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桜の記憶  作者: 流山晶
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浅草の靄

<<<現地暦平成二十七年三月>>>


 三月初め、厳しい冬が、のそりのそりと去り始めた東京の夜空を、都市の明るさに負けないほどの閃光が走った。その光に気がついた者は多くはなかったが、『ドン』という音とオフィス街を震わせた振動に、地震とは違う何かと気づいたサラリーマンは多かった。そして、たちまちにして、証言と動画がネットを駆け巡った。


「ねぇ、オレグ。千鳥ヶ淵に隕石が落ちたってニュースで言っているわ」

鳥山桜は、クッションを抱えながら言った。

「えっ、何だって?」

絞った台布巾を持って、オレグ・ブブカがキッチンから顔を出した。

「ほら」

桜はテレビを指さしながら、蜜柑をひと房、口に入れようとしていた。

「ああっ! 蜜柑を食べるなら食卓で食べてよ。クッションにシミが着いたらどうするんですか!」

「って、もうオレグ、そんな細かいこと気にしないでよ。とにかく、ニュースを見て」

桜の言葉に不満そうにしながらも、オレグもテレビのニュースを見つめた。


 ニュースによれば、千鳥ヶ淵に何かが落下したらしい。以前のロシアでの隕石落下を引き合いに出して、隕石のようなものが落下した可能性があると解説していた。

「隕石だなんて、珍しい。見てみたいな。あっ、でも水の中かしら。だとすると回収は大変かなあ。明日閑だし、見に行ってみようかしら」

 修士論文も終わり、投稿論文も掲載が決まり、桜はこれ以上ないというほど、弛緩していた。そして、蕎麦屋のバイトに精を出すオレグを放っておいて、千鳥ヶ淵に見に行った。もちろん、桜のような暇人を見ただけで終わった。

 この時の桜の危機感のなさは、その後の事を考えるとお灸ものであるが、世界中が似たようなものであったから、桜を非難することはできない。


 隕石らしきものが落下したのは千鳥ヶ淵だけでないことが判明していた。ワシントンのポトマック川、北京の昆明湖、スイスのトゥーン湖、キエフのドニエプル川である。ドニエプル川は、オレグが桜並木を作ろうと植樹した所である。

 あらゆる情報が一瞬で駆け巡る時代である。だからと言ってすべてが明らかになるわけではない。何が落ちたのかがわからなかったのだ。

 ある学者は、衝撃波の大きさから、握りこぶしほどの隕石と言い、ある識者は、大気圏に突入した軍事衛星の欠片だと言った。ネットでは、千鳥ヶ淵に上がる大きな水柱の動画や、水面上の大きな白い球が溶けていく様が、投稿されたかと思うと、水上を歩行する雪女らしき画像、水底から釣り上げた怪魚を自慢げに見せびらかす老人の証言、ボウフラが異常発生したと証言する学生の動画もあった。もっともネット上の画像などいくらでも合成できてしまう時代だから、そう言った騒ぎは一週間もすると消えていった。


 そして、疫病がはやり始めた。


 四十度近い高熱が出たかと思うと、翌日にそれが治まる。そして、数日すると再び高熱が出る。新型インフルエンザ、テロリストの撒いた菌だとか言われたが、症状がマラリアに似ていることや、初期の感染者は、千鳥ヶ淵あたりの住人が多く、蚊が大量に発生していたことから、その蚊が媒介している新種のマラリアではないかと言われた。マラリアならば特効薬がある。

 千鳥ヶ淵を立ち入り禁止にするという都の措置も、殺虫剤による蚊の駆除もほとんど、効果を出さぬままに、次々と公園が閉鎖されていった。 

 落ち着いて行動してください、室外になるべく出ないようにしてくださいという学者の解説も、防護服を着た医療従事者へのインタビューも、最初はテレビの中の他人事であったが、病の恐ろしさが判明するにつれて世間が騒がしくなった。


 致死率が高いのである。


 三度高熱を出した患者は助からないという情報がネットを駆け巡った。海外の反応は早かった。人から人へと感染することが判明するやいなや、各国の空港では、感染国からの旅行者を強制的に隔離した。

 だが、日本政府が国内の患者を隔離しようとした時には、すでに、患者数は万を超えており、打つ手はなかった。そもそも、東京の真ん中に感染地域があるのだから、打つ手など、最初からなかったと、ある政府関係者は自嘲気味に告白した。

 都市が機能しなくなりつつあった。官庁街から歩行者が消え、歓楽街から酔客が消えた。主要ターミナルは、間引き運転の電車がのろのろと走るだけである。運転手や駅の職員はどこからか手に入れた防護服を着ている。

 医療機関に薬を求める患者が殺到したのは、ほんの一時のことである。効く薬がないことと、医療従事者自身が感染したり、関東から脱出して、どこの病院も閑古鳥が鳴き始めた。

 食料品をあつかうスーパーやコンビニは、かろうじて営業していた。店員は防護服を着て、レジには大きなアクリルの仕切りがたてられた。感染しないためである。必死なのは店員だけではない、買い物客も必死である。防護服等持っていない一般人は、帽子、サングラス、マスク、雨合羽をまとった。

 関東から脱出できる者は脱出したが、それは、受け入れ先を確保できた幸運な者たちだけであった。


 鳥山桜も感染していた。

「少し、熱が下がったね」

オレグが桜の額を触ってから、絞ったタオルを載せた。

「これで二度終わったわ」

桜はマスクごしに弱々しく言った。

「二度?」

「ええ、今度、高熱が出たら、もうおしまいだわ」

「お終いだなんて……」

「オレグも知っているでしょう。三度目の高熱を乗り切って生きている患者はいないって…… ニュースでもネットでも言っていたわ」

「そんなの、どうせ、でまかせだよ」

「マラリア原虫に効く薬も、どの抗生物質も効かないと言っていたわ。そもそも原虫でも菌でもウィルスでもないんじゃないかって言われているし……」

「……」

「オレグ、ごめんね。私が感染したばかりに、貴方にもうつってしまったかもしれない。こんなことなら、このマンションに住もうなんて誘わなければよかった…… 日本に戻ってこなかったら、よかったかもしれない」

「そんなことはないさ、キエフにも同じ疫病が発生しているし、向こうに居たっていずれは感染したと思う」

「そうね、どうせみんな死ぬし」

「そうだよ。人間はいつか死ぬ。永遠に生きられる人はいない。早く死ぬか、遅く死ぬかの違いさ」

「まあ、そう言ってしまえばそうなんだけれど…… 」

桜はベッドから起き上がった。

「桜、まだ寝ていないと!」

オレグが桜を制止するが、

「オレグ、今しかないわ。次に熱を出したら、もうベッドから出られない。だから、どうしても出かけたいの」

桜は、そう言ってふらりと立ち上がった。

「出かけるったって…… 何処に?」

「桜橋のソメイヨシノを見たいの」

「ソメイヨシノ?」

「ねぇ、オレグは初めて会った時のことを覚えている?」

「ああ、もちろんさ。隅田川の観光船の上だ」

「そう。あの後、船を降りて、浅草寺を見てから隅田川に沿って歩いたの。あの時は、落ち込んでいてサクラを楽しむ余裕なんかなかった」

「何も今、見に行かなくたっていいじゃないか?」

「今しかないのよ、この二年間、私の頭から離れなかったソメイヨシノ…… オレグだって見たいでしょう。一生懸命キエフにサクラを植樹したぐらいだから、思い入れはあるでしょう。今見ておかないと、一生、見られないかもしれない」

「そうかもしれないけれど、桜はまだ熱が下がっていないし……」

「平気よ」

「それに、まだサクラは咲いていないんじゃないかな。ソメイヨシノの開花は三月末にならないと……」

「そんなことないわ。今年は異常に早いらしいわ。千鳥ヶ淵のソメイヨシノはもう咲き始めているって言うし、隅田川のソメイヨシノも咲いていると思うの」

「そんな、馬鹿な!」

「馬鹿じゃないわ。だって、ネットには写真が投稿されているわ」

「とにかく体調がよくなってからだ」

「だめ、ソメイヨシノが咲いているのが見られれば元気が出る気がする。一輪でも咲いていればいいの」

「……」

オレグは黙って桜を見つめた。そして、溜息をついた。

「わかった、行こう。ソメイヨシノを探しに行こう」


 赤く大きな夕陽がビルの間から顔を見せている。かろうじて動いていた地下鉄を使い、二人は浅草にやってきた。吾妻橋を対岸へと渡る。

 橋を渡る車は意外に多い。皆、感染を恐れて車で移動しているのだ。都心で始まった疫病は、主要鉄道に沿って郊外へと広がっている。東京から脱出しようという車、東京へ親族を迎えに来た車、どうしても東京へ来なければならない業務用車。ネット社会とは言いつつ、大量高速物流に依存した社会は、疫病という切掛けで崩壊し始めていた。

「まだまだ寒いから、咲いていないんじゃないかと思うけれど」

オレグは桜の肩に手をやり、ほんの少し引き寄せた。

「きっと、咲いているわ」

「どうして?」

「私が桜だから。最期はサクラで終わるはずよ」

「……」


 隅田川を桜橋の方へ歩いていく。

 街灯がぽっと灯る。

 サクラ並木がある。

 ピンク色に色づいた蕾もある。

 川岸の歩道に張り出した枝を眺めながら黙って歩く。

 ライトアップされた桜橋が見えて来る。

 人っ子一人いないX型の橋だ。いるのは小鳥ぐらいである。

「あっ! あそこ」

桜が声を上げる。

「どこ?」

「ほら、あの蕾の向こう!」

桜は、一輪だけ咲いていた花を指差した。

「あっ、本当だ…… 手は届きそうもないな」

残念そうな顔を見せるオレグと、満面の笑みを見せている桜。

「これで、思い残すことはないわ。この二年間一生懸命研究したサクラを見られたのだから」

「いや、だめだ。僕はまだまだ未練がある」

「未練?」

「ああ。ウクライナの内戦は終わっていない」

「でも皆、人類が皆死んでしまえば、関係ないじゃない」

「そうかもしない。でも、僕は…… 満開のサクラの下でウクライナ人が仲良く花見をしてほしかった」

「……」

「それに、桜と一緒になりたかった」

「一緒?」

「結婚してくれ。今、今すぐここで」

「そんな、無駄よ」

「それでもいい」

「私でいいの? 私みたいなどんくさい女でいいの?」

「君だからいいんだ。君じゃなきゃダメなんだ」

「ありがとう。嬉しいわ」

そっと呟きながらも、桜はオレグを真っ直ぐ見つめた。その瞳は潤んでいる。

「そうだ。プロポーズの印に花を送ろう」

オレグはそう言うと、一輪だけ咲いた桜を見つめた。手は届かない。

「ちょっとぐらいなら……」

そう言って、オレグは枝をゆすり始めた。徐々に大きくゆすった。しまいには、

「それ、これでどうだ!」

と、激しくゆすった。

「ちょっと、そんなに激しくしたら…… もういいから!」

桜が悲鳴を上げた時には、ぽとぽとと蕾がおち、ひらひらと花びらが舞っていた。

「よし、よし」

オレグはそうして、歩道に落ちた花びらを拾い始めた。いつの間にか無数の花びらが二人の周りに落ちていた。まるで、薄桃色の絨毯を敷き詰めたようになっていた。

「あれ、咲いていたのは一輪だけだと思ったのだけれど……」

オレグが不思議そうに首をひねりながらも花びらを拾い集めた。

「なあ、桜、変だと思わないか?」

オレグが顔を上げると、桜が目を見開いて上を見ていた。

「あれ、見て!」

桜の指さす方を見上げると、ついさっきまで蕾だったサクラが七分咲きになっていた。

「「咲いている!」」

 深まりつつある闇に薄桃色のサクラが映える。辺りのオフィス街は不気味なほど暗い。不夜城の代わりに、桜色の灯りがともる。

「不思議だ…… さっきまでほとんど咲いていなかったのに」

オレグはそう言いながら集めた花びらを桜の手に載せた。

「あら、甘い香りがする」

「あれっ? 本当だ」

オレグが手の臭いを嗅いでいる。

「ソメイヨシノはほとんど香りがしないはずだけれど……」

「でも、これは絶対ソメイヨシノだよ。幹も花も、ソメイヨシノ以外にはありえない…… 少し花の色が濃いかもしれないけれど」

「そうね…… そう言えば、異常な遺伝子は花と蜜に関連しているのだったわ。色が違うのも蜜標の遺伝子が関連しているのかもしれない。今まで発現しなかった遺伝子が発現したのかしら……」

「発現の条件はなんだったっけ? 論文にも書いたんじゃなかったっけ?」

「何かの異物だと思うけれど、詳しいことはわからなかったわ」

「例えば、蚊とか?」

オレグが掌を見ながら言った。

「蚊?」

「ほら、蚊の死骸だ」

「ほんと、まだ、春先なのに、蚊なんて珍しいわ。って、オレグ! その蚊!」

「蚊だけど」

「疫病を媒介する蚊と同じ! 千鳥ヶ淵で私が刺された蚊と同じ! オレグ、刺された?

血を吸われた?」

「いや。刺されてはいない。蜜を吸っていたとか」

「蚊が蜜なんて」

「蚊は蜜を吸うよ」

「ええっ、本当?」

「ああ、本当さ」


 桜は目をこすった。

「あれ? 眼がおかしい?」

「どうした、眼に蚊が入ったとか?」

「違う、あれ、あそこに何か見えない」

桜が指さしたのは桜橋である。

「単なる橋…… いや、何か…… もや?」

今度は、オレグが目をこすった。

「靄の塊がこっちへ来るぞ!」

直径五メートルはありそうな靄が二人に押し寄せ、包み込んだ。


<<<現地暦享保十二年長月、西暦1727年10月)>>>


「靄が濃くなっている。さくら、気をつけろ!」

「わかっている」

新吉と桜は小舟に乗っていた。増水した大川(隅田川)を何とか渡り、決壊した墨田堤を超えて深川にやってきた。

 前々日に大雨が上流に降り、深川の辺りが水浸しになっていた。二人は前日に富岡八幡の勧進相撲を見に行った千代たちを探しに来たのだ。どこかでおとなしく避難しているはずであるが、何処かはわからない。


 新吉達が千代たちを探しているのは、千代の父である丹羽五郎に頼まれたからである。もちろん、丹羽五郎が心配しているのは、千代ではなく腹違いの嫡男の幼子である。

「眼も見えんくせに相撲などに連れ出しおって」

と千代を罵倒していたのを、新吉は難しい顔をしながらも黙って聞いていた。

 それでも、新吉は小舟を出した。水浸しになった街を行くには小舟は誠に便利である。だが、流木や、隠れた材木に当たれば、簡単に引っくり返る可能性もあるから油断はできない。

 新吉達がようやく千代を探し当てたのは、富岡八幡から少し離れた永大寺である。成田不動を開帳して有名になった寺である。千代は、境内の不動堂の縁側にちょこんと座っていた。ところが、丹羽の嫡男や、千代の身の回りの世話をしていた下女はおらず、千代だけだった。

「どうして、お千代さんだけが残されているんでぇ」

舟の上から声をかける新吉の疑問に疲れ切ったお千代はかすかに笑って答えた。

「大事な弟は丹羽の若衆が連れて帰りました」

「それじゃ、なんでぇ、お千代は残っているんだ」

「舟が一杯で乗れないと」

「そんな馬鹿な……」

丹羽家にとって千代はどうでもいいのだ。新吉は怒りを抑えながら続けた

「あ、安心しろ、俺達がお千代を助けに来た」

そう言って、新吉は

『どぼん』

と舟から飛び降り、腰下まで水に浸かりながら、千代の方へ行き、手を取った。そして、

「じっとしてろ」

千代を横抱きにした。ざばざばと水をかき分けて小舟に戻り、千代を舟にそっと下した。

「お千代さん! さくらです」

さくらは声をかけ、千代の手を握った。

「ああ、さくらさんかい。もう安心だね」

「ええ、もう大丈夫です」

「ほんとに、眼が見ないと心細くってねぇ」

そう言って千代は笑った。

「……」

さくらは千代に返す言葉がなかった。千代が心細いのは、心配してくれる人がいないからである。


「千代、しっかりつかまっていろよ。これから大川を超えるから」

水かさがまし、泥水となった濁流がかなりの速度で流れている。茶色の木の葉や芝が浮き、時折、横倒しの木や枝が流れていく。気を抜けば、流れに流されて江戸湾に放り出されるだろう。

 と、その時、上流から大木が流れてきた。生えていた地面ごと流されたのか、根っこも枝葉も突いたままで、泥にまみれた木一本丸ごとである。舳先へさきに立つさくらが竹竿を突き出し、ともに立つ新吉が櫂を突き出し、なんとか小舟にあたるのを回避しようとする。だが、勢いのついた大木は簡単には止められない。大木は新吉の持つ櫂に当たり、

「わっと!」

新吉はそのまま舟の外へ押し出され

『ザバン』

川に落ちた。

「「新吉さん!」」

その様子を見ていたさくらと、聞いていた千代が叫ぶ。

「うぉっぷ!」

新吉がかろうじて水面から顔を出している。

「じっとしていて!」

さくらは声をかけた。新吉は泳げないのだ。

 さくらの行動は素早かった。小舟に置いてあった植木用縄束をとり、舳先に一巻きすると、それを持って飛び込んだ。

『ドボン』

「新吉さん、じっとして!」

「うっぷ、わ、わかった」

泥水を飲んだ新吉が答える。

 舟も、新吉も、さくらも皆流されている中で、次第に舟から遠ざかる新吉にさくらが追い付く。

「新吉さん、これを持って! そして引っ張って」

さくらが縄の一端を新吉に渡し、手首に一巻きさせる。そうして、さくらは少しずつ縄をたぐりよせていく。

「新吉さん、大丈夫? さくらさん頑張って!」

 千代が新吉達に声をかける。やかましい水音の中でも何が起きたのかを、音だけで理解しているのだ。

「べらんめぇ! こちとら江戸っ子よ、このぐれぇっ …… ぷはぁっ!」

「喋らなくていい!」

新吉の強がりはさくらに抑え込まれる。

 ようやく、舟べりに手を掛けた新吉は、安堵して

「ひぃー、助かったーっ!」

と言った。

「まだ油断しないで! ほら、さっさと上がってください」

新吉は渾身の力で舟にあがろうとし、それを助けようとさくらが押し上げる。

 新吉の体が舟に上がった所で、

「ふーっ」

と新吉が一息をつき、今度はさくらを引っ張り上げようと手を伸ばす。

 油断していたのはさくらの方かもしれなかった。腕二本分ほどの太さの流木がすべるように流れていき、そのまま、さくらの頭にぶつかった。一瞬のことである。

『ゴン』

という鈍い音を新吉も千代も聞いた。新吉は、目を見開き、左耳から血を流したさくらが流されていくのを、呆然と見ていた。

「さくら!」

新吉が叫び

「どうなすったの?」

千代がただならぬ事態を察知する。

「さくら!」

そして、さくらは泥水に沈み、川面は何事もなかったかのように元に戻った。茶色の木の葉や芝が浮き、時折、横倒しの木々が流れていく。

「さくらーっ!」

新吉の声は、水音に溶け込んでいき、応える者はいなかった。



 大水から三月ほど経ったある冬の日。さくらの行方は杳として知れず、新吉は切妻屋根の物置小屋に寄りかかって、ぼんやりと青空に浮かんだ絹雲を見ていた。

「さくら? お千代を娶ってもお前は許してくれるか? あいつはなあ、丹羽家からも見放されているんだ。お千代の目となり手となった下女も、最近では、嫡男の世話にかかりっきりで、あいつの面倒を見てくれる者はいねぇ」

新吉はひとり言を言って、大きく溜息をついた。

「霧島本家なら、ウメばあもいるし…… いざとなりゃ、俺が何とかするつもりだが……

さくらと千代のどっちかを正妻にどっちかを妾にと考えていたのが、罰あたりだったかねぇ…… どっちにしろ、いつまでも待たせるわけにはいかねぇ。この種もだ」

そう言って、新吉は懐から折り畳んだ手習い紙を取り出した。

「たった三粒か」

紙を広げるとそこには三粒の種があった。大水の後に物置小屋を掃除していて文箱から見つけたのだ。桜の新種という添え書きがあった。

 さくらが残したものはもう一つあったが、それは千代へのものだったから、新吉に残したものはその三粒の種だけである。

「とりあえず、うちの苗床に植えて……」

思案する新吉を

「新吉さん!」

若い女性が呼んだ。

 びくっと肩を震わせて振り向いた新吉は

「なんでぇ、お千代か」

とがっかりした様子で肩を落とす。

 新吉の方に駆け寄ってきたのは、期待していたさくらではなく、千代であった。だが、新吉はすぐにおかしいことに気がついた。

「えっ! て、ていへんだ! お千代が走ってるぞ!」

新吉は目をまるくして叫んだ。

 新吉の所へやってきたお千代は荒い息を吐きながら、新吉を見上げた。

「すごいでしょう? 目が見えるようになったのよ!」

顔を紅潮させてそういうお千代は満面の笑みを浮かべている。

「あの薬が効いたのか?」

お千代は頷いた。

「さくらが残したあの薬が効いたのか?」

思わず、新吉はお千代の顎に手を添え、お千代の両目を覗きこんだ。

「新吉さん、恥ずかしいですわ」

新吉を見つめ、すぐに目を伏せるお千代は、まるで少女のように恥ずかしがっている。

「んっ! ああ悪い、悪い。それにしても良かったなあ」

新吉はあわてて手を離した。

「それより、新吉さん、種が落ちますよ。さくらさんの残した大事な種でしょう?」

「ああ、そうだった」

新吉はそう言って、また溜息をついた。

「忘れられませんよね」

「……」

新吉は千代の問に答えずに青空を見上げた。

 千代は新吉と同じように小屋によりかかって空を見上げた。

「お願いがあります」

「……」

「その種を育てるのを手伝わせていただけませんか?」

「種を育てる?」

「これでも、私は植木屋の娘です。さくらさんの足元にも及びませんが、さくらさんの残した種を育てたいのです」

「……」

「さくらさんが帰ってきた時に、この種から育った桜の花で迎えたいの」

新吉が振り向くと、お千代は真っ直ぐな瞳を向けていた。ついこの間までは、焦点の定まらぬ瞳だったはずであるが、それが今は困惑した新吉の顔を映している。



 新吉と千代は、何年もかけて桜を殖やしていった。実生から育った苗はたった一本であったが、その一本は大島桜のように生育が早く、小松乙女のように可憐な花を咲かせた。何よりも花がはらりはらりと散る様は、栄枯盛衰を体現していると評判であった。あまりに見事であったため、新吉達は何本もの若枝を切って接ぎ木した。そしてそれらを染井村だけでなく、小石川養生所、飛鳥山、隅田堤へも植えた。

 この桜は実ができないのであるが、それがわかったのはだいぶ経ってからのことである。ただ、それができなくとも接ぎ木で殖やしていけばよい。その手間は面倒であるが、実生と違って、接ぎ木は元の木と同じ形質を引き継ぐので、園芸品種としては悪いことではない。こうして、新吉達の伊藤家分家は新たな桜を作りだした植木屋として知られていくことになる。



 夫婦そろって髪の白くなった新吉と千代は、満開の枝を見上げていた。

「ここの桜は見事ですね」

千代が小声で言った。まるで、大声を出すと桜が驚くとでも思っているような小声である。

がある。

「ああ、二十年でここまで立派な木になって…… 養生所の先生も驚いていたなあ」

新吉もやはり小声で答える。その声には若いころの張りはないが、渋みがあり、千代が聞き落す事はない。

「ここへ通う患者さんにも、この桜に癒されるって評判ですよ」

「確かに、癒される気がする」

「さくらさんもこの桜を見ているかしら……」

「あいつが残していった桜だ。どこかで見ているに違いねぇ」

一陣の風が二人を囲み、花びらが一斉に舞い始める。あたり一面が薄桃色になり、花の香り立ち込める。

「新吉さん!」

びっくりした千代が新吉の袖をつかんだ。

「大丈夫、ちょっとした風のいたずらだ」

新吉はしわの増えて来た千代の手をにぎった。


<<<現地暦平成二十七年三月>>>


「靄じゃない! 蚊の大群よ!」

「口を閉じて、伏せるんだ!」

二人の頭上を通りすぎた一群は、あっという間に霧散した。

「あれっ! どこへ行ったのかしら?」

桜は辺りを見回した。

「花だよ。花の蜜を吸っている」

桜は手近な花を覗きこむとオレグの言う通りであった。

「んっ!」

蜜を吸っていた蚊が飛び出し、桜は思わず目をつぶった。

「桜、隣! 隣の木を見て!」

オレグの指の先にあったサクラの花がみるみるうちに咲き始めた。誰かが薄桃の水彩絵具で塗っているかのように下から上へと花が開いていく。

「早回し動画を見ているみたい」

「蚊もそっちの方に移ったぞ! まるで蚊を誘いこんでいるみたいだな。それともよほど甘い蜜なのかな。少し舐めてみようか?」

「……」

隣の木を見ていた桜は、硬直したかのように立ち止まり、そして、ゆっくりオレグの方を振り向いた。

「今、何って言った? もう一回言って!」

「何って?」

桜の剣幕にオレグは一瞬ひるんだ。

「もう一回言って!」

「えーと、甘い蜜を舐める?」

「違う! その前! その前に何か言ったわ!」

突然、眉を吊り上げて激しく迫る桜に気押されながらも、桜が真剣なことはわかった。

「ちょっと待って。確か…… 蚊がそっちの木に移って、サクラが蚊を誘い込んでいるみたいだって言った…… と思う」

「そう、誘い込んだ! それ、それよ!」

「それがどうかしたの?」

「ぴんと来たのよ」

「どうして?」

「んっ? どうしてかしら」

桜は、さっきの勢いはどこへいったのか、口をへの字にして考え込んだ。

「どうして、ピンと来たのか…… 何か引っかかったのよ…… 誘い込むと言う所が……」

悶々としている桜の後ろで、次々とサクラが開花し始めた。

 隅田川に沿って植えられたサクラ並木のサクラ一本一本が、スポットライトを浴びたかのように薄桃色に変わっていく。誰かがスイッチを押して歩いているかのように一本、一本が順に点灯していく。

 オレグは幻影を見せられているような気がした。桜に声をかけたいと言う衝動が湧き上がったが、目の前の桜は聞く耳を持たない。


「わかった。遺伝子の発現よ!」

「遺伝子? 発言? 遺伝子が喋るの?」

「違う! オレグは黙っていて」

「……」

「ソメイヨシノの遺伝子を調べていたのは知っているでしょう」

「……」

オレグは無言で頷いた。

「何かのきっかけで遺伝子のスイッチが入り、一連の遺伝子が発現する。DNAからRNAが合成され、たんぱく質群が作られる。それらは開花と蜜標に関係するものよ。そして、それらは、人工的に挿入された遺伝子群のように見えた。両親であるはずのオオシマザクラにもコマツオトメにもない遺伝子。一番変だと思ったのは、ある種の抗生物質様物質の合成。他の部分の遺伝子は使われていなかったDNAの活性化や自家不和合性に関するものだったわ。だけどそこの部分だけは、全く新奇な物質合成だった」

「ちょっと待ってくれ? もう少しわかりやすく、というか、最初と最後の結果だけ説明してくれないか?」

「オレグ、あなたって研究者に向かないわね」

「だから、ヒマワリの種を扱っているのさ…… 今は蕎麦屋の店員だけれど」

「いいわ、最初は…… 多分、蚊の唾液かなにか? 特殊な蚊、先日、千鳥ヶ淵に宇宙からやってきた蚊の唾液だと思う」

「いきなり、そこまで飛躍しますか」

「あら、飛躍じゃないわ。ちゃんと推論を重ねた結果だけれど、詳しく聞きたい?」

「いえ、遠慮しておきます」

「とにかく、その唾液か何かがきっかけで、埋め込まれた遺伝子群が発現する。ある遺伝子は、開花や蜜製造の遺伝子を活性領域に組み換え、ある遺伝子は新奇抗生物質を作り出す」

「まさか、それじゃ、このサクラが桜のかかった疫病の特効薬になるってこと?」

「かもしれない」

「とすると」

「とりあえず、食べてみましょう」

「なるほど…… じゃ、桜さんどうぞ」

「オレグ、あなたも食べるのよ」

「僕は、まだ発病していませんし……」

桜は花を一つつまんで、

「いいから食べなさい」

と言って、オレグの口に放り込んだ。



 世界五か所から始まった疫病は大きな被害を出さずに終息した。ソメイヨシノの蜜が鍵だった。発病した者にはその蜜が特効薬となった。蜜の中にある種の抗生物質が含まれていたのだ。疫病の宿主の蚊、眠り蚊の一種は、その蜜で無害化された。

 ソメイヨシノは自家不和合性のために種ができなかったのも幸いした。種ができないために、植木屋が接ぎ木でソメイヨシノを増やした。そのため、すべてのソメイヨシノはクローンであり、まったく同じDNA、まったく同じ形質をもつ。抗生物質の合成工場としては理想的であった。

 これらのソメイヨシノの働きを見つけ、疫病から人類を救った最大の功労者は一介の大学院生だった。取材陣に感想を聞かれた彼女はこう答えた。

「最大の功労者はソメイヨシノを植え育てた沢山の人々だと思います」


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