根津神社のツツジ
<<<現地暦平成二十六年五月>>>
「そんな馬鹿なって言われてもねえ……」
鳥山桜は教授におかしいと言われてへこんでいた。
先ほどノートパソコンに入れた最近の解析結果を教授に見せたのだが、教授はまるで信じようとしなかった。もう一度DNA配列を調べてからもう報告しろと冷たく言い渡されたのである。
「そりゃまあ、ソメイヨシノは江戸時代中期に作られた品種だから、遺伝子組み換えなんてされているわけはないのは、わかるけれど。あんな言い方はないと思う」
自販機の紙カップコーヒーをすすりながら、ひとりごとを言った。
桜は、修士論文のテーマとしてソメイヨシノの遺伝子解析をしていた。古くはバイオテクノロジーと呼ばれた分野であるが、最近はバイオインフォマティックス、日本語で言えば生命情報科学と呼ばれる分野である。それが彼女の研究分野だ。コンピューター上で研究するホワイトカラーである。
桜のように生命が好きなくせに、解剖や培養・飼育といった生ものが苦手な学生に人気がある分野だ。全ての生命は自身が持つDNA等の遺伝情報を設計図として作られるから、遺伝情報がわかれば、生命が理解できるというのは、半分正しい。
今や、ものすごい勢いで遺伝情報が解読され、莫大なデータが生み出されている。そして分子生物学が遺伝情報と化学反応を関連付けていく。それら莫大なデータから有用な知識を引き出すのがバイオインフォマティックスである。
サクラの園芸品種の中で最も人気があるのがソメイヨシノである。葉を出す前に見事な花を咲かせる。満開の花の美しさ、散っていく花びらの美しさは多くの日本人を魅了してきた。ソメイヨシノは、江戸時代中期に江戸の植木職人が集まっていた染井村(山手線駒込駅から北へ十分歩いた辺り)で作られた園芸品種ではないかと言われている。最新の遺伝子解析によれば、オオシマザクラと江戸彼岸系のコマツオトメ(原木は上野公園にある)の交配だと考えられている。
オオシマザクラは、葉桜ではあるが、生育力が旺盛で、葉は桜餅、材木は、かつては、炭や浮世絵の版木に利用された。これら二つの品種の長所を受け継いだのがソメイヨシノであるが、致命的な短所もある。
鳥山桜の研究テーマはソメイヨシノの自家不和合性の解明である。自家不和合性とは、同じ種同士で、種ができない、あるいは種ができても発芽しないという性質である。つまり、純系子孫ができないと言うことである。これは生命としては致命的な欠点のように思われる。例えば、あるソメイヨシノが老木となり朽ち果てても、純系の種ができないから、その内、すべてのソメイヨシノは絶滅することになる。そこで、登場するのが、クローン技術である接ぎ木である。ソメイヨシノの小枝を切り、親和性の高いオオシマザクラの幼木の根元を切って、骨接ぎのように繋いでしまうのだ。小枝の成長に合わせて根元のオオシマザクラも成長していく。そして、いつかはその木も老木となり朽ちていくが、その前に小枝を切って、接ぎ木をすればいい。
勝手に種を作って、発芽して繁殖していく植物と違って、いちいち接ぎ木をしなければならないのは短所とは限らない。種を作るには受粉しなければならない。つまり二親が必要で、子供は親の形質を受け継ぐ。両親が優秀だとしてもその子は優秀とは限らない。一方、接ぎ木は親の遺伝子をそのまま引き継ぐわけだから、全く同じ遺伝子を持つ。つまり、まったく同じ形質をもつ。
園芸品種にとっては、同じ形質をもつことは大事であり、接ぎ木は珍しいことではない。品種の形質を安定して保持するには、接ぎ木は有用な技術である。つまり、世界中のすべてのソメイヨシノは、一本のオオシマザクラと一本のコマツオトメの交配でできた原木のクローンである。
こう熱っぽく語った教授の興奮はいとも容易く鳥山桜に伝染した。正直な話、鳥山桜は、自分の名が桜であるのは天命だと思った。
こういう情熱と興奮をいつまでも引きずれる人種が研究者なのだが、鳥山桜がそういう人種かどうかは微妙な所である。
「こう毎日、DNA配列ばっかり見ていると頭の中にボウフラが湧いてくるわ」
そう言って、ヘアゴムを外し、ポニーテールを解いて、頭を掻きむしった。
「ちょっと新鮮なマイナスイオンを吸ってくる」
そう言い捨てて、桜は研究室の扉をバタンと閉めた。
同室の学生は肩をすくめた。桜のこのセリフは研究室の定番なのだ。
雨の中、桜が向かった先は、根津神社である。ツツジ祭りの期間中ではあったが、すでに花の盛りは過ぎており、見物客もまばらである。
桜が境内に着いた時には、雨が上がり、雲の切れ間から差し込んだ光が朱色の楼門を照らし出し、濡れた黒瓦が光を散乱していた。良くなりだした天気に小鳥も跳ね回っていた。
「やっぱ、楼門はすごいわね」
宝永三年の創建時の壮麗さをそのまま残しているかと思うと桜は妙にウキウキしてき。その気分のまま、斜面に植えられた無数のツツジを舐めるように見つめていった。
「あれっ? この斑点? こっちにもある」
何やら見つけたようである。
「えっ、えっ、こっちにも、こっちにも…… しかもみんな上側の花びらについている! もしかして、だ、だい……」
桜は、傍で見ていてもわかるぐらい興奮していた。
「大発見ですね」
と男性の声が聞こえる。
「そう、大発見よ!」
そう言って、桜は固まった。振り返ると金髪碧眼のイケメンがいた。
「えっ、あっ……」
「また、お会いしましたね、お嬢さん」
青年のやわらかな笑みに、桜は一瞬トリップしそうになるが、ぐっとこらえる。
「はっ? また?」
「またですよ…… 先日、お会いしましたよ」
「ど、どこで?」
桜は首を傾げた。
「隅田川の観光船。ハンカチを落としたでしょう。あなたは、何度も何度も溜息をついていた」
「ハンカチ! 溜息! ドイツ人?」
「違います。ウクライナ人です。あなたの頭の中のガイジンは皆ドイツ人なんですか?」
少し強い口調で青年が言うと
「あっ、あははは…… すいません」
「まあ、いいでしょう。で、」
「で?」
「蜜標です」
「みっつ豹?」
両手で鉤爪を模す桜に、青年は溜息をついて、ツツジを指さした。
「ほら、君が言っていた大発見は、蜂蜜の蜜に標本の標と書いて蜜標と言うのですよ」
「蜜標ねぇ…… あれ、さっきはお嬢さんと言ってくれたのに、いつの間にか君になっている!」
青年は溜息をついて、小声で
「そういう指摘をするのはお嬢さんじゃない証拠だよ」
と呟いた。
「ん? 何か?」
「とにかく、よく花を見てごらん。ほら、そこ! ハナムグリがいるでしょ」
「あっ、これハナムグリ?」
「昆虫に、ここに蜜がありますよって、誘導するのが蜜標です。実は、人間と違って、昆虫は紫外線を見ることができ、紫外線で見ると……」
桜の視線は、目の前の小さな世界に釘づけになる。淡いピンクの花びらを背景に、深緑のハナムグリがいて、その背には金色の勲章がついている。
「きれい……」
桜は、その美しさに溜息を漏らした。青年の説明は、桜の耳を素通りしているようである。桜は顔をますます近づけた。
その背に向かって青年は言葉をかける。
「そうやって誘導することで、受粉させやすくすると言われていて、まさに……」
ハナムグリは、桜の視線をうるさがるかのように、花びらの奥へ奥へともぐりこんでいく。ピンクのカーテンをかき分けていくように前々へと進んでいく。そう、ハナムグリも、桜も知っているのだ。この先に、甘美な蜜があることを。そして、ハナムグリがちらりと振り返り、あきらめたかのように触角で、おいでおいでと合図を送った。
桜は、ハナムグリの色っぽいお尻を追いかけた。
<<<現地暦享保十一年卯月、西暦1726年5月)>>>
越冬した花潜が花から花へと飛び回っている。白色、桃色、緋色、若紫色と、花の盛りは、楼門の鮮やかな朱色が霞んで見えるほどである。色だけではない、形も大きさも多種多様な躑躅がなだらかな斜面を覆っている。
「綺麗ね」
髪を結綿にし、赤い鹿の子を巻いて、黄色の小袖を着たさくらが小声で囁いた。
「そうだろっ。なんせ、三代目のじいさんが植えた躑躅だからよ」
新吉とさくらは腰を落として、じっと躑躅を見ていた。
「本当? それじゃ、もしかして、六代将軍家宣様の御声掛かりで、躑躅を植えたの?」
「まっ、そういうことになるねぇ」
「すっごい」
「将軍様のお引き立てという意味じゃ、四代目の親父殿の方がひどいが……」
新吉の毒舌にさくらは眉をひそめたが、当人は、何か考え事をしているのか、上の空である。
伊藤家の当主は代々伊兵衛を名乗っているが、三代目の伊藤伊兵衛三之丞は、躑躅の育種にぬきんでていたし、今の伊藤家の隆盛は彼のおかげである。そして四代目政武も三代目に劣らず傑出した人物であり、植木職人と呼ぶのもはばかれるほどである。
そんな父子鷹の血を受け継いだ新吉にとって、伊藤家を世に出した躑躅は、素直に愛でられぬ種である。
「ちっと、葉に勢いがないように思えるが、早めに花がらを摘んだ方がよいか……」
新吉が、小声で呟くのをさくらが拾う。
「何か、まずいことでもあるの?」
「いや、何でもない。どっちにしろ、俺には、育種なんて出来そうもないし、施肥も剪定も面倒だし、植木屋は向いてねぇな」
「ふーん、そうなんだ。じゃ、やめれば?」
「やめる?」
「もっと楽しいことをすれば? 魚釣りとか?」
「なるほど、そりゃいいかもしれねぇ。俺が魚釣りで、さくらが虫取りか?」
新吉の言葉に、さくらはうんうんと頷くが、
「おめえは単純でいいな」
と新吉が溜息をつく。
「私が単純? 単純だといいの?」
「単純ってのはだなぁ……」
説明しかけた新吉は、一度口を閉じてからまた開いた。
「要するに、余計なことを考えなくて、すっきりして、良いってことよ」
「それじゃ、新吉さんも単純になったら」
「あっ、あははは…… そうだな」
相好を崩した新吉は、腰を上げた。
「さくら、酒饅頭でも買ってくるから、あすこの縁台で待っていてくれねぇか?」
「はい」
うれしそうな返事に新吉の心は軽くなった。
難しいことは考えずに、花を愛で、饅頭を食い、笑えばいいのかもしれない。植木職人として、伊藤家の才は受け継いでいないかもしれぬが、そんなことは後で考えればいい。今は、できることをやればいい。新吉はそう思った。
この所、新吉は政武に言われた通り、さくらを植木職人にすべく、連れ回しているが、腕を上げているのはさくらだけではない。実は、新吉自身もまた、腕を上げているのだ。植木職人になるのは、いやだいやだと言いながらも、新吉も必死である。弟子の方が腕の良くては、師匠としての格好がつかないと思っているのだ。
「おや、さくらは?」
新吉はまだ、湯気の出ている酒饅頭を買って戻ってきたが、待っていろと言った縁台に、さくらはいない。辺りを見回しても黄色い小袖を着た娘は見当たらない。
ぞわりと嫌な感じが胸を這い上がってくる。
「さくら! どこだ!」
新吉は根津権現の境内を右往左往し始めた。
さくらは、童子に袖を引かれて、路地奥へ来ていた。童子が、さくらに助けを求めたのだ。姉が溝にはまって、這い上がれないのだと。
狭い路地の両側には目の細かい格子をはめた町屋が立ち並んでいる。夜になれば、妖しげな灯りがともり、張見世となるはずだが、昼間は闇が見えるばかりの廓である。
「どこまで行くんですか?」
さくらが不安そう尋ねるが、童子は何も言わない。
路地の行き止まりまで行って、童子はようやく口を開いた。
「この中です」
そう言われて、さくらは木戸をくぐり、廓の裏手へまわった。
待っていたのは、深編笠をかぶり、抜き身の匕首を下げた男である。その男が童子の首筋に匕首を突きつけ、
「さっ、大人しくしてもらおうか」
と言った。
一体、何が起きているのか、理解できないが、危なそうなことはわかった。
「く、曲者」
とさくらは小声を出した。息を大きく吸って、今度は、大声を出そうとするが、
「黙っていろ!」
と男が低く恫喝し、匕首を引いた。
童子の首筋に赤い跡が付き、ジワリと滲んでいく。
「おじさん! 話が違うよ!」
泣きそうな童子の声に、男が言い返す。
「けっ、だいたいおめえの姉がとんずらするから、こうなっちまったんでぇ。こちとら、どうあっても、あと一人娘をそろえなきゃならねぇ。それとも、あすこを切って、おめえを娘にするか?」
「待って下さい!」
さくらは、拳を握りしめながら言った。
「観念したか?」
「かんねんだか何年だかわかりませんが、とにかく、その子を離してやってください」
「よし、いい娘だ。わかったら、これを飲みな」
そう言って、男は懐から紙包みを取り出し、さくらの方へ放り投げた。
包みを開けると、紅色の粉があった。
「さ、飲むんだ!」
「その子を離してくれますね」
念を押すさくらに、男は黙って頷いた。良くない薬に違いないとは思ったものの、さくらは紅色の粉を飲み込んだ。
「うっ」
鋼のような味。喉を焼くような刺激とともに、臓腑に浸み込んでいく。
「喉が渇くだろう」
そう言って、男は竹筒を渡した。さくらは、ひったくるように竹筒を受け取り、中の水を口に含んだ。
さくらは、臓腑が引っくり返るように感じた。青空が右へ左と飛び、地面が回り出す。
童子は恐ろしいものでも見たかのように目を見開いている。そして、ゆっくりと後ずさりをして、それから一目散に逃げていった。さくらは、それを見届けてから、紅色の水を吐き出した。
「あっ、この娘、吐きやがった! 折角の信石を無駄にしやがって!」
怒った男は、さくらの頭に匕首の柄を打ち下ろした。信石は、声が出なくなる毒である。声が出なければ、助けも求められぬと考えたのであるが、吐いてしまっては意味がない。
新吉は、半刻ほど、宮司まで動員して境内や周りを探し回った。もちろん、門前の岡場所も訪ねて回ったが、さくらの消息はわからなかった。唯一、分かったことと言えば、大八車を引いて去っていく者を見たという話だったが、谷中の方へ向かったような気がするという曖昧な話だった。
「くそっ、どうしたらいい」
新吉は頭を抱えた。と、その時
『チュッ、チュッ、チュルル』
鳥が鳴いた。
「この鳴き声は…… メジロ! やい、メジロ何とかしろ!」
新吉は霧島屋の屋号の入った手拭を投げつけた。
手拭はつい先ほどまでは、宮司に見せて、霧島屋の一員と名乗るのに使ったのだが、江戸一の植木屋だからといって何でもできるわけではない。
メジロは、手拭をひらりと避け、あっと言う間に新吉の頭上飛び越していった。ついでに、新吉の月代に糞を落としていったものだから、
「糞っ、糞っ」
と言いながら新吉はメジロを追いかけ始めた。どうしようもない苛立ちを覚えつつも、なんとなくメジロがさくらの所へ案内してくれると思ったのだ。
坂を上って、谷中天王寺を抜け、急坂を下り、東へ東へと真っ直ぐ行く。空を飛ぶのなら、さえぎるものはないが、地上はそうもいかない。塗り塀、木戸、竹林に田んぼ、川を迂回するから大変である。それでも、新吉にはメジロを追うしかなかった。
吉原の御歯黒溝をかすめて、ようやくメジロが止まったのは、浅草竹町の渡し場である。丁度、船が出るところで、行李を担いだ商人やら、天秤棒を降ろした老女やらで、ごった返していた。その船の真ん中に傾いだ大八車があり、一人の男が寄りかかって、煙管を吸っていた。その大八車には大きな簀巻きが一本載せてある。
新吉にはその簀の奥に黄色いものがちらりと見えた気がした。
「待ってくれ!」
そう言って、新吉は飛び乗り、ごった返す客を押し分け、大八車の前まで進み出た。煙管の男が不審な眼をむけるのも構わずに、新吉は懐から取り出した剪定鋏で縄をじょりじょりと切り始めた。
「て、てめえ、何てことしやがる!」
男が煙管を突き出す。
「それは、こっちの台詞だ。人攫いめ!」
新吉はそう言いながらも手を休めない。
周りの客は、狭い船上で、二人から一歩でも二歩でも遠ざかろうと、そろりと足を運ぶ。
「やめろと言っているのが聞こえねぇのか!」
男が匕首を振り上げ、客が固唾を飲む。
新吉は横目でじろりと男を睨みながら、チョキンと空を切った。手入れのゆき届いた刃が日の光を反射する。男は、そのきらめきと新吉の眼力に後ずさった。
簀をはらりとめくると、縄で結ばれた足が現れ、黄色の小袖、縛られた手、猿轡された口が現れる。
「さくら! やっぱりさくらだ! 良かった……」
新吉がさくらを抱き起し、猿轡を外す。
「新吉さん!」
ふらふらとしながらも、さくらはしっかりした声で返事をした。
『どぼん』
大きな水音に、皆が振り向くと、男が泳いでいた。逃げたのである。
「こん畜生、許さねぇ!」
そう言って、新吉は飛び込んだ。
『ばしゃん』
水柱が上がり、皆がどよめく。驚いた男は、あわてて腕を回し始めた。まるでかわうそのような見事な泳ぎぶりである。それを追いかける新吉は…… しぶきが派手に上がるわりに、一向に進んでいない。むしろ流れに流されているようだ。
「新吉さん、もしかして、泳げないの?」
さくらの言葉に、隣の客が頷く。
「江戸っ子だねぇ」
他にも頷く客がちらほら。
「もう、黙って見ているのが江戸っ子なの! 情けない!」
さくらはそう言い捨てると、小袖の裾をたくし上げ、船から走り出た。
『ざぶん』
おおっと皆がどよめく。
あっと言う間に、新吉の袖をつかむ。男がかわうそならさくらは河童である。
「新吉さん! 暴れないで!」
「暴れてなんかいない。泳いでいるんでぇ!」
「じゃ、泳がないで!」
さくらの怒声に、新吉が静かになる。
「そう、それでいいわ。新吉さんは泳がない方がいいわ。餅は餅屋、植木は植木屋って言うでしょ」
「言わねぇよ」
新吉が力なく抗議する。
「とにかく、力を抜いて…… そう、楽に楽に……」
さくらは新吉の首を抱えて、ゆっくり泳ぎ始めた。
新吉とさくらは隅田川の対岸から出てきた別の渡し船に引き上げられた。二人は、ずぶ濡れになって河岸へ上がった。対岸では、寺の小僧まで出てきて、辺りはちょっとした騒ぎになったが、新吉に声をかけて来た者がいた。
「新吉さんじゃないか」
愛想のよさそうな小柄な老人だ。
「源六じいさん」
新吉は嬉しそうな顔を見せた。
「人攫いから娘を助けたんだって」
源六とよばれた老人は二人に手拭を差し出した。
「なんだい、もう話が伝わっているのか」
「ああ、江戸っ子はこういうのが好きだからねぇ。まっ、野次馬はほうっておいて、うちへ来な。そんなんじゃ風邪を引いちまうだろ」
「ああ、ありがてぇ」
新吉はそう言って、ざんばらになったさくらを見やった。折角、髪を結い、赤い鹿の子を巻き付け、簪を挿したのが、台無しである。
さくらは囲炉裏の火にあたりながら、ぼんやり考えていた。川に飛び込んだ時に、何か大事なことを思い出した気がした。だが、その時は、新吉を助けることに夢中だったから、ゆっくり考えている暇はなかった。
大事な何かだったが、それが何なのかは思い出せない。
そもそも、自分に過去の記憶がないことが不思議だった。箸の使い方は手が覚えていた。言葉は、いつも一拍遅れているが、不自由ではなかった。算術は意識せずとも出来た。だが、それ以外はダメであった。そもそも、家の内も、江戸の町並みも、木々も虫も、まるで見覚えがなかった。
記憶がないことについては、新吉をはじめとした周りの者は、最初から不思議がっていて、さくらが覚えていることをしつこく尋ねたものであるが、その内、誰もさくらの過去を聞こうとしなくなった。さくら自身が、自分に記憶がないことを不思議に思いだしたのは最近の事である。
そんなことをぼんやり考えているさくらの横で、新吉が老人と話し込んでいる。
「浴衣は助かるねぇ」
「つぎはぎだらけの男物しかねえが……」
源六はさくらを見やって、何かを言いかけてやめた。再び、新吉に向き合い
「そうだ、さっき作った桜餅があるから、持って来よう」
「桜餅って、例の、評判の餅か」
「まあ、評判っていや、評判かもしれないが…… 今度のはもっとすごいぞ」
「もっと?」
「ああ、まずは食べてみてくれ」
源六はそう言って、奥へ行く。奥には餅づくりの勝手があるのだ。
源六が盆に載せて持ってきたのは、桜餅である。それを二人の前に置く。
「さ、召し上がれ」
「いつもの桜餅と変わらぬようだが」
「どうでしょう。新吉さんなら違いが分かるかと……」
新吉は、がぶりと一口やって、目を丸くした。
「葉っぱか!」
「薪桜の葉です」
「別名、大島桜のことだな」
「ええ、上総から取り寄せたものです」
「味も、香りも深い……」
「でしょう」
老人の顔がほころぶ。
「なるほど、これはいい。源六じい、これは売れるぞ! さくら、お前も食べろ!」
新吉の差し出す桜餅を、さくらは眠そうに受け取ったが、一口食べるや否や
「美味しい!」
と言って、あっと言う間に平らげてしまった。
「あはは、まだ、あるから持って来よう」
源六の言葉に、さくらは目を輝かせた。
その夜、二人は源六の家に泊まった。さくらは、あっという間に鼾をかき始めた新吉の手を胸に抱いた。大きな手である。さくらを助けた手である。昔の記憶は戻らぬが、新吉が大切な人であることは一生忘れまいと、さくらは誓った。
<<<現地暦平成二十六年五月>>>
『ごん』
「痛っ!」
どうやら、桜はうとうとして、竹の手すりで額を打ったようである。
縁台に座っている桜の方へ金髪碧眼の青年が近づいてきた。
「どうかしました?」
流暢な日本語で青年が話しかけた。
「あっ、えっ…… 何だったっけ?」
うろたえる桜に、青年が答える。
「酒饅頭を買ってきましたよ。ほら」
そう言って、青年は白い饅頭を差し出した。
「酒饅頭?」
「名物の酒饅頭が食べたいって言ったのは桜さんですよ」
「あれ、なんで私の名前を知っているの?」
「さっき、自分で、私は鳥山桜ですって言ったじゃないですか」
「言った?」
桜にはすっぽり記憶が抜けていた。確か、ハナムグリを見ていた所までは覚えているが、そこからの記憶がない。
「言いましたよ。じゃなきゃ何で僕が貴方の名前を知っているんですか」
「そ、それもそうね。あははは」
記憶がないのは恐ろしいことだが、目の前の青年は、逆立ちしても好青年に見える。
「あの~、貴方のお名前は……」
「ちゃんと言いましたよ」
「えーっと……」
「……オレグ・ブブカです」
青年は溜息をついた。
その後、彼も偶然、桜の通う大学に用事があるとわかった。桜が嬉々として大学まで案内した所までは、よかった。
だが、オレグが桜の所属する研究室の先輩だとわかって、
「マジで? ひょえーっ!」
桜は悲鳴を上げた。