屋上と、二人の小さな空
残酷なのは――じゃなくて、この世界だって知っているから。
そう言って笑う君の笑顔が、痛くて痛くて、見ていられなかった。
君が笑うのはまるで反撃みたいだった。誰にも届かない小さな反撃。それが巡り巡って、ぼくをこんなに苦しくした。
そんなふうに笑わなくてもいいんだよ。じぶんを傷つけなくていいんだよ。完璧じゃなくていいんだよ。否定しないでいい。泣いていいんだよ。間違っているのは世界のほうだ。
君の笑顔は反撃のためにあるわけじゃない。
このうちのどれか一つでも言ってあげられていたら、何かが変わっていたんだろうか。
どうせよくあることだった。学校という社交界のなかではカーストができているのが当たり前で、そこからちょっと外れたり、一番下だったり、やらかしたりすれば簡単に陥る場所だった。もちろん、罪なんかぜんぜん無くても。言いがかりなんてすぐにつけられるし、大人もみんなそうしているんだから、子どもだって見よう見真似でできて当然の行為だった。黒板一杯の悪口も、待ち伏せされてカバンを放られるのも、そのためにたったひとりで水辺を浚ってばかにされるのも、挨拶の無視も当然。みんなやっているし、いつしか経験することもあるし、隣で見ていることになることでもあった。それだけありふれたことだった。
それなのに、突然自分の身に降りかかってくるとそれは本当に唐突すぎて何も考えられなくなるもので、存在は知っていたって回避できるものでもなくて、だから、当事者になってから悩み始めても何にもならないのだった。
「――、おはよう!」
いつものように声をかける君に、答える返事がなかった。――、どうしたの。そう続ける声だけ、無残に響いた。相手の誰かはふいに横を向いて、窓を眺めて、聞こえていないふりをした。不思議そうな君の表情だけが、朝の教室にそっと残っていた。
他に可笑しなものなんてひとつもなかった。何も変わらないいつもの朝のはずだった。逡巡するほどでもないことだ、と思いながら、何となく奇妙な空気が漂った。その日、昨日より口数の少ない友達を気にしながら過ごしていた君の悪口が、次の日の放課後には黒板一杯に書かれていた。凡俗な、はた迷惑な悪意のある言葉ばかりが並べられていた。隙間なく、よくもまあ律儀に時間をかけて書くよなあと傍から見ればばかみたいなレクリエーションの悪意だった。軽い気持ちだとか、流されてやっただけとか、いいわけは簡単なそれらが、君に向けて刃のように差し出されていた。君はそれを見詰めて、黙って黒板消しを手に取ってきれいに消してから、教室の隣の階段を屋上に向かって静かに歩き出した。たん、たん、と、上履きの軽い音が人気の減った放課後の学校内に響いた。孤独な空気を察したように、遠くで誰かが話す声はときどきするのに、君の横を通って行く人はいなかった。たった一人で階段を昇っていく足音が、夕方の薄暗くなったせかいに透き通るように通っていた。教室のある階からは少し距離があるのに、滞りなく機械的に足を運んでいく。数度斜めに落とした視線は何も見ていなかった。何かを耐えるように、昇りきればその琴線が切れるとでもいうように、ただずっと一心に歩いていくのだった。重そうなカバンの重力も測れない。自分すらもう何もない、糸で吊られた紙人形みたいな足取りだった。そして大きな鉄製の、解放された屋上に、しばらくして辿り着いたとき。
屋上の端の鉄柵ぎりぎりまでそのまま歩いて、すぐ前には空中がある場所まで着くと、どさりと音を立ててカバンがその手からすり落ちた。
一瞬後には膝から崩れ落ちるようにしゃがみ込んで、声を上げて泣く君の姿が横に並んだ。ああ、と、目元を手で覆ってくぐもった声をさせているところが見えた。ぼくはちょうど屋上の一番高くなっている、あの小さな梯子の付けられたところに居て、突然聞こえ出した泣き声に驚いて目を向けたところだった。最初は放っておこうと思ったのに、カバンに付けられたディズニーキャラクターの大きなストラップと、横に垂らしたおさげの髪に見覚えがあった。クラスメイトの女子だ。それでも、興味もない、と気にしないでいたけれど、嗚咽はいつまで経っても止まることがなかった。いくら気づかないふりを決めこんでも、向こうはたぶん誰もいないと思っているんだろうけれど、知り合いだと分かるとどうしても気になってしまう。特別仲がいいわけではなかった。本当にただのクラスメイトの女の子だった。ぼくはもともとそんなにクラスで騒いだり目立ったりするタイプではない。彼女もそうで、ぼくたちは提出課題の話なんかで数回話したことがあるくらいの関係だった。それぞれに連れ立つ人も違って、共通項なんてないと思う。そんなに話したことがないのだから、なくて当然だけど。
はあ、と広げていたスケッチブックを閉じて、風で開かないように上に荷物を置いてから恐る恐る、もう一度覗き見てみる。梯子のそばまで行って改めて眺めても、まだ泣き止まないので、腕時計を確認する。下校のチャイムまでまだ時間があった。そのまま泣き続けられると、こっちが気になって仕方がなくてノルマが終わらない。今描いているものは、簡単なラフだったけれど今日中に上げておきたかった。落ち着いて描くために屋上まで来たのに、これでは意味がない。すぐに帰るようなら放っておく気だった。でもたぶん、このぶんだとチャイムが鳴るまでは泣き続けそうだと思って、適当に声をかけて、悪いけど場所を変えてもらうことにする。
存在を知らしめるように足音だけを、梯子を降りるときにはっきりと鳴らして、同じ屋上の地面に降り立つ。びくっとしてこちらを振りかぶった顔には、やっぱりくっきりと真新しい涙の跡があった。
「さおりちゃん?」
「苹果ちゃん。なんで、ここに。やだ……」
慌ててハンカチを取り出して、さっきまで手で乱暴に拭っていた頬を伝う水滴を、きれいに拭いていく。目はもう赤く染まりかけていて、少し腫れていた。
「ぜったい、誰も見てないと思ってたのに。恥ずかしい」
本当に恥ずかしそうに俯くので、こっちも何だかすごく悪い気になって、フォローしようと早口になった。
「いや、わたしも部活で一人で居たから。たまに居るの。それに、たいがい気づかれないし。こっちこそ、見ちゃってごめんね」
「部活?」
「美術部だから、たまにここで描いてるんだ」
「ああ、そっか。知らなかった。邪魔しちゃったかな?」
話しながら落ち着いたのか、かすかに笑顔になったその子、さおりちゃんは、確か苗字を中川といった。うろ覚えの名前が正しかったことにほっとして、ちょっと気が緩んで、自分の表情も緩んだような気がした。
「なにかあったの?」
申し訳程度の、社交辞令の気さくさで訊いてみた。詳しい答えを待っているわけではないことは伝わったようで、ううん、何でも、と頭をふる。おもむろにカバンを手を伸ばし、じゃあ、とささやくように言う。
「私、帰るね。心配してくれてありがとう。だいじょうぶだから」
「ほんとに?
気をつけてね。また、明日」
「うん。また明日。
あっ、ねえ……」
あっさりと別れるところで、ふと思い付いたのか、ぱっと顔をまっすぐに向けられる。
「私も、描くんだ、絵。そんなに上手くないんだけど。今度、苹果ちゃんの絵、見せてくれる?」
少し意外な言葉だった。突然どぎまぎしてしまう。クラスメイトから、しかも、こんなに話したことのない子から、興味を持たれることなんて今までになかった。しかも、自分も描く、と言ってくれたことが、何だかすごく嬉しい気がした。
「えっ、あの、わたしので、良ければ。さおりちゃんのも、もし良かったら、見せてほしい、な……」
「見てくれるの?わあ、嬉しい!
ゆりも、香菜も、音楽の話はするけど、絵は興味がないみたいだから。そういう話もしてみたかったの」
急に明るくなって、普段一緒に居る友人たちの名前を口にする。なんだ、泣いてた割には大丈夫そうじゃん、と思った途端に、表情がふっと曇る。悪いことを思い出したかのように陰りのある顔になったのを、思わず覗き込んでしまうと、また外向けの明るい顔に戻って、じゃあね、と言ってドアまで早足で去っていく。
そこで考え込んでも仕方がないので、どうせまた話せるきっかけも出来たのだしと割り切って、気になりつつも元の梯子の上に戻ってスケッチブックをもう一度開く。屋上からしか見えない、学校の隣に流れる川と住宅街と空の映る景色が、おぼろげなままだった。早く描いてしまおうと思って、鉛筆を握る。座り込んでスケッチブック越しに見える広い空が、だんだんと薄暗くなってきていた。五月の後半の、まだ夏には早い微妙な青い夕方だった。もう春先の寒さもない。
今まで、まるで自分だけの特別な場所のように感じていたこの屋上が、そうじゃなくなったような気分だった。開かれたような、秘密の小部屋を覘かれたような気持だった。でも悪い気なんてしなかった。なんだかそれまで以上に、特別になった気がして、機嫌がよくなる。さっきまでだらだらと滑らせていた鉛筆の流れが流水のようにさらさらとした。画用紙の上を擦る黒色が滑らかな音を立てていた。
その次の日、いつもの通りチャイムぎりぎりの遅めの登校をすると、教室の前のドアを入ってすぐにある黒板に、さおりちゃんへの大きな悪口の跡が残っていた。消した後にこれだけはっきり残っているということは、かなり濃く、しかも色の付いた消しにくいチョークで書かれたようだった。何となく彼女の席のほうを見ると、いつもなら楽しそうに談笑しているのに、その日は一人で窓の外を見ていた。隣の席の女子、確か、鹿島ゆりという名前の子は、彼女に背を向けて違う友達と話していた。ああ、それで昨日泣いてたのかと察しつつ、意地の悪そうな目つきをする黒板の悪口の首謀者らしい隣のその子に詰め寄る勇気も、この空気の中でさおりちゃんに明るく挨拶ができる気概もないぼくは、やっぱりいつも通りに席について、いつもの友達と挨拶を交わして、いつものように眠たげにうつ伏した。
虐めなんて、よくあることじゃんね?
そう思いながら、席が近くなくて良かったと安心しているぼくがいた。
その日の放課後。
昨日話した屋上の隅のあの場所で、申し合わせたように揃って座った。ぼくが来るよりも前に、さおりちゃんはカバンを下ろして、手すりの向こうの空を見ていた。
「おは、よう」
後ろから声をかけると、もう、放課後じゃおはようじゃないでしょ、と笑われた。その笑い方が、何だかすごく痛々しくて笑われているのに不思議だった。自分も作った微笑みで返して、おもむろにスケッチブックを取り出す。昨日何とか仕上げたここから見た風景のラフが映っている。君もぼくのより半分ほど小さなノートを取り出して、開かないまま持っている。ぼくの絵を覗き込んで、わあ、と小さな声を上げた。
「さすが、美術部!上手いねえ……。すごく細かいし、丁寧だし。他のも見ていい?」
「そんなことないよ、先輩の方がすごいもん。わたしなんて、まだまだ」
見ていい、という問いかけに頷いて、抱えていたスケッチブックを渡す。地面に置かれそうになったさおりちゃんのノートを目で追って、
「じゃあ、わたしも。見てもいい?」
「えーっ、嫌、だって、こんなに上手いなんて思わなかったから。私のなんて、つまんないよ」
「いいから、見せてってば」
「んー。……笑わないでね」
うん、と返事をしてそれを渡してもらう。ぼくがぱらっ、と捲るのを気にしながら、スケッチブックのほうをじっと見つめて、なおも上手いねと繰り返してくれる。最初のページには何も描いていなくて、表紙から数枚挟んだところにピンクの桜の絵があった。色鉛筆で、桃色と赤と白と、それ以外にも色んな色を使って描きこまれている、満開の桜の絵。校庭にある桜の気だった。線が細かくて繊細なタッチと色遣いが、ほんとに上手い。笑うどころじゃなかった。自然と、見入ってしまう自分がいた。驚きはしたけれど、昨日ほどではなかった。こんなに描けるんだ、凄い、と素直に思った。綺麗な絵だった。
「どう?」
ぼくが黙ったままでいるのを見かねてか、不安そうに尋ねられる。上手い、と正直に言って、他のページも捲り出す。桜の他にも、タンポポや白詰草、チューリップ、菜の花の、花の絵ばかりが並んでいた。どれも最初の桜と同じか、それ以上に上手かった。技術というよりも表現や、やっぱり色の塗り方が綺麗で、好きで好きで描いているんだなあという気がした。ぼくの知らない花もいくつかあって、見かけたことはあるけれど名前も知らないものも同じように描かれていた。こうして一緒に、同じノートのなかに描かれていると、桜も、名前の知られていないような草木も、道端で踏み荒らされている花びらも何も変わらないような気がした。どれも平等に、ちゃんと綺麗に描いてあった。
視方なのかな、と考えた。さおりちゃんには、きっとどの花も絵の題材になるくらい、特別に見えているんだろう。
上手い、と言われて安心したように笑って、今度はぼくの絵について褒めちぎるので、照れつつ聞きながら遠慮がちにぼくも、塗り方がいいねとか、タッチがやわらかいとか、何とか言葉にしようとしてみた。もともと、そんなに感想を言ったり、良いと思ったことを言うのは得意じゃない。でも、伝わるように、と思って話すのを、頷いて聞いてもらえたのが嬉しかった。
「こんなに上手いなら美術部に入ればいいのに。ぜったい、コンテストでも入賞するよ」
「花しか描けないの、見たでしょ。
それに、選択科目は音楽だし、今さら入部しても」
「そうかなあ。楽しいよ?部員も、いつも一緒ってわけじゃないけど仲がいいし、 上下関係も緩いし、虐めとかもなくて……」
言ってからはっとして、横の君の顔を見た。凍りついたように固まったのが分かる。悪気はなかった。ただ、本当に、こんなに描ける子が、部員の少ない文化部に入ってくれたらいいと思っての言葉だった。慌ててそう言うと、気にしてないふりを装って、いいの、と言われる。数分間、ぼくが何も言えないでいると、独り言のような小ささで呟いた。
「気づいてた?」
そう指すものが分かったので、確認もしないで、君と揃って前の空中を見て返事をする。
「うん。ゆりちゃんたちでしょ」
「そっかあ。やっぱりね。分かるよね」
「先生に言ったの」
「ううん。たぶん、私が何かしちゃったんだと思うの。気づかないうちに。そのうちまた、すぐ、元に……」
先生に言った、という問いかけが凡俗すぎて馬鹿みたいに響いた。なんでこんなことしか言えないんだろう。なんで、もっと丁度いいことを言ってあげられないのかな。こんなとき、クラスメイトの友達には何て言ってあげたらいいんだろう。考えても知らなくて、答えは出なかった。ぼくは、朝にはあんなに席が遠くて良かったなんて思ったくせに、こうして隣に居るときは優しくしてあげたくなるのが本当に、虐めている彼女たちよりずっと狡いことのようで嫌だった。顔をそむけて、校舎内に入れる出入り口のドアを見つめた。
「すぐ、元に、戻ると思うから……」
そんな悲痛な声で言われても、何も言ってあげられない。
「それにね、残酷なのはゆりたちじゃなくて、」
やめて。これ以上は、そんな声を出さないで。
「この世界だって、知っているから」
おさげの髪が揺れた。こっちに首をもたげているのが分かる。誘われるように、君の表情を見る。
痛くなるような微笑の微笑みが浮かんでいた。どうして、そんなふうに笑うの。そんなに一生懸命に微笑みの仮面を被るの。何も言ってあげられないから?もっと、君の気持ちを楽にしてあげられるようなことを言えないから?伝えられないから?伝えるほどの、伝えて救えるような感情を、ぼくは持っているのかな。こんなにも無防備な、弱いところを見せてくれているというのに、やっぱりぼくには的確なことは言えなかった。黙ったまま、ただ、ぽろぽろと瞬きした目から水滴が、溢れるように流れた。
「苹果ちゃん!」
さおりちゃんが、びっくりしてハンカチを貸してくれた。その女の子らしいピンクのタオル地の四方形を見たとき、初めて自分が泣いていることに気づいた。
「あれ……。ごめん、あの、なんでもない。ごめんね。なんでだろ……」
泣くつもりなんてなかった。ただ、何だかどうしようもなく、不甲斐なくて、遣る瀬無くて、それなのに何も言えないことが悔しかった。知っていて、痛みだけがひしひしと伝わるのに、何も行動できないし、君を慮ることもできない。それが、さおりちゃんの反撃のような、さっきの笑顔ひとつで本当にぼくのなかを満たしてしまって、辛くて痛くて、堪らなかった。
「あの、ごめんね、借りちゃって……」
とめどなく流れてくる水滴をハンカチで拭いながら、それを借りたことに乗じて何度も何度も謝った。ごめんね、という言葉にだけ、何かを託して謝り続けた。こんなことじゃないんだ。言いたいことは、もっと、別にたくさんあって、でもそれらがどうしても喉の奥につかえて、嗚咽になって消えていく。ああ、言えない。ぼくが居るからだいじょうぶだよとか、ぼくだけは虐めたりしないとか、君は悪くないとか、色んなよくあるフレーズが、頭に浮かんでは違う気がして打ち消された。だばだば流れるのを、ひとのハンカチなのに遠慮なく使って拭き続けるぼくに、逆にさおりちゃんのほうが慌てて、
「ティッシュ、使う?落ち着いてね、泣かないで、だいじょうぶだから、目にゴミでも入ったの?平気?」
そう声をかけ続けてくれるのに首を振りつつ、鼻声で、だいじょうぶ、と呟く。息を整えて、大きく呼吸をする。
収まったようだった。
自分でも嵐のように泣いたことに驚いていた。あんなに泣くなんて思っていなかった。いくら何ても、恥ずかしくなる。
「ごめんね、ほんとに、ハンカチありがとう。洗って返 す」
「ううん。でも、急に泣き出すから、びっくりした……」
「わたしも……」
同意したら、また挨拶したときのように笑われる。くすっ、と音の立つような小さくはじけるような笑みが、さっきの微笑よりずっとさおりちゃんに似合っていた。
おこがましいけど、君が泣かないぶん、泣けたらいいな。
そう思ったことは、この放課後だけの秘密にしておく。ただの、クラスメイトの、偶然趣味が合うことを知っただけの、顔見知りの友達だけれど。この日、この状況で、この夕方に、この空の下で、ぼくが大泣きしたことと、昨日君が泣いていたことは、スケッチブックと君の小さなノートのなかに、幸福の四葉のクローバーのように挟んでしまっておけたらいいと思った。
ぼくが完全に落ち着いたのを見て取ると、さおりちゃんは携帯用の十二色の色鉛筆のケースを取り出して、
「私も、外で描いてみようと思って、持ってきたの」
と、ぼくとの間にそれを置いた。へえ、と、覗き込むようにノートを開くのを見ていると、ふと悩み顔になる。
「でも、屋上じゃ、花はないよね」
「うーん、そうだねえ……。あ、空とか、雲とかは、どう?」
「描いたことないからなあ……」
ぼくが指を差すのにつられて、日が落ちかけてきた、赤と青をグラデーションのように水で少しずつ薄めたような空を見やる。風が、南風のゆったりとした暖かさを抱えて吹いている。しばらく眺めていたかと思うと、嬉し気な声で言う。
「あの雲、イチヤクソウみたい!ほら、あれ!」
「どれ?植物なの、それ」
「うん!真上の、小さい雲が、鈴蘭みたいにくっついてるやつ」
あれにしよう、と無邪気に続けて、鼻歌でも歌い出しそうなほど楽し気に色鉛筆を取っていく。
さらさらと輪郭を迷いなく描いていくので、ほんとに凄いなと感心しつつ見入っていると、
「でも、せっかくだから空も描きたいね。今日の空は、何だかすごく綺麗だし。ここから見てる景色だから、この、屋上の手すりも、できたら入れたいなあ……」
かすかに呟く声だった。目が合う。
「ねえ、ここに、手すりのところ、描いてくれない?」
「えっ。いいけど、被っちゃうよ?せっかく輪郭描いたのに」
「いいの。花みたいな雲だけじゃ、真っ白で寂しいし。苹果ちゃんは上手いから」
「勿体無いなあ……」
「いいから、はい、ここ。お願いね」
真ん中にノートを両面に開いて、ぼくが屋上の鉄柵を鉛筆で、さおりちゃんが反対側から空の色を塗っていく。二つの鉛筆の音が、しゅっしゅっと小気味よく響いた。
誰かと一緒に絵を描くのは初めてで、しかもそれが上手くてとても楽しそうに描くひとだからか、すごく楽しかった。普段よりずっと丁寧に鉛筆を走らせながら前を盗み見ると、君も笑顔で描いていた。数分前より、明らかに晴れ晴れとした笑顔だった。良かった、とほっとする。何にもできなくて、あんなに無様に泣くことしかできなくて、励ますことも出来なかったけれど、気晴らしぐらいにはなれたかな、と密かに思った。
それから数日して、さおりちゃんへの虐めは見てはっきりと分かるほど露骨に終わった。本当に、言った通りにすぐに元にもどったようだった。少なくとも、相手の方は。さおりちゃんはどう思っているのか分からないが、前のように挨拶をされ、黒板に悪口を書かれることもなくなり、教室で前のように賑やかにお喋りをしている。そんなものだろうと思う。ぼくは巻き込まれない性質だけれど、歯車が気まぐれに壊れるように、適当に目星をつけられてしばらくしたらこんなふうに落ち着いて、元の通りになる。この世界は残酷だと、君が言っていたように。学校というせかいは残酷で、どうにもならないことがたくさんあって、ぼくなんかが、言うほど被害を受けていない、目立たないただの女子のぼくが言えることではないけれど、残酷なのはこの場所そのものだ。それでも、ぼくも君も、ここで毎日生きていかなくてはならない。どんなに辛くても、苦しくても、時には叫び声さえ上げられずに立ち上がり続けなくてはいけない。みんなきっと、こうして戦い続けて生きているんだろう。応戦すらできなかった、ぼくは、だけど、君が戦っていたこと、反撃をしていたこと、立ち向かっていたことは、ずっとずっと覚えている。それしかできないかもしれない。それ以外に何も君のためにしてあげられないかもしれない。それでも、ただ、ひとつ、それはぼくにしかできないことだと思うから。
教室で庇えなくてごめんね。
救いの言葉を云えなくて、ごめんね。
一緒に絵を描いてくれてありがとう。
悪夢の片鱗の思い出を、君の小さなノートに託して、今日もまた、いつものように屋上で写生をして過ごす。
もう、君がひとりぼっちでここまで泣きに来ないで済みますように。
これからも戦いの日々を生き抜いて、きっといつかまた、一緒に笑って絵を描こう。生きていこう。どんなに残酷な世界でも。またあんな邂逅があったなら、そのときには、言えなかった言葉の数々を、君に。
ふわっ、と、あの夕刻と似た暖かい風が吹いた。ふと上を見ると、見覚えのある鈴蘭のような花に見えなくもない、小さな雲の白色が、快晴の空に浮かんでいた。