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人生が明日終わる、と言われて素直にそれを受け入れる事ができる人なんているのか。恋人の事、家族の事、仕事の事、夢の事…。心残りがありすぎて、そんな簡単に死を受け入れるなんてできっこない。充実した人生を送っているせいで未練を残して死ななきゃいけない人と、生きていてもいい事なんてないから未練なんて感じずに死ねるという人と。どっちがましなんだろう。死ぬのが辛いのと、生きるのが辛いのとーー。
〈1〉
ユウタは部屋の窓を開けた。少し身を乗り出して、外の景色を見渡す。ユウタのほっそりとした白い横顔が、暗闇にぼんやり浮かび上がる。アパートの二階から眺める昔ながらの住宅街は、灯がポツポツと点在しているが、それもひとつ消えふたつ消え、やがて眠りにつこうとしている。もう春も終わったというのに、冷え込む夜が度々ある。アパートのすぐ前にある公園のブランコが、暗闇の中、風に吹かれて「キィ」といった。
「さむ…。」
カーディガンの前をあわせて細い体を包み、首をすくめて窓を閉める。窓ガラスに自分の顔が映る。ユウタはそれをジッと見つめた。白くて無表情ないつもの自分の顔が黒い空に浮かんでいた。今日も何事もなく終わった。昨日と変わりなく。毎日は、静かに過ぎてゆく。小さなため息をついて、ユウタはノロノロとキッチンへ向かった。キッチンは白で統一され、キレイに片付いている。対面式のシンクの上には、最近育て始めたハーブの小さなポットが三つ並んでいる。「植物を育てる」という行動は、ユウタの今までの暮らしには無縁の事だった。が、少し前に、仕事帰りに半額に値下げされた観葉植物をなんとなく買ってしまった。そして、なんとなく世話をしていたら、萎んで丸まりかけた葉がイキイキツヤツヤしはじめた。おかげで、植物は以外と育て易く、部屋にあると気持ちが和むという事に気づいた。それから、白一色のキッチンにも緑を置こうと思いつき、ハーブを置く事にしたのだ。ユウタはハーブに顔を近づけ、三つのハーブを順番に眺め、満足そうに微笑んだ。そして、冷蔵庫から牛乳を取り出し、マグカップに半分くらい注いだ。ホットミルクを作る為、マグカップを電子レンジに入れてボタンを押す。オレンジ色の光がパッと点く。ブーンという音が部屋に響く。ユウタは、身動きせずにレンジに向き合っている。マグカップから湯気がたち始めた時だった。急に玄関のチャイムが鳴った。予期せぬ音に、ビクッと背筋が伸びるユウタ。キッチンから玄関は見えないが、玄関の方を見つめる。
「誰だろ…。」
こんな時間に訪ねてくる人物は、ユウタには心当たりがなかった。レンジを止め、不安そうに口に手をやり、そろそろと玄関に向かう。そっと玄関に立つと、再びチャイムが鳴り、ユウタは再びビクッとなる。
「えー…誰…。」
か細い声で呟くと、音をたてないようにドアスコープを覗く。スッ、というユウタが息を吸い込む音。体を固まらせたまま、ドアスコープから後ずさる。
「何で…?」
驚きのあまり、さっきより大きな声で呟いてしまい、慌てて口を押さえた。またチャイムが鳴った。顔を歪め、ドアに背を向ける。
「何でだよぉ…。」
背中を丸め、唇を指でギュッとつまんだまま固まっていると、ついに相手はドアを叩き始めた。結構な力だ。夜もふけたアパートにノックの音が響く。慌てたユウタは、咄嗟にドアを開けてしまった。
「よぉ、元気か?」
一人の男が立っていた。知っている顔だ。でも、もう何年間も見ていない顔だ。
「久しぶりだなぁ、おい。」
男は、長身でガッシリとして、スタイルがいい。陽気にユウタの肩に手を置いてきた。この時点ですでに玄関に侵入される。
「今日、街でお前の事見かけてよ。」
緩いウェーブの灰色がかった金髪をモシャッとかき、
「懐かしーと思ってよ。」
と、人懐っこい笑顔を見せる。ユウタはただ黙って少し怯えた目で男を見ていた。
「なんだよぉ、どした?」
男は笑顔でユウタの肩を揺さぶった。その衝撃は、ユウタの体に、高校生だった頃の記憶を呼び起こした。
ーーーこの男、本田ミツルはユウタの高校時代の同級生だ。大病院の院長の息子で、学校の成績はパッとしなかったが、お洒落でイケメン、陽気な性格でクラスの中心人物だった。一方のユウタは、小説家志望の文学少年。いつも本を読んでいる目立たないタイプだった。ミツルは、そんなユウタに新学期早々目をつけ、グループのメンバーに、ユウタをイジメるようにけしかけた。しかし、二年生になりクラスが別々になると、イジメはパッタリと無くなった。新しいクラスに新しい標的を見つけたのか、単に飽きたのか、その後のユウタには平穏な高校生活が訪れた。けれど、ユウタにとってあの一年間は、本当に記憶から消したいと思うほどの日々だったのだ。
「おー、キレイにしてんなぁ。」
ちょっとの間、ユウタが過去の痛みを思い出している隙に、ミツルはぬけぬけと家に上がり込んでしまった。
「えっ⁉ちょっと!」
慌てて追いかけるユウタ。ミツルは、お構い無しに部屋に入っていく。
「おー、結構広いな。」
嬉しそうに部屋を見渡し、
「しっかし、キレイにしてんな。」
と、ユウタに意味ありげな笑顔を向ける。
「彼女に掃除してもらってんのかぁ?」
そう言って、ミツルはニヤニヤと顎を撫でた。
「ちっ、違うよ!」
思わずきっちり否定してしまうユウタ。
「なんだ、彼女いねぇの?」
その言い方がバカにしているように思えて、ユウタは、
「い、いいでしょ!関係ないじゃん!」
と、珍しく大きな声を出してしまった。そしてすぐに、そんな自分に驚いた。もう何年も過ぎているとはいえ、ミツルにこんな風に接する事ができるなんて。そしてなぜか、こんな事を考えた。あの頃、学校でもなく、グループの仲間もいない所で、二人きりになったとしたら、あの頃の自分はミツルに対してどんな風に接したんだろう。戸惑い顔で考え込むユウタを、ミツルが黙って見つめていた。ユウタは、ハッと我に帰り、
「……何?」
と、恐る恐る聞いた。
「なんか…変わんねぇな、お前。」
ミツルは、楽しそうに言った。更に、
「うん、変わってねぇよ。あの頃のまんまだー。」
と、ユウタを指差し、笑った。それがユウタには悔しくて、
「本田くんだって、変わってないよ。全然。」
と、言い返す。本当にそのふてぶてしさは、昔のままだ。ユウタは、ブスッとした表情で腕組みをした。ミツルは、まだ笑っている。その時、ミツルの肩にかけた大きなバッグが、モゴモゴと動いた。
「おっと、忘れてた。」
ミツルは、肩から床へバッグを置いた。
「え?何?」
ユウタは、カバンを見つめた。ミツルが、カバンのファスナーを開ける。全部開け終わらないうちに、白い毛玉がポン!と飛び出した。
「うわぁっ!」
飛び退くユウタ。カバンから飛び出したのは、真っ白でフワフワの子犬だった。ブルブルッと体を震わせ、グーンと伸びをすると、黒く輝くまん丸な瞳でユウタを見上げた。
「い、犬⁉」
子犬から一歩後ずさり、ユウタは身構えた。子犬は、フスン!と鼻を鳴らし、床をクンクン嗅ぎながら歩き始めた。
「え、ちょっとぉ…。」
子犬の動きを目で追いながら、頼りない声を出すユウタに、ミツルがニヤリと尋ねた。
「犬、キライなのかよ。」
「いや…嫌いじゃないけど…。」
チョロチョロ動きまわる小さな生き物には、慣れていない。
「こいつ、カノジョと飼ってたんだけどよ。」
ミツルは、クシャッと頭を掻いた。
「今朝、別れちまってよ。で、お前は俺の方が好きだから、一緒に来たんだよなー。」
似合わない甘い声を出して子犬に話しかけると、子犬が振り向いた。ちょっと首をかしげて、丸い瞳でミツルを見つめる。まるで、ぬいぐるみだ。文句なしにカワイイ。ユウタの戸惑いが、少し安らいだ。と、急に子犬が腰を低くした。そして、オシッコをし始めた。
「わあっ!ちょっと待って!」
ユウタはあたふたとティッシュの箱を手に取ると、子犬の元へ走り寄った。それに驚き、子犬がキャン!と鳴いた。
「あ、ごめんね。びっくりした?」
律儀に子犬に謝るユウタ。ミツルがブッと吹き出して言う。
「フローリングで、よかったな。」
「しつけなよ!」
床を拭きながら、ミツルに文句を言うユウタ。
「なんか、うまくいかねぇんだよなぁ。」
ミツルは、諦めたように首をすくめた。
「んもー。」
うんざりした様子で床を綺麗にすると、ユウタは手を洗いに行った。戻ってきたユウタに、ミツルが尋ねた。
「ここって、犬オッケーか?」
ユウタの足が止まる。何を聞いてくるんだ、この男は。
「…大丈夫…だけど…。」
どういうつもりだろう?犬を預かれとでも言うのか?嫌な予感に、ユウタの顔が曇る。しかし、ミツルは安心したように、
「へえー。」
と、顎をなでながら子犬に目を向けた。ユウタは、勇気を振り絞る。
「まさか、その犬、預かれ、とか…言うんじゃないよね?」
少しどぎまぎしながら、ミツルを見つめるユウタ。ミツルは、そんなユウタの視線を感じて、気まずそうにコホンと咳払いをした。
「あの、さぁ…。」
同時に、ミツルの腹が鳴った。ミツルは、思い出したように、
「あー…ハラ減ったな…。」
と、自分の腹を押さえた。それから、子犬の方を向いて、
「お前もハラ減ったろ。」
と、言った。
「夕ごはん、まだなの?」
ユウタが、驚いて尋ねた。ミツルは、肩をすくめた。
「今日は、まだ食ってねぇや。」
「え?何で?」
「だから、今朝カノジョに追い出されたからよ。」
ミツルは、頭を掻く。
「それから、泊まるトコ探してたんだけど…。」
犬だけじゃなくて、自分も泊まるつもりだったんだ。けれど、それより、朝から犬連れでさまよっていたという事に、ユウタは目を丸くした。
「え…朝から?」
ミツルは舌打ちして、うなずいた。
「あの女、俺の行きそうなトコ全部手ェ回して、俺の事泊めないようにしやがってよ。」
「…へ、へぇ…。」
ユウタは、呆れて何も言えずに、ミツルを見つめていた。すると、ゴトン!と音がした。なんと、子犬が観葉植物の鉢を倒していた。そして、派手に葉っぱを食いちぎり始めた。
「うわあッ!」
慌てて駆け寄り、子犬から鉢を取り上げる。子犬が、不満爆発で、キャンキャンとユウタを見上げて吠える。
「ダメだよ!これはダメ!」
頭上に鉢を掲げながら、必死で子犬に言い聞かせる。楽しそうに見ているミツルに、
「ちゃんと捕まえててよ!」
と、声を荒らげる。
「あ、悪い、悪い。」
大して悪いと思ってもいない様子で、ミツルは子犬を抱き上げた。
「やったな、こいつぅ。」
笑顔で、子犬の鼻をチョンチョンする。
「んもーッ、そういう時は、怒らないとッ。」
ユウタは、ふくれっ面で鉢を抱え、部屋をウロウロし、この部屋は危険だと判断して、廊下に鉢を出した。フゥ、と安堵の息を吐いてドアにもたれる。ミツルは、胡座の中に子犬を置いて、
「ドッグフード持って出んの、忘れたよなぁ。」
と、子犬の頭を撫でている。ユウタは、もう一度小さく息を吐き、言った。
「犬って、何食べるの?白いご飯ならあるんだけど。」
ミツルは、少し驚いたような顔で、ユウタを見た。そして、
「白飯に鰹節で、いいんじゃね?」
と、嬉しそうに答えた。
「それって、猫のご飯じゃないの?」
「犬だって食うだろ。」
「そうなの?」
「食うよ。」
「ふぅーん。」
ユウタは、キッチンへ向かった。炊飯器を開け、子犬のご飯を小さめの皿に取る。炊飯器の中に、ご飯はまだ残っている。ユウタは、ジッと見つめた。しばらく炊飯器の中のご飯を見つめていた。が、突然、思いきったように冷蔵庫へ向かうと、長ネギ、卵、魚肉ソーセージを取り出し、切り始めた。手際よくフライパンで炒め、ご飯を入れて、炒飯を作る。その様子を、ミツルはリビングで眺めていた。嬉しそうな、期待に満ちた表情をしている。あっという間に炒飯は出来上がった。
「冷蔵庫にあるもので作ったから、おいしいかどうかはわからないよ。」
そう言って、出来上がった炒飯を、テーブルに置く。
「おッ、サンキュー。」
ミツルは、いそいそとテーブルに近寄り、炒飯の皿を引き寄せた。
「おーッ、うまそーッ。」
スプーン山盛りに炒飯をすくって、口の中に押し込む。
「うんめぇー!」
目を輝かせて、ミツルはユウタに言った。
「めっちゃウマイぞ。」
「そんな、大袈裟に言わなくても…。」
なぜか、ユウタは照れ臭い気持ちになった。子犬が、ミツルの胡座の中から身を乗り出し、クンクン匂いを嗅いでいる。ユウタは、子犬用の皿を持ち、
「あげていい?」
と、ミツルに聞いた。
「おう。」
そう答えて、ミツルは炒飯を大きな口に放り込む。
「あーッ、うんめぇッ!」
「ちょっ…静かに食べてよ!」
「お前、料理うまいな。」
ミツルは、ユウタに満足そうな笑みを向け、炒飯をかき込む。そんなミツルを見ながら、久しぶりに人に料理を褒められたな…なんて事をユウタは考えていた。
「キャン!」
という子犬の催促に我に返り、
「あ、ごめんね。はい、どうぞ。」
と、子犬の前に皿を置いた。皿に顔を突っ込むように食いつく子犬。飼い主に負けないくらいの食べっぷりだ。
「お腹すいてたんだ…。」
ユウタは、子犬をみつめ、つぶやいた。ふと見れば、ミツルは早くも皿の中の炒飯をスプーンでかき集めはじめている。ユウタは、慌ててキッチンへ向かい、マグカップにわかめスープを作って、
「インスタントだけど。」
と、ミツルの前に置いた。
「おッ、サンキュー。」
ミツルは、炒飯をモグモグさせながら、マグカップに手をのばす。
「ん!うまい!お前、ホント料理うまいよ!」
「だから、それはインスタントだって。」
思わず、ユウタは笑ってしまった。ハッとして、子犬の方を向くと、
「な、名前…名前、なんていうの?」
と、ごまかした。
「ムーってんだ。」
ミツルは、マグカップから口を離し、わかめを口から垂らしながら答えた。
「ムーって…ポメラニアン?」
ムーの顔を覗き込みながら、ユウタが尋ねた。
「んにゃ。日本スピッツ。」
そう答えて、ミツルはわかめスープを一気に飲み干す。
「へえー。なんか、小さい時はポメラニアンぽいんだね。」
「な。で、俺のカノジョも、ポメのつもりで買ってきたんだよ。」
「え?」
「いや…俺も気づかなくてよ…。で、ポメじゃないってわかったら、いらないとか言い出しやがってよ。」
「うそ…ちょっと、ひどいね…。」
「だろ?とんでもねぇバカ女だよな。こーんなにカワイイのになぁー。」
ミツルは、甘い声で、ムーを持ち上げ、胡座の中に置いた。背中を丸め、大きな手で小さな白い頭を優しく撫でる。ムーは、気持ちよさそうに目を細めた。
「本田くんもムーも、お互いが好きなんだね。」
思わず、そんな言葉がユウタの口から漏れた。
「へッ?」
ミツルが、目を丸くして顔を上げた。
「なんか、いいなぁ。」
ユウタは、思ったとおりの事を言った。ミツルの顔が、少し赤くなった。
「なぁーに言ってんだよ!なあッ?」
嬉しそうに、ムーの頭をワシャワシャ撫でる。ムーはミツルに体を預け、すっかりリラックスしている。ユウタは、笑った。自分が笑った事に気付いていたが、もうごまかさなかった。そして、綺麗に空になった食器を持って立ち上がると、その笑顔のまま言った。
「本田くんとムーの寝る場所、ソファーでいいかな?」




