源覚寺のホオズキ
<<<現地暦平成二十六年七月>>>
鳥山桜は研究室でモニター画面を睨んでいた。赤いバンダナをシュシュ代わりにして髪をまとめている。そのバンダナはオレグが愛用していたものである。桜は、半ば強引にそれを手に入れた。
モニター画面の左半分にはAGCTUの文字列が並んでおり、右側には棒グラフのようなものがいくつも描かれている。
桜は、ソメイヨシノの遺伝子とその親とされている千葉産のオオシマザクラ、上野のコマツオトメの遺伝子を比較していた。ソメイヨシノの遺伝子に見つけた異常が、どちらの親に由来するのかを調べていたのである。
ソメイヨシノは、江戸時代中期に交配で作られた園芸品種と考えられている。交配とは、どちらかの雄しべの花粉を他方の雌しべにつけて、受粉させる方法である。こうやってできた種は、両親の遺伝子を半分ずつ譲り受けるので、両親と子の遺伝子を詳細に調べれば、子の遺伝子の内、どの部分は父親由来で、どの部分は母親由来であるかがわかるはずである。
「やっぱり、変だわ」
桜は頭を抱えていた。桜の見つけた遺伝子の異常は、オオシマザクラにもコマツオトメにも見つからないのだ。もちろん、本当の父親、本当の母親に近い株を探したつもりでも、厳密に母親や父親であるとは限らないから、遺伝子の異常が見つからないことは
「百パーセントあり得ないとは言えない……」
もっともあり得るのは、交配の際に誰かがその遺伝子を組み込んだという可能性である。問題は、ソメイヨシノが作られたのが、現代的な遺伝子組み換えの技術なんて影も形もなかった
「江戸時代だから……」
おかしいのだ。とにかく、桜にできることは、異常な遺伝子群が何をきっかけに発現し、何をもたらすのかを突き止めることだ。この最初と最後が分かれば、研究としては一段落である。
『ドン』
とキーボードの横に鉢植えが置かれた。籐で編んだかごに入れられた植木鉢からミディトマトのような実が鈴なりに立ち上がっており、さらに深い緑の葉が伸びている。
象牙の塔の中の白黒世界に、突如現れたリアルな色彩。桜は目をパチクリした。
「ホオズキよ」
桜が背後を振り返るとショートボブの知的な美女がいた。
「平川さん!」
「夏子って呼んでほしいわ、桜ちゃん」
「ど、どうして……」
「こんにゃく閻魔のホオズキ市に行ってきたのよ」
「……」
不思議そうに首を傾げる桜に、夏子が真似をして首を傾げる。
「源覚寺って知らない。春日の方にあるお寺で、眼病平癒のこんにゃく閻魔が有名なんだけれど…… 知らない?」
「知らないわ…… って、そうじゃなくって、どうして平川さんが研究室にいるの!」
「夏子と呼んでって言ったでしょう」
涼しい顔の夏子に、桜はむくれる。
「平川夏子さん! どうして、研究室にいらしたのか聞いているのですけれど!」
「桜ちゃん、そんな硬いこと言わないで。オレグに嫌われるわよ」
「き、嫌われてなんかいません!」
「じゃ、ラブラブ?」
「ら、ラブラブだなんて……」
毎日のようにオレグから来るメールを思い出して頬を染めた。彼からのメールの最後にはいつも、P.S. I miss you! と書かれているのだった。
「いいわねぇ…… ってこともないかな……」
もしかしたら、夏子の所にもオレグからのメールが来ているのかもしれない。明るい話題の影に感じられる不穏な情勢。メールからは、心配をかけまいとするオレグの配慮が、痛いほど感じられた。このところ、メールが着信した時は、期待感よりも不安感の方が大きい。
「……」
黙り込んだ、桜に夏子が明るい声をかける。
「まっ、桜ちゃんは、桜ちゃんにできることをするしかないわ。だから、励まそうと思って、ホオズキを持ってきたのよ」
桜は、黙って夏子を見上げた。夏子は不思議な女性である。
平川夏子とオレグ・ブブカがつき合っていたと聞いたのは成田空港の展望デッキである。二人は、ウクライナに帰国すると言うオレグの見送りで鉢合わせしたのだ。
夏子はオレグと高校の同級生であり、恋人であったらしい。ただ、オレグを語る夏子の瞳は、恋人を語る瞳ではなかった。まるで、子を見守る母のようであった。兵役で傷ついたオレグを気遣うかのような口ぶり。桜とオレグの出会いを素直に祝福しているような眼差し。そして、今も、桜を励まそうとしている。
「ありがとう、夏子」
桜は素直に礼を言った。
「どういたしまして」
丁寧に答える夏子の口調は落ち着いている。その瞳は、人生の辛酸をなめつくした老女のように、優しい。
「夏子って、いくつ?」
桜はふと疑問に思ったことを口に出した。
「えっ? それって、歳を聞いているの?」
「うん、だって、すごく落ち着いて見えるし、オレグと同じぐらいだから、そこそこだとは思うのだけれど」
「そこそこねぇ…… 確かにそこそこよ」
「どのくらい?」
桜の問いに夏子はにやりとして、指を三本立てて
「このぐらいかな」
と言った。
「三十ということ?」
「ちっ、ちっ、桁が違うわよ」
「桁? 三歳? それとも三百歳? 冗談やめてよ!」
「……冗談よ、女の歳は秘密よ、たとえ親友であってもね」
「ふーん、そうなんだ。でも、肌は私よりもちもちだし、手も綺麗で、若く見えて…… もしかして、恋をしているとか?」
桜は鎌をかけてみた。
「恋? 恋ねぇ。大昔に恋をしたことはあったわ…… 最近はないかな」
夏子の視線はどこか遠くに向けられていた。
「今は?」
「ないわよ。安心した?」
「ん?」
「オレグを取られるんじゃないかと思っているんでしょう? その心配はしなくていいわよ」
「し、心配なんかしていないわ」
桜は視線をさまよわせた。
「それより、研究で悩んでいるって教授に聞いたわよ」
「夏子って、教授の知り合いだったの」
「ちっ、ちっ、今どきの中堅製薬会社を舐めてもらっては困るわ」
夏子は指を振りながらそう言った。
「でも、うちの研究室は製薬なんてやってないわ」
「卒業生は結構、うちの業界に就職しているわよ。あなたが、大手の某製薬会社に落ちたことも知っているし」
「ん!」
桜はこの所、就活はすっかり諦めて、研究に精を出している。
というよりも研究に逃避していると言った方がいいかもしれない。だから、研究室では就職の話は禁句となっているのだが、外部の者である夏子は、そんなことは知らないし、知っていても桜に配慮することはないだろう。
「うちに来る。私のコネで?」
「け、結構です。夏子と同じ職場なんて、神経が持たないわ!」
「あら、ずいぶん嫌われたものね…… まっ、いいわ。うちに来たくなったいつでも言いなさい。空いてればなんとかするわよ。ただし!」
「ただし?」
「それに決着をつけなさい!」
そう言って夏子は傲慢そうに顎をしゃくった。
「ホオズキ?」
「違う! ソメイヨシノの遺伝子異常に決まっているでしょ!」
「なんだ、知っているんだ」
「今どきの製薬会社員を舐めないで」
「それ、さっきとほとんど同じセリフ」
「ん? そうだったっけ?」
「そうよ。それで、今どきの製薬会社員ならヒントぐらいくれるわよね」
「自分で考えなさい…… と言いたい所だけれど、ヒントをあげるわ」
「何?」
桜は瞳を輝かせた。
「一つは事実を認めること」
夏子は指を一本立てた。
「あたりまえだわ」
「そう。でも、その当たり前のことが見えなくなることある。もう一つは、遺伝子をちゃんと調べること」
夏子はもう一本指を立て、Vサインを示した。
「それも、当たり前だわ。全然ヒントになっていないじゃないですか!」
「そうかな、十分ヒントなんだけれど……」
そう言いながら、暑そうに、うなじにかかったショートヘアをかき上げた。夏子の左耳がいびつにつぶれていて、桜はぎょっとした。
夏子がポニーテールにしないのは、耳を隠したかったからなのだと、桜は思った。完璧な女性にも何かしら弱点があるものだと気づき、桜の劣等感がほんの少し和らいだ。
「まっ、いいわ。一人前になるには、自分で考えるのも大事よ」
そう言って、平川夏子は、嵐のように去っていった。残ったのはホオズキの鉢である。
「ふーっ、いいわね。この赤がいいわ」
桜は、じっと、ホオズキを睨んでいた。膨らんだ赤い実を切り開きたいという誘惑にかられる。この小さな小宇宙の中には何が詰まっているのか。それとも何も詰まっていないのか。
モニター画面上の文字列だって、小宇宙である。それが一端発現すれば、天国が現れるかもしれないし、地獄が現れるかもしれない。目の前の遺伝子異常は、人類にとって未知の世界を作り出すかもしれないのだ。そう考えて、桜は、ホオズキの実に手を伸ばした。
<<<現地暦享保十二年水無月、西暦1727年7月)>>>
「これがほおずき?」
地味な小袖を着た娘はそう言って、おそるおそる手を伸ばした。その手が、赤々とした実をつけた鬼灯の鉢に触れる。
そこから、鉢を撫でるように辿っていく。その手がようやく鉢の縁に到達した所で止まった。
一部始終を見ていたさくらは、合点がいった。
「お嬢様、手伝いましょうか?」
さくらは、同じ年頃の娘に声をかけた。
「あら、お願いしていいかしら。おフクばあさんに待っていてと言われたのだけれど……」
「鬼灯の実に触ってみたいのですね」
「今、はやりだって話を聞いて、どうしても触ってみたくって」
「それじゃ、お手を拝借」
さくらは、目の見えない娘の片手を取って、鬼灯の実に触れさせた。
そして、娘は指でそっと実をなぞっていく。
「まあ、壊れてしまいそうなくらいね。色は赤いのかしら」
「ええ、赤は赤でも橙が少し混じった赤です」
「というと、梅干しみたいな赤かしら、それとも富士山に沈む夕陽の赤でしょうか?」
「赤紫蘇漬け梅干しほど赤くはないでしょう。夕陽の色は、この地では、時々によって色が変わりますから、何とも言えませぬ…… 丁度、南天の実の赤と橘の実の橙を混ぜたと言えばよろしいでしょうか?」
「まあ、面白い言い方ね。植木屋さんみたい」
「……」
「この鬼灯は、私の父上が卸したものなの。父は植木屋なんです。源覚寺の他にも、芝の愛宕神社、浅草の浅草寺にも卸していて、この色づきの良さが評判なのだそうです…… 香りがほとんどないのは、まだ熟れてないからかしら」
そう言って、娘は鬼灯の実に顔を寄せた。
「……」
さくらには何かが起きるとの予感があった。だから、じっと娘を見守っていた。
「ちょっと、手を貸してくださる?」
しゃがんでいた娘は、立ち上がろうとした。さくらは慌てて手握り、手を貸す。
「ありがとうございます」
そう言って立ち上がった娘はさくらの手を離そうとしない。
「お嬢様、何か?」
「あっ、すいません。ほれぼれするような手だったものですから」
「はて?」
「柔らかで、肌理の細かい肌。それでいて、植木屋の匂いがする手」
「……」
娘は、さくらの手を離して、見えない目を鬼灯に向けた。
「もともとは、私を身代りにして、本家からかすめ取った品種なんです」
「かすめ取った品種? 身代わり?」
「目が見えなくなる前の私には、霧島屋本家に許婚がおりました。ゆくゆくは、その許婚を婿養子に迎えて暖簾分けした丹羽の植木屋をついでもらおうと思っていたのです」
「丹羽?」
「ご存知ですか」
「いいえ」
さくらはそう言いながらも、丹羽という名に聞き覚えがあった。確か、鉢植えを得意とする植木屋だった。娘は話し続ける。
「病気で目を患っても、その許婚の方は構わないと言っていたのですが、父の方がこれ幸いと考えたのです」
「父上が?」
「ええ、破談にしたかったのは父の方だったのです。父の妾が男を生んだのです。それでその子に丹羽家を継がしたくなったの。だから娘の私が婿養子を取るのは都合が悪かった」
「それで許婚を解消された?」
「ええ。でも、父は貪欲だったわ。丹羽の方が破談にしたかったのだから、丹羽の方から詫びを入れるのが筋なのに…… 父は、霧島本家から鬼灯の苗をすべてもらったのよ」
「なるほど、それで……」
さくらの返事を邪魔する声があった。
「さくら! まったく、すぐ迷子になるからなあ」
新吉である。方々探し回ったという顔をしながら、団子を手にしている。
「迷子ではありません!」
とさくらは抗弁した。
「お久しぶりです。新吉さま」
「えっ」
娘の声に新吉が反応し、
「あれっ! お千代じゃねぇか!」
素っ頓狂な声をあげる。
「ご無沙汰しております。一年ぶりぐらいでしょうか?」
「ああ、息災か?」
「ええ、この通り相変わらず、眼は見えませんが、それ以外はどこも悪くありません。新吉さまは、前より声に張りがあるようですね」
そう千代が語って、千代が声だけで新吉だとわかったことにさくらは気がついた。
「ああ、俺は相変わらずだ。それより、眼の方は治らねぇのか? ここの閻魔様は、舌を抜いて、代わりに目を与えたという噂もあるが」
「ええ聞いております。閻魔様の右目がないのはその所為だとか」
「存外にお千代の目はすぐ治るんじゃねぇか」
「まあ、そうなったら、破談は見直してもらえるでしょうか?」
「……」
新吉は、まずいことでも言ったと思ったのか、口に手をあてて黙っている。もちろん、そんなことは千代には見えないはずである。
「冗談ですよ、新吉さん。でも、本当に目が治ったら、私を妾として囲ってくださると嬉しいですわ。そのくらいの甲斐性はありますよね、新吉さん」
千代の問いに、新吉は
「甲斐性は無いわけじゃねぇが…… そもそもなんで、千代が正妻でなく妾なんだ」
と問うが、千代は平然と
「あら、だって、正妻は、そちらのさくら様に決まりだと言う噂ですよ」
と答える。
にこりとする千代、目を白黒させている新吉、じっと聞いた言葉の意味を考え込むさくら。どうやら、千代の方が新吉達よりも一枚も二枚も上手のようである。
その千代は、下女に連れられて、早々に立ち去った。
「少し、説明しておいた方がいいよな」
新吉が恐る恐る切り出した。さくらが答える。
「ええ、お願いします」
新吉の話は、千代が語ったこととほとんど同じである。
もう十年以上も前のことである。新吉が丹羽家の婿養子に入る約束を政武と丹羽五郎が交わした。世間的には、霧島家一門の結束を図るためと見られただろう。その後、はやり病で千代は失明し、その約束は破棄され、その見返りに丹羽五郎は、鬼灯の鉢と販売権を譲り受けたことになっている。実際は、丹羽五郎が妾に生ませた長男に家を継がせたかったから破談にしたのであり、新吉の婿入りを嫌ったからである。ここまでは、さくらが千代に聞かされた話とほとんど変わらない。
許婚破棄の席で政武は一つの条件を付けた。もし、将来、当人同士が婚姻を望むのなら、両家は関知もしないし、邪魔立てもしないというものだ。丹羽五郎にしてみれば、丹羽家の跡継ぎに関係しないばかりか、穀つぶしを一人片付けられるかもしれないのだから、断る理由はなかった。
新吉はそう言った話をまるで他人事のように聞いていた。そもそも許婚の約束を交わした時も関心がなかった。祝言はいつあげるのだろうか、それまでに一人前の植木職人になっているだろうかとは考えたが、許婚に特に反対も賛成もしようと思わなかった。もちろん、女に興味がなかったわけではない。
だが、それ以上に家庭を持ち、婿入りした家を継ぐという実感がなかった。丹羽家を守るということ、霧島一家の権勢を維持することなど、どうせ何世代もすれば、皆、尾花のように枯れて意味をなさなくなると思っていた。
甲斐の国にあるという千年桜の千年に比べれば、自分も染井村の植木屋も取るに足らぬことのように思われた。
実際、父、政武もそんな風に考えているのではないかと思えた。政武があれほどまでに精魂を込めて、楓の絵を描き、古典を調べるのは、霧島屋の行く末を予感しているのではないかとさえ思えたのだ。
そんなわけで新吉は、今は桜の育種にしか関心がない。源覚寺の鬼灯市に寄ったのは、さくらに見せたかっただけであり、お千代に会ったのはまったくの偶然である。一年以上は会っていなかったはずである。すっかり大人の色気の出たお千代にドギマギしなかったと言えば嘘になるが、千代とは違った色気を持つさくらを改めて女と認識し、抑うつされた何かが湧き上がってくるのを感じた。さくらの色気は、そこはかとない、それでいて、直視できない色気なのだ。
新吉の話を黙って聞きながら、さくらは政武と交わした会話を思い出していた。
「さくら殿、昔のことは思い出せましたか」
政武はそう切り出した。
「いいえ、相変わらず、何も思い出せませぬ。ただ……」
さくらはそう答えて、目を伏せた。
「ただ?」
「前はずいぶん違った国に住んでいたように思うのです」
「それは、何故かね?」
「この江戸はなにもかもが新鮮で、以前に見たと言う覚えがないのです。さくらという自分の名前さえ新鮮なのです」
「名前?」
「以前にも私には名前はあったと思うのです、誰かに声をかけてもらったような記憶があるのです。でもその名前は、今の『さくら』とは随分違ったようなのです」
「違うと言うのはどのように?」
「さあ、それは、わからないのですが…… あのー、旦那様、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「まあ、用件という程のものではないのだが…… 頼みがあるのだ」
「旦那様の頼みであれば何でもお聞きしますが……」
「新吉を手伝ってくれぬか? 植木屋として新吉を手伝ってくれぬか?」
「はい? そう言われましても…… 今まで通りでよろしいのでしょうか?」
この所、新吉とさくらは朝から晩まで顔を突き合わせている。顔を合わせないのは寝所と厠ぐらいだと下女のウメが冷やかしたぐらいである。
「ああ、もちろん、それでよいのじゃが……」
「……」
「さくら殿に遠慮してほしくないのだ」
「遠慮ですか?」
「新吉に遠慮して、口出し、手出しを控えておろう。わしは知っているのだ、さくら殿が、こっそり、水をやったり肥を施したりしているのを知っているのだ。さくら殿の苗木を看る才覚は、経験者のわしかそれ以上だ。それを新吉に教えてやってほしいのじゃ」
「あの、看るとは言っても、なんとなく感じるだけですし…… そもそも、新吉さんに意見するなど滅相もない」
「そう言わずに、手伝ってくだされ。さくら殿の才覚は、後世に伝えてゆかなければならぬもの、できれば、新吉と……」
政武は、その先のセリフを飲み込んだ。そして、咳払いをして、長火鉢の引き出しを開けて、木綿の包みをさくらに手渡した。
「これは、さくら殿が身につけていた物だ、さくら殿の国の手がかりになると思って、ほうぼう手を尽くしたがわからなかった」
木綿の包みの中には、黒光りする円盤があった。
「南蛮渡来のものだと言う者もいたが、結局、誰一人答えられた者はいなかった。だいぶ、遅くなってしまったが、さくら殿に返したい。受け取ってもらえるかね」
「はい」
とさくらは答えたが、さくらにもその円盤が何かわからなかった。
政武の話は、さくらを勇気づけるものでも、気落ちさせるものでもなかった。ただ、新吉との仲をいずれは、はっきりさせなければならないのだと意識させた。