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桜の記憶  作者: 流山晶
7/9

駒込の霧

<<<現地暦平成二十六年十二月>>>


オレグから日本語のメールが入る。

「鳥山桜様

 元気?

 それにしても、あの厳しい教授が、論文を書いてみろだなんて

 本当?

 英語がわからなかったら、夏子に頼るといい。


 こっちはもうすっかり寒くなったよ。

 キエフの紅葉は終わった。

 京都の紅葉もいいけれど、紅葉自体はこっちの方が上だ。

 ちなみに、キエフは京都と同じくらい古い都市だ。


 桜と一緒だとよかった。

 Oleg

 P.S. I miss you.」



 桜は、教授と激論を交わしたが、結局、事実は事実だからと、論文として発表するように勧められた。そして、ソメイヨシノに含まれていた異常な遺伝子がどんな機能を持つのかを調べるよう言われた。

 膨大な遺伝子データベースを検索し、機能を推定する。発現すればどんな機能を発揮するのかがわかっているものもあれば、わからないものもある。断片的な情報をパズルのように組み合わせて、桜は根気よく調べていった。

 雲をつかむような探索も、花という糸口を見つけてからは、早かった。それでも、わかることは曖昧である。異常な遺伝子は、開花と花の蜜に関わる遺伝子の制御をしているように見えた。遺伝子があるからといって、それが必ずしも発現するとは限らない。発現させるためには、複雑に絡み合ったDNAを紐解き、露出させてRNAに転写できるようにしなければならない。どのようなDNAを活性化させるのか、あるいは活性化させないのか、活性化の条件が何であるかが大事である。DNAさえわかれば全てが分かるというのは楽観的な妄想である。それでも、DNAの並び三つが一つのたんぱく質に対応するから、その並びからどのような物質が合成されうるかは予想できる。もちろん、DNAが素直にたんぱく質に翻訳されるわけではなく、種々の切り貼りや移動を伴うから単純ではない。

 桜は根気よく研究を進めた。そうしているうちに、研究が面白くなってきた。


 研究、議論、学会、論文、そしてまた研究、議論、修士論文執筆と、息つく暇もなく過ごした桜には、クリスマスもなかった。それはそれで、桜は気にしなかった。どうせオレグのいないクリスマスなど、あってもなくても関係なかった。

 そうやって迎えた大晦日の日に、オレグ・ブブカから電話がかかってきた。


「桜さん、成田に着いた」

「ええっ、成田! 日本に帰ってきたの?」

「まあ、そういうこと」

「よかった!」

桜の、花の咲くような明るい声に対し、

「うん、まあ、そうかもしれない」

オレグの声は沈みがちだ。

「何かあったの? 怪我?」

「いや、身体の方は五体満足だ」

「じゃ、良いじゃない」

「まあね。それで、会いたいんだけれど」

「すぐに行くわ」



 待ち合わせの場所は、上野公園の近くの食堂。

「よ、元気か?」

オレグは大きなキャリーバッグを転がしながらやってきた。桜はぱっと顔を明るくした。

「オレグ! えっ、どうして、夏子がいるの!」

オレグの背後から顔をみせたのは、平川夏子である。白いコート来て、首には薄茶のファーを巻いている。夏子のあたりだけ、スポットライトが当てられたように輝いている。

「ちょっとね。オレグが大変みたいだったから」

夏子が舌を出しながら言う。

「電話したら、夏子も来るって言って……」

オレグが頬を掻きながら言った。

「……」

桜は無意識に頬を膨らませた。

「まっ、取りあえず何か食べましょう。久しぶりの日本だから、お寿司かトンカツか」

そう言いながら、夏子はさっさと座る。庶民的な食堂だから、気取ることはない。それでも、夏子は場違いだ。

 もっとも、学会なみにばっちりメークした桜も、年の瀬のおばさんたちの中にあっては浮いているのだが。


 オレグの話は深刻だった。オレグは貿易商である。ウクライナ産の食用ヒマワリ種を日本に輸出していた。

 ところが、この所のウクライナ内戦のとばっちりで、倉庫が焼けてしまったのだ。その結果、オレグは無一文になった。焼けたヒマワリの損害は莫大だったが、今までの利益があったため、借金を背負わずに済んだのが、せめてもの救いである。


「でっ、どうするの? もしかしてホテル代もないとか?」

スパゲティーを食べ終わった夏子がオレグに尋ねる。

「うん、まあ、一二泊なら何とかなるかもしれないけれど、都内のホテルは高いから……」

トンカツに添えたキャベツの千切りを食べるかどうか迷いながらオレグは答えた。

「それじゃあ……」

「取引先の商社に押し掛けて泊めてもらうか、それとも、高校生の頃にアルバイトしていた吉祥寺の蕎麦屋さん所に行ってみるか……」

「今日は大晦日よ。商社は休みだろうし、蕎麦屋さんは忙しくてそれどころじゃないだろうし、どうするの?」

夏子の口調はきついが、オレグにはどうしようもない。桜は黙っていられず、口を開こうとしたが、夏子が、急に口調を和らげた。

「仕方ないわねぇ…… 私の家に泊まる?」

「えっ?」

一瞬、オレグが眉をあげた。

「あら、前にも私のマンションに泊まったことがあったじゃない。渋谷のマンションよ」

「はて? そんな事、あったっけ?」

オレグが、眼光鋭い桜をちらりと見やって続けた。

「ないない! そんな事は記憶にございません!」

オレグは首を激しく横に振った。

「そうだったっけ?」

夏子の言葉に、オレグは首を縦に振る。

「どちらにしろ、夏子の所は狭いんじゃないのか?」

「あら、よく知っているわね」

「そりゃ……」

『コツン』

カレーライスを食べ終わった桜が、お冷の入ったコップを置く。コップの水に、びりりと波紋が広がった。

「私のマンションはどうでしょう。駒込のマンションです。広いですよ」

桜の低い声に二人が振り返る。桜は作り笑いを浮かべている。

「広いですよ」

桜は同じセリフを繰り返した。

「「ん?」」

「先輩とルームシェアをしていたのですけれど、二月ほど前に、転勤で引っ越したんです。だから、その先輩が使っていた寝室が空いているんです」

「なるほど、それはいいかもしれない」

オレグが目を輝かした。

「あら、だめよ。桜ちゃんは生娘だから」

「生娘?」

未通娘おぼこと言った方がいいかしら」

「お、おぼこだなんて!」

「違ったかしら?」

「……」

顔を赤くして、黙り込む桜。それを見つめながら考え込むオレグ。にこやかな笑顔を見せる夏子。

「じゃ、そう言うことで。私は帰るわよ。よい、お年を!」

夏子はそう言って、伝票を持って行ってしまった。

「あっ、夏子!」

「夏子を追いかけます?」

桜の冷静な言葉に、オレグは首を横に振った。

「あっ、その…… 泊めてもらえるかな?」

オレグの言葉に、桜は目を伏せたまま頷いた。



 年が明けて、閑なオレグは、昔働いていた蕎麦屋でアルバイトを始めた。最初は、取引先の日本の商社の所へ日参していたのだが、商品の仕入れができなければ、オレグにできることはなかった。ウクライナの情勢が落ち着くまでは、何もできないと諦めたオレグは蕎麦屋でアルバイトを始めたのだ。

 一方の桜は、オレグとの同居という特殊イベントにかかわる余裕もなかった。修士論文の追い込みと、投稿した論文の修正で、研究室に缶詰状態だった。朝早くに家を出て、夜遅くに帰宅する。

 そんな桜にオレグは甲斐甲斐しく尽くした。ご飯を作ったり、英語を添削したり、肩を揉んだりと。さすがに、オレグが桜の下着を干そうとした時は悲鳴を上げたが、色っぽいことは何もなかった。実のところ、桜は期待していなかったわけではなかったが、居候のオレグの方が気を使ったのである。


 一月も下旬になり、修士論文を提出してしまうと、一息つくことができる。

「あー、魂が抜けたーっ」

帰宅して、だらしなく、食卓に突っ伏す桜に、エプロンをしたオレグが声をかける。

「まるで、伸びた蕎麦みたいだなあ」

「そう思うわ」

つっぷしたまま、桜が答える。

「ほれ、その蕎麦だ」

オレグは湯気を立てるかけ蕎麦を桜の前に置いた。むくりと起き上がった桜は

「ありがとう」

と言い、オレグは自分のどんぶりを置いて、桜の正面に座る。

「ほれ、箸」

オレグは箸立てから桜の箸をとって手渡し、自分の箸もとる。 

「ん?」

「どうした?」

「いや、何か変」

「何が?」

「うーん…… 箸! その箸、オレグの箸?」

「ああ、これ? 買ったんだ。いつまでも割り箸じゃもったいないだろう? 買ったのはもう一週間以上前だけど、今、気づいた?」

桜は無言で頷いた。

「まっ、いいじゃないか? 問題でもある?」

「いや、別に……」

「なら、食べよう。伸びるぞ」

「あっ、そうだわ。じゃ、いただきます」

「いただきます」

オレグがきちんと手を合わせてから、蕎麦を食べ始めた。

 桜には不思議な光景である。一年前までは見も知らぬ他人だったガイジン。金髪碧眼のウクライナ人が食卓で蕎麦を食べている。まるで、何事もなかったかのように自分用の箸で蕎麦を食べているのだ。

 湯気の向こうで、口ひげを舐めながら器用に箸を使う金髪のイケメン。柔らかそうな金髪は、絹糸のように細く精緻だ。その金髪が湯気の向こうでふわりと揺れる。

 湯気は次第に濃くなり、白霧のように金髪を隠していく。細かな霧は雑音のようなザーっという音を発し始めた。桜は目をこすった。

「疲れているのかしら……」

霧の向こうに、濁流の川面が見えて来た。


<<<現地暦享保十二年葉月、西暦1727年9月)>>>


 濁流の音無川。ぴんと伸びた縄が濁流にうねる小舟を繋ぎ止めていた。

「さくら、そっちの縄をしっかり押さえろ」

新吉はそう声をかけて、船のへさきをつかむ。辺りは大雨でもうもうと煙っている。蓑を被っているが、冷たい雨が隙間を縫って肌を濡らしている。濡れているのはさくらも同じだろう。

 大風、大雨への備えが必要なのは小舟だけではない。まずは、小舟を何とかしなければと新吉は焦っていた。

「引き上げるぞ!」

「はい!」

ざあざあと降る雨の中で、さくらが元気の良い返事を返す。

「「そうれっ!」」

二人は、小舟を岡に引き上げた。それから、新吉は焦がした杭を四本、舟の周りの地面に打ち込んで固定した。

「よし、次に行くぞ」

新吉はそう言って、さくらの手を引いた。

 次に新吉達が向かったのは苗畑だ。鉢植え用の小物の苗、交配してできた種を発芽させた幼木、どれも皆、か弱い者たちだ。

 鉢植えは小屋の中へ移動する。地植えのものは、支え棒代わりの竹に麻紐で結わえられているものが多い。新吉達はそれらを確認し、補強していく。最低限の声を掛け合いながら、二人は大雨大風対策を施していく。

むしろと麻紐を少し切ってくれ」

「竹をもう一本足した方がいい」

「もう少し打ち込むから、木槌を取ってくれ」

「鉢が割れていますけれど、後にしますね」

「花がらは摘みます」

 師弟の呼吸で道具や材料を渡す。そして、まるで夫婦のように目だけで励ましあう。さくらが霧島家に拾われて二年半程、新吉達は、霧島家だけでなく、この界隈で腕の立つ二人組の職人として知られていた。


 苗畑のそばに切妻屋根の小屋がある。倉庫がわりに使っており、大事な道具やら、交配してできた種やらがあり、奥の板の間には文箱もある。新吉達にとっては城のようなものである。

「もっと長い棚板が欲しいな」

新吉とさくらは、土間一杯に並べられた鉢を見ていた。鉢植えを風の入ってこない小屋に避難させようしているのだが、これ以上、鉢を入れるには、棚を増設しなければならない。丈夫な棚板とそれを支える部材があれば難しくはない。

「染井稲荷の裏の小屋に行ってきます。あすこに材木が立てかけてあったと思います」

「そうか、なら、俺が行く」

「いえ、私が取ってきます。新吉さんは鉢の方をお願いします」

「うむ、わかった。頼む」


 寄棟造りの小屋は霧島屋のものであり、雑多な部材が置かれてある。その一辺は軒が伸びており、材木が立てかけてある。普段なら雨に濡れぬはずであるが、この天気では、横殴りの雨風が乾燥しかけていた材木を濡らしていた。さくらは、適当な棚板になりそうな部材を物色しようと近づいた。

 と、その時、強い突風がごうと吹き寄せ、一本の材木が倒れ掛かる。慌ててそれを支えようとしたさくらは、ぬかるみで草鞋を滑らせた。

『カラン、ガラン、ゴン、バラバラ』

立てかけていた材木が崩れていく。

 さくらの立っていた所には材木の山が築かれ、激しい雨でもうもうと霧が立ち込めていた。



「さくら!」

材木の山に新吉が駆け寄る。

 いつまでたってもさくらが戻ってこないのを不審に思った新吉は、さくらを探しに来て、材木の山を発見した。

「まさか、おい、さくら!」

あわてて、材木を一本、一本、放り投げる。その山の下に黄色い着物が見える。

「くそ! なんてこってぇ!」

悪態をつきながら、慎重に材木を除けていく。うつ伏せになったさくらが現れる。恐る恐る、抱き上げる。

「さくら! 大丈夫か?」

「ああ……」

うっすらとさくらが目をあける。

「さくら!」

めだった怪我はないようである。

「ん? ここは?」

「よかった! 怪我は? 痛い所は?」

新吉がさくらを抱き寄せる。

「いたたっ!」

さくらが悲鳴を上げる。

「わ、わりい。どこが痛い?」

「あっちこっち」

そう答えるさくらは意外に元気そうだ。

「よし、よし、すぐに本家に戻ろう」

新吉は、大きな怪我がないことにほっとした。


 暗闇の中を大雨が降り続く。そんな雨音の中で、広い座敷には平穏な空気が漂っている。新吉は胡坐をかきながらうつらうつらとしている。座敷の真中には布団が敷かれ、若い娘が寝ている。枕もとには紋型の円盤が置かれている。さくらの身元を示す唯一の手がかりであり、さくらが肌身離さず身に着けていたものである。

何の前触れもなく、さくらは起き上がった。白木綿の寝間着を着ている。

「新吉さん?」 

さくらはそっと呟いた。まるで新吉が寝ていることを確認したかのようである。

 さくらは紋型の円盤を手に取り、円盤上の六つの丸いくぼみを指で押していく。十回ほど、慣れた指遣いである。

 そして、円盤上の丸い開口がぼんやりと発光し始める。

「なんだったかしら?」

さくらは小首を傾げなから、人差し指を開口に差し入れる。ビクッと指を震わせて、すぐに指を引き抜く。

「ライブラリー? でも、今欲しいのはこれじゃないわ。それに、コールドスリープからの目覚めはこんな風じゃなかったと思う……」

さくらは、眠りこけている新吉に目をやる。

「新吉さん? 新吉さんの記憶が…… ある。任務は? 任務が思い出せないわ? 記憶を失っていたってこと? 新吉さんの記憶はあるのに、昔の記憶がひどく曖昧だわ…… そうだ、補機があったはず」

 さくらは、そっと立ち上がり、ふすまを開けて廊下に出た。足音を忍ばせて歩いて、濡れ縁にでる。素足に雨があたり、その冷たさがさくらの思考を加速する。

「補機、どこ? おいで?」

さくらが左耳を触りながら言った。左耳に通信機が埋め込んであるのだ。

 闇の中から小鳥が現れ、さくらの差し出す掌に載る。

「現状を、いや、青星系を出発してからの概要を報告して頂戴」

小鳥は常人には聞こえぬほどの高音でさえずり始めた。

「まさか…… 母船も、着陸船も……」

さくらはうつろな眼で大雨をもたらす闇を見上げた。時折、ぶつぶつと呟いている。

「リアルタイム通信が使えない…… しかも、二年間の報告期限を過ぎてしまった…… とすると、次のプロセスは実行されたということ? ウィルスがやってくる。それは正しいこと?」


 さくらはふらふらしながら、座敷に戻った。そして、相変わらず、うつらうつらしている新吉の背に体を寄せた。

「正しいはずがないわ。新吉さんどうしよう?」

聞こえるか聞こえぬかのささやきに新吉が目を覚ます。

「ん? さくら?」

新吉はびくりと体をさせてから、頬にかかるさくらの黒髪をつかんだ。

「大丈夫か? 朝までゆっくり休むんだ」

さくらは、頷いてから、新吉の手を取り、

「新吉さん、一緒に寝てくれますか?」

「ん? 寒いのか?」

さくらは無言で頷いた。

「そうか、たまにはいいか……」

この時、新吉は大人しくしているつもりだった。実際、赤子をあやすつもりでさくらを抱き寄せた。


「新吉さん、ありがとうございます」

さくらは、真っ直ぐに新吉を見つめた。

「ん? 何でぇ、改まって?」

「この二年半ほど、何も知らなかった私に人というもの、人の六情を教えてくださいました」

「そんな大げさな。それに、俺は俺でさくらの相手は楽しかった…… って、まさか、さくら、記憶が戻ったのか?」

「……」

「どうなんだ、記憶が戻ったのか?」

「新吉さん、もし、私の記憶が戻ったら、どうなさいますか」

「どうも、こうも、記憶が戻ったって、さくらはさくらだ! ……だが、親は心配しているだろう? 家に帰るか?」

「親はおりませんし、家もありません」

「なら、簡単だ。このまま俺のそばに居ろ。一生、俺のそばに居ろ」

「よろしいのですか?」

「ああ、もちろんだ」

「では、抱いてくださいませ」

「……」

「私を繋ぎとめて下さいませ」

「わかった」


激しい雨音が二人の息遣いをつつんだ。



 それから、一月ほどの間、さくらはやっておきたいことがあると言って、物置小屋にこもった。新吉が何をしているのかと尋ねても、曖昧に笑ってごまかすだけであったが、決して新吉を避けているわけではなかった。新吉が手を握れば、恥ずかしそうに顔を紅潮させるのが常であった。

 だが、二人の幸せで穏やかな日々は短かった。


<<<現地暦平成二十七年一月>>>


「どうした、食欲がないのか?」

オレグが箸をおいて桜を覗き込んだ。

「ん? あれ、今、変な事考えなかった?」

「変な事?」

「いやらしいこととか?」

「そりゃ、僕も男ですから。考えないこともないですよ」

「……」

「……」

桜のするどい目つきにオレグは黙り込んだ。

「なぜ、黙っているの?」

「いや、そのー 桜さん、恐いなって」

「恐くて悪かったわね!」

「悪くないです。全然悪くないですよ」

あくまでも腰の低いオレグに、桜はいたたまれずに視線を逸らして言った。

「ごめんなさい。ツンケンしていたら、折角の雰囲気が台無しだわね」

オレグは黙って頷いた。

「それに…… ねぇ、オレグって、ウクライナ人の恋人はいるの?」

桜は急に話題を変えた。

「幸か不幸か、いません」

「どうして?」

「どうしてって言われても…… たまたまとしか言いようがないですが…… 今、好きなのは目の前の日本人ですね」

「目の前の日本人? って、あたししかいないじゃない!」

「ご名答!」

「ちょっと、からかわないでよ」

「からかってなんかいませんよ。僕は本気です」

「本気?」

「ええ、本気です」

「うーん…… 取りあえず、その本気は置いといて」

「置いといてって言われても……」

「だって、蕎麦が伸びちゃうじゃない」

「……」

オレグは唖然として何も言い返せなかった。


 桜は蕎麦を食べ終わると

「ねぇ、仮に、の話なんだけれど、もし、オレグと私が結婚したら国際結婚って言うのよね」

「国籍が違いますから、そうなりますね」

「国際結婚か……」

「今時、珍しくないですよ。確か、日本人の国際結婚は5 %前後ですよ」

「ええ、そんなに多いの? それじゃ、そのうち純系の日本人はいなくなってしまう?」

「そうなりますね。一世代後の純系日本人は95%ですが、その次の世代になれば、95%の二乗だから、90%ぐらいで……」

オレグは箸をおいて、スマートホンで計算を始めた。

「十世代目で純系は60%ですね。一世代が三十年とすると三百年です。千年経てば純系は18%ですね」

「すごいわね…… ねぇ、そのころには…… 国と国の戦争や、民族と民族の対立は無くなっているかしら」

「そう思いたいね。もちろん、文化や宗教が違えば、対立が無くなるわけではないと思いますが、昔と違って、今は、簡単に国境を越え、自由に愛し合える世の中です。千年万年も経てば、人種という概念は無くなっているでしょう」

「人種か……」

「東アフリカを出たクロマニヨン人はネアンデルタール人を駆逐・吸収しながら世界に広がり現代の人種を形作ったけれど、これから数千年をかけて人種が無くなっていくのです」

「でも、十字軍や、パレスチナ問題、ウクライナの内戦なんかもあるのに、人種は無くなるかしら?」

「愛し合う人々がいる限り、人種が無くなるのは必須です。人種が無くなれば対立も激減するはずです」

オレグは自分の手を桜の手に重ねた。

「でも、誰もが愛し合うわけではないわ」

桜は重なった手から自分の手を引っ込めた。

「もちろん、それはそうですが、共通の価値観があれば愛し合うことは可能です」

「共通の価値観?」

「例えば、サクラの花を美しいと思うような……」

「まさか、オレグは…… だからウクライナにソメイヨシノを植えていたの?」

「……」

オレグは黙って頷いた。その碧眼は宝石のようにきらめいていた。


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