
「ん?」
「僕が、死んだ後も?」
ミツルは、無意識に顎を撫でた。それからすぐに、ニッと笑って、
「最高に決まってんだろが。」
と、親指を立てた。
「よかった…。」
ホッとしたように、ユウタは笑った。ミツルは、ユウタの手を両手で包み込んだ。
「安心しろ。俺はもう、何があっても、ちゃんとした人生送るから。約束する。」
「うん…。」
自分を見つめるミツルの目に、強い意志を感じとったユウタは、安堵の笑みを浮かべる。ミツルは、その笑顔に応え、微笑んだ。
ユウタが泣いたのは、それっきりで、後はずっと笑って過ごした。思えば、ユウタはいつも笑っていた。それが、今のミツルにとって、気休めになる。一人で暮らしていれば、そう笑う事も無かっただろう。ミツルとムーが押し掛けたことで、ユウタの人生は変わったのだ。たとえ、旅立つ時が辛くなったとしても、ユウタは後悔していなかったと思える。それにしても、この白い部屋は、色が付きすぎた。あちらこちらに、ユウタの色が染み込んでいる。ミツルの目に、また涙が溢れ出す。
「俺…もうここに住めねぇよ…。」
ムーを抱きしめ、しゃがみこむミツル。泣きじゃくるミツルの腕をすり抜け、ムーはテーブルの横にお座りをした。そこは、いつもユウタが座っていた場所だ。
「ムー…。」
ムーは、舌を出して息をしている。その顔は、笑っているように見える。ミツルは、微笑んだ。
「…だよな。」
四つん這いでムーに近づき、ムーのおでこに自分のおでこをくっつける。
「ユウタは、ここにいるんだよな。」
公園で遊ぶ子供達の声がする。書き物をするユウタと、雑誌を読むミツル、昼寝をするムーが、よく聞いていた声だ。休日の午後、ゆっくりと優しい時間が流れていたのを思い出す。
「ホント、だらしねぇな、俺…。」
ゴロンと床に寝転んで、目を閉じる。少し秋の混ざった風が、窓から入ってくる。教室で本を読むユウタの横顔が浮かぶ。閉じた目から、また涙が溢れてきた。
「あー…。」
ミツルは、腕で顔を覆う。
「ホンットだめだ、俺…。」
ムーが、ミツルの顔をペロリと舐め、その場でくるんと丸くなった。頬にあたるムーの体が温かい。小さな息づかいが、伝わってくる。また、風が流れてきた。ミツルは、そのまま、子供達の声を聞いていた。
「あ、オヤジ?例のセラピードッグの件なんだけど。…ああ、わかった。ああ、ムーも連れてくよ。…は?いいよ、鯛の刺身なんて。贅沢覚えさせたら、こっちが困るって…あー、わかった、わかった。あ、それから、あの人に、もうムーの服は買うなって、言っといてくれよ。…あ?…まぁ、わかるけど…なんだよ、しょうがねぇなぁ。…わかったよ、いいよ。…ああ、うん…じゃあ、今夜な。」
ミツルは、大きなため息をついて電話を切った。スマホを見つめ、フッと微笑む。そして、足元のムーに言った。
「また、鯛が食えるぞ。」
ムーが、目を輝かせ、しっぽを振る。
「そんでまた、ファッションショーだ。」
威勢よく動いていたしっぽが、だらんと垂れる。ミツルは、ハハッと笑って、ムーの頭をクシャッと撫でた。
「ミッちゃーん!」
隣の部屋から、社長が呼んだ。
「お客様ですってー!」
ミツルは、社長のいる部屋に入った。
「誰?」
「記者みたいよ。はい。」
社長が、受付からのメモをミツルに差し出した。ミツルは、眉を上げた。
「ユウタ君の小説の出版社の人?」
社長が、興味あり気に聞いてきた。ミツルは、首を振った。
「いや。ちょっとした知り合い。」
ムーを抱き上げ、ミツルはロビーへ向かった。
「お久しぶりです。」
羽鳥が、いた。今日はカメラは持っていない。大会の時のTシャツにサブリナパンツから一転、薄手のセーターにスキニーパンツ、トレンチコートというスタイルだ。
「久しぶり。」
ミツルは、軽く会釈をした。羽鳥の顔が一気に笑顔になった。
「あー!あの時のワンちゃん!」
ミツルに抱かれたムーを、懐かしそうに見つめる。
「いつも一緒なんですか?」
「まあね。」
ムーを足元に座らせ、ミツルは、ロビーのソファーに腰を降ろす。
「なんか…いいですね。相棒って感じで。」
羨望のまなざしで、ムーを見つめる。ミツルは、プッと吹き出して、
「座れば?」
と、向かいのソファーを指差した。
「あ、すみません。」
羽鳥は、いそいそと腰かける。
「実は、今日、伺ったのはですね…。」
大きなカバンから、封筒を取り出す羽鳥。
「写真を、持ってきたんです。」
「写真?」
「競技大会の時、撮らせていただいた写真と…。」
「あれ、わざわざ持ってきたの?」
「ええ、まぁ。」
そう言って封筒をテーブルに置くと、ミツルの方に押し出す。
「もっと早く来られればよかったんですけど、忙しかったもので。ミツルさんも、お忙しいみたいでしたし。」
「別に、持って来なくてよかったのによ…。」
「パリでのお仕事、大成功だったみたいで。」
「え?まぁな…。」
ミツルは、咳払いをして、封筒に手を伸ばした。写真を引っ張り出すと、例のプリンの時の写真が出てきた。自分で言うのもなんだが、海辺の町に犬連れで佇む姿が、恐ろしく様になっている。このまま、広告に使えそうなくらいのクオリティだ。
「素敵ですよねぇ。」
向かい側から羽鳥が覗き込んで、うっとりする。
「あんたの腕も、なかなかじゃん。」
顎を撫でながら、ミツルがボソッと言った。
「ありがとうございます。」
小首を傾げて、ニッコリ笑う羽鳥。ミツルは、鼻を鳴らして、二枚目の写真を見た。ミツルの動きが止まる。ユウタが、いた。大会の時のユウタだ。ムーに指示を出す競技中のユウタだ。写真は、もう一枚ある。ミツルは、慌ててめくる。三枚目の写真には、ゴールしたムーを抱きかかえるユウタがいた。どちらのユウタも、笑っている。ミツルがあの日、心に焼き付けた笑顔だ。
「すみません、勝手に撮っちゃって。あんまりいい顔してるから…。素敵なものって、放っておけない質でして。でも、それもいい写真じゃないですか?」
羽鳥が、覗き込む。
「うん…いい写真だな。」
ミツルは、そっと写真のユウタに触れた。
「こいつ…死んだんだ…。」
ミツルの言葉に、目を見開く羽鳥。
「…え?」
「ガンだったんだ…。この時は、もう…。」
「そんな…。」
羽鳥は、写真を見つめた。
「がんばったんだ、こいつ。」
ミツルは、写真に微笑みかける。
「こいつ、小説書いててさ。最後に書いた小説…出版するんだ。いい話なんだ。うん…いい作家になれたよな…。」
「そうなんですか…。」
羽鳥は、遠慮がちにミツルの顔を見た。ミツルは、愛おしそうに写真を見ている。羽鳥は、また写真に視線を落とす。まさか、この時、ガンだったなんて…。この時の二人の様子が、脳裏に浮かぶ…二人は、楽しそうに笑っていた…。羽鳥は、唇を噛んだ。
「フフッ。」
写真を見ていたミツルが、吹き出した。ハッとして、ミツルに視線を移す羽鳥。
「ホント、楽しそうだな、ユウタ。」
ミツルは、写真を見つめ、笑っていた。が、しばらくすると、
「はは…。」
と笑い声は弱くなり、両手で顔を覆ってしまった。そのまま、大きな体を前に折り曲げる。顔を覆った両手から、泣き声が漏れる。
「俺…いまだに泣いてばっかだよ…。」
人々の行き交うロビーの片隅で、羽鳥は、身動きもせずに、泣き伏すミツルを見ていた。やがて、ゆっくりと立ち上り、ミツルの丸まった背中に手を置いた。ミツルの顔に頬を近づける。そして、優しく、強く、囁いた。
「いいじゃない、それでも前に進んでるんだから。」
ミツルは、顔を覆ったままだ。羽鳥は微笑み、身を起こした。それと入れ換えに、ムーがミツルの膝に前足をかけ、ミツルの顔に鼻を近づける。羽鳥は、ニッコリ笑って、ムーの頭を撫でた。
「いい子ね。泣き虫パートナーを、励ましてあげてね。」
それから、ミツルの背中を見おろし、ニッと笑うと、その背中をパン!と叩いて、明るく言った。
「本が出版される時は、取材させてくださいね!」
羽鳥のパンプスの音が、遠ざかる。そして、ロビーの喧騒の中に消えていった。ミツルは、ゆっくりと顔を上げた。ムーが、嬉しそうにしっぽを振る。ミツルは、涙を拭いて笑ってみせた。
「おいで。」
ムーは、ミツルの膝にピョンと乗った。テーブルの上の写真に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。
「お前と、ユウタだぞ。」
ミツルは、そう言ってから、
「あ。」
と、気づいた。
「俺とユウタのツーショットって、ねぇんだな…。」
ミツルは、事務所のエントランスを見つめて、口を尖らす。
「あいつも、気がきかねぇ女だよなぁ。撮ってくれりゃあいいのによぉ…。」
あーあ、といって不機嫌そうな顔で、天を仰ぐ。が、すぐに笑顔になると、
「ま、いいか。ちゃんと、ここにあるもんな。」
と、自分のおでこをムーのおでこにくっつけた。ムーが、ミツルの鼻をペロッと舐めた。
「ヘヘッ。」
ミツルは、ムーに満面の笑みを向けた。そして、ムーを膝から降ろし、写真を大事そうに胸ポケットにしまった。
「これから、忙しいぜ。」
ムーに語りかけると、
「ワン!」
と、返事が返ってきた。ミツルは、満足そうに微笑むと、
「行くぞ、ムー。」
と、颯爽と歩き出した。彼がこれから歩く道は、色とりどりの花が咲き誇る美しい道だ。けれど、もしかしたら、途中で急カーブしたり、塞がれたりする事があるかもしれない。でも、彼は、最後まで歩き通せる自信があった。なぜなら、彼の行く道には、いつでも、どんな時でも、優しく暖かい光が降り注いでいて、その光が力をくれると知っているからだ。ミツルは、ユウタが書いた小説の最後のページを思い出し、微笑んだ。力強く決意に満ちた、優しい笑顔だった。
僕の大切な親友
一人のMと
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