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桜の記憶  作者: 流山晶
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飛鳥山の楠

<<<現地暦平成二十六年五月>>>


「ところで、鳥山君」

教授は、ひとしきりオレグ・ブブカと近況を確かめ合った後、ポツンと取り残されたように立っていた鳥山桜に気がついた。

「はい。なんでしょう教授」

「ソメイヨシノの遺伝子を新たに入手して、もう一度解析してみてくれないか」

「もう一度、ですか?」

「もしかしたら、別種のサクラの遺伝子を解析しているのかもしれないと思ってね」

「はあ?」

「たまに、別の遺伝子が混じることがあるんだよ。犯人の指紋だと思っていたら、捜査官の指紋だったとか、似たような事があるじゃないか」

「はあ、そうなんですか?」

「大体、遺伝子組み換えなんて昔はなかったわけですし。ちゃんとしたソメイヨシノの遺伝子なら、変なことはないと思うんです。鳥山君はどう思います」

 どう思いますと聞かれても、桜には答えようがない。イエスと言えば、自分の解析結果を否定することになるし、ノーと言えば、教授の言うことに異を唱えることになる。

 もし、桜が要領のいい学生なら、当たり障りのない返答をしただろうが、不器用な桜にそれを期待するのは酷である。そして、そこまでわかっていて話を進めるのが、老練な教授である。

「まっ、取りあえず、これはソメイヨシノだとわかっている木から幼葉を採取して、解析に出してください。費用は何とかしますから。あっ、それからブブカ君、今日は、これから時間がありますか?」

「今日ですか?」

「ええ」

「今日なら、もう何も予定は入っていません」

「それじゃ、悪いんだけれど、鳥山君に付き合ってくれないか。ソメイヨシノなら君がついていてくれれば安心だし」

「えっ?」

桜が口を挟む間もなく、話が進んでいく。

「わかりました」

オレグはにこやかに笑って即答した。


 なんとなく、釈然としない思いもあったが、桜は内心、うきうきしていた。何と言っても金髪碧眼のイケメンである。



 地下鉄に乗って少し手前で降りて、歩き出す。途中、西ヶ原一里塚のそばを通り、小高くなった飛鳥山公園へ入っていく。程よく木々の茂った公園は、サラリーマンと幼稚園児と小鳥のオアシスであり、また鉄道マニアの撮影ポイントでもある。東側を見下ろせば、何本もの線路と列車と、その遙か向こうには筑波の二峰が見える。

「良い所でしょう」

オレグ・ブブカの言葉に、桜はすかさず答える。

「知っているわよ、ここはサクラの名所なんだから」

「なるほど。では、ここで、クイズ。いつからここはサクラの名所なのでしょうか?」

「えっ、そ、それは、昔からに決まっているわ」

「ふーん。ということは、桜さんが子供のころから? おねしょをしていたころから?」

「お、おねしょ? そんなわけないでしょう! って、おねしょなんて日本語よく知っているわね」

「桜さん、前にも言いませんでしたっけ? 私は日本で育ったんですよ…… 青い目のガイジンが日本語を知っているのは不思議ですか?」

オレグがその青い目を真っ直ぐに桜に向けた。まるで、宝石のように綺麗な瞳。そして、底知れぬ深さと悲しさを秘めたような瞳に見つめられて、桜は思わず視線を逸らした。

「ごめんなさい」

桜の言葉に、オレグはふっと表情を緩める。

「正解は、江戸時代の享保です」

「正解?」

「だから、ここがサクラの名所になったのは、享保のころです。時の将軍、徳川吉宗が故郷の紀伊から、何千株という、サクラやカエデや色々な木を移植したのです。そして、ここを庶民に開放した」

「ふーん、そうだったの。それじゃ、その時にソメイヨシノをいっぱい植えたのかしら?」

「桜さん、時代が違いますよ。そのころは、まだソメイヨシノという品種はありませんでした」

「それじゃ、ここに来たのは間違い? ソメイヨシノの幼葉を取りに来たのは見当はずれ?」

「ここには、ソメイヨシノは沢山ありますから心配しないでください」

「ふーん。いつ、誰が植えたのかしら?」

「もしかして、桜さん、誤解をしていません?」

「誤解?」

「ソメイヨシノの寿命は結構短いのです。樹齢が百年を超える樹はほとんどありません。それに、種もできないから、大変です」

ソメイヨシノを両親とする種ができないことは、桜もよく知っていた。その機構の解明が桜の研究テーマであるから。だが、種ができないことが何を意味するかについては、桜は深く考えたことがなかった。

「大変?」

「つまり、ソメイヨシノの名所を維持するには、何十年かごとに、接ぎ木か挿し木で作った幼木を植えないといけない。植木職人がそうやって手をかけないと維持できないのがソメイヨシノなのです」

「でも、現代のサクラの名所はほとんどソメイヨシノだわ」

「そうです」

「ということは、その名所すべてに植木職人が関わっていると言うこと?」

「正解!」

「ええっ! それって、大変な手間じゃない!」

「それだけ手間をかける価値があるのが、ソメイヨシノなのです」

「……」

 植木職人の手間と情熱、それを指示・支援した多くの日本人の熱意が、ちらりと桜の脳をかすめた。


 背の高いオレグが、ソメイヨシノの幼葉を四五枚ちぎった。

「このぐらいでいいですか?」

「うーん。多分」

「はっきりしないですね」

「だって、生ものは、専門じゃないし…… 毛虫は嫌いだし……」

「ソメイヨシノを研究していて、そんなのでいいんですか?」

「いや、まあー」

歯切れの悪い桜にオレグが溜息をつく。

「まあ、ソメイヨシノで商売をしているわけじゃないし…… 象牙の塔にこもっている人はそれでいいのかもしれない」

象牙の塔と面と向かって言われると、さすがに桜もカチンとくる。

「ブブカさんは、どうなんですか?」

「違います!」

「へっ、何が?」

「オレグと呼んでください!」

「はあ?」

桜には、名前で呼んで欲しがっていることがピンと来なかった。

「もう一度、言いますよ。私の事はオレグと呼ぶこと!」

「はい」

桜は、オレグの強い語調に思わず返事をし、それに満足したオレグは表情を緩める。

「卒業して、私は日本と故国のウクライナの結ぶ商売を始めました」

「……」

突然、変わった話題に桜はついていけなかった。それでも、ころころと変わる目元の表情は桜を魅了した。

「少し、長い話になります。折角ですから散歩をしましょう」

「はい」


 オレグの語る生い立ちは、日本で生まれ育った桜には想像もできないものだった。

 オレグは、子供の頃に、父親の仕事の都合で日本にやってきた。ガイジンの一人もいない小学校に通い、多くの友人に恵まれた。中学校では、クラブ活動に汗を流し、初恋も体験したし、ゲームに熱中したこともある。高校では、蕎麦屋でアルバイトをした。

 金色の髪、青い目という点を除けば、普通の日本人、普通の高校生だった。ところが、父親は仕事の都合で帰国することになった。ビザの関係で、オレグだけがそのまま日本に残ることは許されなかった。

 アルバイト先の店主が日本人以上に真面目ないい子と惜しんでくれたが、法は曲げられなかった。故国に帰ったオレグは、異邦人であったが、法的にはウクライナ人である。徴兵制の元、従軍した。


「血を見たんだ」

オレグは楠の大木に手をついて、空を見上げて、続けた。

「血は、真っ青な空を横切り、白バラを赤いバラに変えていった……」

「……」

「バラの香りと血の匂い……」

「……」

桜にはかけるべき言葉がなかった。

「バラは嫌いだ…… だけどサクラはいい。特にソメイヨシノはいい。あの控えめな淡い色がいい…… 高校の卒業式だった。暖冬で、いつになく早くソメイヨシノが咲いたんだ。はらりはらりと花びらが落ちていった。あのころは何も知らなかった。血の色も、匂いも知らなかった……」

オレグは青い空と緑の葉を見上げた。サクラの花など何処にもない季節だ。それでも、オレグの頭の中で、サクラの花びらが舞っていることが、桜にわかった。桜も楠を見上げた。大木である。

 風もないのに、ざわりと枝が揺れる。

「あっ、小鳥? メジロ?」

茂みの中から飛び出て来たのはメジロであった。

 なおも茂みがそよぐ。何やら、茂みの中で黄色いものが動いている。

「あれっ、誰かいる? 誰かが木登りをしている?」


<<<現地暦享保十一年水無月、西暦1726年7月)>>>


「ほれ、こっちが富士山で、あっちが筑波山だ。お城も見える。探せば、染井の本家の瓦屋根も見えるんじゃねぇか」

「すごい、眺めね」

新吉とさくらは、大楠の枝に立っていた。さくらは黄色の小袖、茶色のかるさん袴、藍染足袋という成り様で、新吉も同じようなものである。

「この木は、将軍様が苦労して飛鳥山に持ってきた楠だからな。今に、本郷弓町の楠を超えるかもしれねぇ」

「えっ、紀藩から持ってきたのですか?」

「ああそうよ。あの時にゃ、霧島屋も一枚かまされて、俺も働いたよ。そこに見える隅田川に、それこそ星の数ほどの船が浮かんでいた。皆、紀藩からの草木を積んでいた。ありゃ、壮観だったねぇ」

「沢山、運んできたのですね」

「ああ、まだ今は、幼木が多いが、そのうち、ここも吉野みてぇな桜の名所になるぞ」

「大和の吉野山ですか?」

「ああ。あすこの桜は日本一だ。山の下から上まで、皆桜だからねぇ」

「それじゃ、ここも日本一に」

「うーん、どうだろう。日本一は一番じゃなきゃなんねぇから、難しいかもしれねえが…… 競争相手は、寛永寺に向島ってところかな」

「霧島屋は、そのどれにもかかわっているのでしょう。だとしたら、競争にならないじゃないですか?」

「競争は競争でも、ちょっと違うんだ…… さくら、将軍様は、江戸の民に花を楽しんでもらいてぇそうだ」

「花を楽しむ?」

「そうだ。お武家様や、豪商だけじゃない。百姓も丁稚も花を楽しむんだ」

「花を愛でるということ?」

「さくらは、愛でるなんて言葉がわかるのか」

「わかりますよ」

「俺がやりてぇことは、愛でるともちっと違うな」

「違う? それじゃ、新吉さんは何をしたいんですか? これまで通りに飛鳥山や向島の植樹を手伝うのですか?」

「いや違う…… 俺がやりてぇのは、新しい桜。何処にもない新しい桜を探すんでぇ」

新吉は胸を張って答えた。

「……」

何処にもないのに、どうやって探すのだろうか。さくらは疑問に思いながらも、初めて見る頼もしそうな新吉に目を細めた。



 新吉は政武の言葉を思い出していた。

「新吉、植木屋は誰のために働くと思う?」

「……」

こういう風に、問いかけてくる時は、黙っておくものだと新吉は思っている。下手な返事をしては、父親の怒りを買う。だが、怒りを買うような返事でも、父親は期待しているものである。

「まあ、よい。百人の植木屋がいれば百の答えが有ってよい。だから、これから言うことはわしの考えだ。そして、考えというものは、往々にして現実とは違うものだ」

そう言って、政武は大きく息を吸った。

「明暦の大火以来、お武家様も寺社もこぞって郊外に移ってきた。以来、わしら植木屋は丹精を込めて新しい庭を作ってきた。金が有れば、名のある品種、珍種を集めたし、宴のためだけの庭を造ったこともある。じゃが、庶民には自分の庭など造りたくても作れぬ。新吉どうすればいいと思う?」

「そりゃ…… 金のかからぬ鉢植えを並べるとか…… 」

「ふむ、それも一法だな。じゃが、将軍様の考えは違った。将軍様は、江戸の庶民にも草木花を楽しんでもらいたい、金のかからぬ範囲で楽しんでもらいたいと思っておられる。それが、飛鳥山の桜であり、向島隅田堤の桜だ」

そこまでは、新吉もよく知っている。また、実際、飛鳥山や向島の植栽を手伝うのはやりがいのある仕事だった。


「なあ、新吉よ。植木屋や百姓は何のために植物を相手にすると思う?」

「そりゃ、花を愛で、実を食うためです」

今度は、新吉は自信を持って答えた。

「そうじゃ。生きることは食うことと唱える者もいるが、わしはそうは思わぬ。人として生きることは、六情を持つことじゃ」

「六情って、喜怒哀楽愛憎ですね」

「そう、人と人の間にそれがあるから人間なのじゃ。六情の先に花を愛でること、花を楽しむことがあるとは思わぬか。花や草木は人を癒し、人と人を繋ぐ。花を愛でることは命を愛でること、草木を育てることは子をはぐくむことに繋がるとは思わぬか?」

「父上のおっしゃるとおりだと思います」

新吉はそう答えながらも、政武が何を言いたいかが分からなかった

「わしが今まとめておる本は、伊藤伊兵衛二代がこの世に残すものとなろう。じゃが、これは、お武家様のためでも、江戸の植木屋のためでもない。もっとずっと後の世のためのものだ」

「つまり、伊藤伊兵衛の名を残すため?」

「まあ、形の上ではそうじゃが…… それはわしの本意ではないと言っても、信じてはもらえぬだろう。だが、わしはなあ、この享保の江戸に、こういう植木屋がいて、花や草木を愛でる人がいたのだという証を残しておきたいのだ。後の世が、今よりももっと豊かで穏やかな世になっていると信じたいが、そうではないかもしれぬ。地獄のような世になって、人と人との六情も失われた世になっているかもしれぬ……」

「地獄ですか……」

「そう地獄じゃ。地獄の中で、伊藤伊兵衛の本を手に取り、昔は花を愛でていたのだと、昔は六情があったのだと、思いを馳せてほしいんじゃ。そうすりゃ、少しは地獄を抜け出すことが出来るかもしれぬ」

政武はゆっくり茶をすすった。

 新吉は、いつも泰然とし、完璧な父を困らせたくなった。

「ですが、父上。後世の者がその本を読むとは限りません。地獄を避けるために、もっと確実で真っ直ぐな方法があるのでは?」

政武は笑いをこらえて、ゆっくり茶をすすった。可笑しくてしょうがないらしい。

「わしも、お前ぐらいのころは、父上に反発したものよ。芭蕉ばかり育てておった」

「芭蕉ですか?」

「はるか南の国では、芭蕉が黄金の実をつけると言う。水も肥料もやらずとも勝手に黄金の実をつけるそうだ。その実は甘い芳香を放ち、滋味にあふれ、人を癒すと言う。その芭蕉があれば、誰も飢えに苦しむことはないと考え、一生懸命に芭蕉を育てたり、黄金の実の種と言われたものを撒いて芽を出させようとしたが……」

「それで、どうなったのですか」

「だめじゃった」

政武は口をつぐんで茶をすすった。順風満帆な人生を送ってきた父親にも挫折があったことは、新吉には衝撃的だった。

 ことりと茶碗を置いて、政武は言った。

「新吉、桜の育種をやってみぬか」

政武の瞳は、まるで若者の瞳のように澄んでいた。


<<<現地暦平成二十六年五月>>>


「もう一度、見事なサクラを見たいと思ったんだ」

オレグが真っ直ぐに桜の目を覗き込んでいた。その青は深く透き通った湖を思い起こさせ、桜を動揺させる。

「えっと…… 何の話だったっけ?」

「日本のサクラをもう一度見たいと思ったんです。それで、兵役を終えて日本に戻って、大学に入ったのです。そして、桜さんのいる研究室を卒業した」

「じゃ、それ以来ずっと日本に?」

「まあ、大学で色々有ったけれど、やっぱり僕にはウクライナ人の血が流れていたんだ。それで、貿易を始めた。お金のために……」

「お金」

「お金が必要だったんだ。僕の夢をかなえるためにはお金が必要だった」

「夢?」

「桜さんはウクライナの首都のキエフに行ったことはないですよね」

「えっ、キ、キエフ? 名前を知っているぐらいだけれど……」

突然、話題が飛ぶのはオレグの癖なのだろうかと思いながらも桜は言った。

「聖ソフィア大聖堂というのがある。そこには、奇跡と呼ばれるマリアのモザイク画があるのです。何度も戦乱を潜り抜けて残ったから奇跡のマリアと呼ばれるのですけれど…… そんなことができないかと思って、貿易で儲けたお金を使って、ソメイヨシノを輸入したのです。まだ、五百本程ですねけれどね」

「だから、ソメイヨシノに詳しいのね」

「ま、私のライフワークですから」

「ライフワーク……」

 桜には、ライフワークなんてなかった。確かに、今のソメイヨシノの研究は面白いけれど、ライフワークかと言われれば、違うと答えるだろう。もちろん、会社に入って仕事をしたいとは思うし、そのために、沢山のエントリーシートを書いて、それなりに就活をしてきたけれど、ライフワークを考えたことはなかった。オレグとは境遇が違うし、経験も歳も違う。歳は桜よりも十ほどは上に見える。

 ふわふわと浮草のように漂い、地に足をつけぬ人生を送ってきたのかもしれない。今どきのいい加減な若者と言われても仕方ないかもしれない。それでも、桜は、どこかに未来があると信じていた。だから留まらなかった。


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