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桜の記憶  作者: 流山晶
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隅田川の繭

<<<現地暦平成二十六年四月)>>>


 曇天の下、勝鬨橋かちどきばしを平べったいガラス張りの観光船がくぐっていく。船尾にはオープンデッキがあり、色鮮やかな装いのグループがいて、すぐ頭上を通り過ぎる橋に外国語の歓声を上げる。かと思うと、その横では、カップルが肩を寄せて何事かを囁きあっては、大きな笑い声をたてている。

 そんな喧噪の中で浮いている客が二人。リクルートスーツに身を包み、漆黒の髪をポニーテールにした女学生が一人と、高級そうなアタッシュケースを小脇にはさんだ金髪のビジネスマンが一人だ。暗い顔の女学生は、ぼーっと川面を見つめており、ビジネスマンは、品定めでもするように、デッキの客を一通り見やって、静かに微笑んでいた。


「ああ~、全くいやになっちゃうわ」

そう言って、リクルートスーツの女学生は盛大に溜息をついた。両膝を行儀よくそろえながらも、ヒールを脱いで足指をもぞもぞさせているから、行儀よさも中途半端である。

 女学生はショルダーバックからタオルハンカチを取り出して、それを扇子代わりにして顔を仰いだ。高い湿度が汗を滲ませるのだ。小さめの唇とややたれ気味の目は、可愛らしいとか儚げだと言われることはあっても、覇気があるとか、快活そうだとかと言われたことは一度もない。彼女は、その容貌にそれなりに満足していたのだが、この日ばかりは顔の造作を決めた両親を恨んでいた。


「面接、失敗したなあ~ やれますかと言われてハイと答えればよかったんだけど……」

鳥山桜とりやまさくらは再度溜息をついた。修士課程二年になったばかりの桜は、この日、汐留にある高層ビルを訪れた。ある大手製薬会社の本社ビルである。その会社の最終面接を受けたのだが、女性役員が一人、面接官に交じっていた。

「認可された薬だって副作用で思わぬことが起きることがあるの。失敗してもいい植物を相手にするのとはわけが違うわ。そんな中で、あなたは本当にやれますか?」

役員のその質問に、桜はまともに答えられなかったのだ。植物オンリーだった桜は、自信を持って製薬に携われると言い切れなかった。生真面目と言えば、生真面目。誠実と言えば、誠実なのだろうが、その後の面接官の反応は冷たかった。

 彼女は、面接官の『覇気がないわね』という最後のセリフから逃げ出すように高層ビルを後にした。

 それからの記憶は曖昧である。いつの間にか浜離宮に迷い込み、あてどなく、サクラを眺めて、気がついたら水上バスに乗っていた。お金を払ったことは覚えているが、いくらだったかは全く思い出せなかった。


「他の所も受けておけばよかったかなあ」

 タオルハンカチを膝の上に広げ、鳥山桜は呟いた。それまでの面接の反応が良かったため、他社は断り、就活をその製薬会社一本に絞り込んでいたのだ。

「断った会社に今更、面接させてくださいなんて言えないし……」

そして、一本に絞ったことを後悔していた。

 彼女が後悔しようがしまいが、観光船は隅田川を上っていく。丁度、頭上には何本ものワイヤーで橋を吊っている巨大な橋脚がそびえていた。中央大橋である。

 その時、ぶわっと、突風が吹き、膝の上のハンカチをさらっていった。デッキ上をころころと転がっていくそれを、追いかけようとして、ヒールを脱いでいることに気がついた。

「しまった……」

彼女は小さな叫び声を上げた。

 もうひと転がりで落ちようとする瞬間に、大きな手がハンカチをさっと拾い上げた。拾ったのはスーツを着た金髪の青年である。歳のころは三十ぐらいだろうか。いや、もっと若いかもしれないが外国人の年齢は桜にはよくわからない。

 笑顔を浮かべた青年が桜の方へやってきてハンカチを差し出した。

「お嬢さんのハンカチですね」

青い瞳、長めの金髪に、うすい口鬚をたくわえた彫の深いイケメンである。桜は、思わず

「ダ、ダ、ダンケ・シェーン」

とドイツ語で礼を言い、ハンカチを受け取った。ゲルマン系のドイツ人だと思ったのだ。

「どういたしまして」

「えっ、日本語?」

桜は、この時初めて、青年が流暢な日本語を話すのに気がついた。

「ドイツ語に聞こえます?」

吸い込まれるような青い瞳に見つめられ、桜の鼓動が速くなる。

「いえ、その…… あまりに流暢だったので」

視線を落として答えた彼女の頬は、ほんのり赤く染まっている。

「生まれはウクライナですが、日本で育ちましたから、日本語はペラペラなんですよ」

そう言う青年の微笑は、どこかかげりを帯びていた。

「あっ、いえ、すいません」

「それじゃ、私は失礼しますよ」

 桜が青年の後姿を呆然と見つめていたのは、一瞬のことである。桜は、まともにお礼を言えなかったことに気がついたが、そのことは、すぐに頭の中から消えた。もう二度と会うことはないと思ったのだ。


 浅草で観光船を降りた桜は、雷門をくぐり、にぎやかな仲見世を抜け、浅草寺で形ばかりのお参りを済ませた。

 二天門を抜け、隅田川へ出ようとして鳥の鳴き声に立ち止まる。

『チュッ、チュッ、チュルル、チュルル』

「小鳥かしら」

辺りを見回すと植え込みの方から鳴き声が聞こえる。

「網?」

 植え込みの間に細い糸の網が張ってあり、鶯色の小鳥が絡まって逆さになっていた。目の周りが白いからメジロである。

「かわいそうに。かすみ網かしら」

野鳥を捕るためのかすみ網は、鳥の本能を利用した網で、一端捉えられた鳥は逃げられなくなる。現在では、かすみ網は禁止されているが、メジロなどの野鳥は需要が高く、密猟されることがある。誰かが遊び半分に仕掛けたのかもしれないが、悪質には違いない。桜は、からまった網を丁寧に外して、頭を一撫でしてから空へ放った。

「私も自由に大空を飛べたらなあ」

その呟きは曇天に吸い込まれていった。


 鳥山桜は、散り始めたサクラ並木をあてどなく歩き、誰もいない桜橋から隅田川を見下ろした。川面をじっと見ているが、その実、頭の中は面接の失敗でいっぱいだった。すぐそばの欄干にメジロが留まったのも気がつかない。

 左岸では散ったサクラが川面にはりつき、ゆっくりゆっくり流れていく。右岸では真っ白な木蓮がサクラに対抗するように咲きほこっている。

 びゅうと風が吹き、大きな木蓮の花びらが舞う。くるりくるりと舞い上がった一枚は、風がやむと真っ直ぐに川に落下した。そのまま、橋の方へとただよい、ようやく桜の視界に入った。

「花?」

 視界の中で木蓮の花びらは次第に大きくなっていく。弧を描く真っ白な花びらは、繭玉まゆだまのようである。桜の鼓動に合わせて、どくんどくんと大きくなっていくように見える。繭は、ざぶざぶと波を蹴散らし、近づいてくる。

 桜は、両眼をこすって、瞬きをしてみたが、繭は無くならないばかりか、見上げるほど大きさになっていた。いや大きくなったのではない。桜の方が小さくなったのだ。いつの間にか、桜は波間に浮いていた。繭がずいと近づくと水面が盛り上がり、桜の体も大きく持ち上げられる。空へと続く白壁のように立ちはだかった巨大繭がのしかかってきて、桜は声にならない叫びをあげた。


<<<現地暦享保十年如月、西暦1725年3月)>>>


「なんだ、ありゃ。繭みてぇだな」

小舟の上の青年が釣竿を置いて目をすがめた。筒袖を尻からげにし、股引を穿いた成り様は百姓風だが、鮮やかな紫色の博多帯は土を生業とする者には見えない。

「白くてぶよぶよしてらぁ。ああいうのを土左衛門って言うんじゃねぇかな」

川に浮かでいる大きな繭を見ながら、青年は呟いた。

 土座衛門というのは深川八幡の勧進相撲の力士の名で、大柄で真っ白な肌のため、水死体のようだと揶揄されていた。

「おいおい、こっちへ来るぜ。あっちへ行けと言っても行かねぇか」

青年は腕組みをして言った。日には焼けた顔には、たくましさは微塵もなく、代わりに品の良さが伺える。


 この青年、伊藤新吉は、霧嶋屋の船を借りて釣りをしていた。霧嶋屋は、染井村の植木屋であり、享保の江戸では、将軍吉宗の寵愛を受けた四代目伊藤伊兵衛政武が当主であった。新吉は、伊藤家の末席に名を連ねていたが、なにかと当主に反発し、家を飛び出すことも多かった。そして、手習い仲間の旧友を訪ねては、大工の真似事をしたり、畑を耕したりして、植木と真面目に向き合うことはなかった。もっとも、才能だけは受け継いでいるらしく、時折、当主の命ずることをきっちりやって驚かすこともあった。そんな新吉も二十代後半になると、付き合ってくれる友もいなくなり、昨今は一人でぶらぶらしていることが多い。

 釣りは絶好の暇つぶしである。苗を運搬する小舟が空いていると知ると、それを強引に借り出し、釣りに行くこともたびたびであった。

 この日、新吉は音無川を下って、吉原を横目でにらみながら、浅草竹町の渡し場のそばを通って、向島近くまでやってきたのだ。このあたりの隅田堤は昔から桜が植えられていたが、ここ数年は、時の将軍吉宗の命をうけ、霧嶋屋が里桜を植樹している。

 新吉がここまで船でやってきたのは、釣りという理由だけではなかった。昨年晩秋に植えた苗が花を咲かせたかどうかを見たかったのだが、木も小さく、早咲きの品種でもなかったため、一輪も咲いていなかった。


 たっぷん、たっぷんと小波に揺すられるたびに繭は沈んでいく。

「ありゃ、じきに沈むな。ま、そうなりゃそうなったで……」

『チュッ、チュッ、チュルル、チュルル』

と、一羽の小鳥が繭に降り立ち、小さな嘴で繭をつつき始めた。コツ、コツ、コツっとつつくと、繭がひび割れ、その割れ目から霧が勢いよく吹き上がる。

「な、何だ?」

吹き上がった霧は、小さな虹を作ると、その一瞬後には霧散した。

「こりゃ、何かやべぇ気がする」

新吉は、櫂をとると慌てて漕ぎ出した。あっと言う間に、あらかた沈んだ繭に小舟を寄せて覗き込む。人ほどの大きな繭の中には…… 人がいた。いや、人ではない。

「ゆ、幽鬼?」

 白装束にザンバラ髪、顔は蒼白と言ってよかったし、紅も差していない。ただ、水面に広がりつつある髪は、濡れ羽の艶を持っていたし、博多人形のように白い素肌は清らかな光を放っていた。

「娘か。生きているのか? だが、息をしてねぇ」

新吉が首を傾げている間にも、ブクブクと泡を立てながら沈んでいく。あわてて、髪をひっつかみ、たぐり寄せて、一気に小舟に引き上げた。

「ふー、やっぱり、死んでるのか。えーい、ままよ、息戻しの術だ」

 息戻しの術とは、小石川養生所の若先生が新吉に語った術である。上野の不忍池で溺れた小童こわっぱに息を吹き込み生き返らせたという自慢げな話を、新吉は若先生から直に聞いた。その時は、いつか自分もそんな人助けがしたいと思ったが、実際に、死んでいるかもしれぬ者に口づけるのは勇気のいることであった。

 結局、若先生の高い鼻が新吉を決意させた。唇を合わせて、三度、四度と息を吹き込むうちに、娘はびくりと胸を震わせて、呼吸し始めた。

「おい、大丈夫か?」

新吉は、娘の顔を覗き込みながら、顔をしかめた。娘の息が匂うのである。木乃伊みいらの匂いとでも言いたくなる枯れたカビのような匂いである。その娘が目を瞬いた。

「おい、聞こえるか?」

肩を軽く揺すると、娘は淡褐色の瞳を一瞬だけ煌めかせて、頷いた。

「よかった、よかった。ほれ、これでも被ってろ」

そう言って、わらむしろを渡した。娘が震え始めたのである。


「お前、喋れねぇのか?」

むしろを巻き付けた娘は、黙って首を横に振る。

「行くあてはあるのか?」

と新吉が問うても黙り込んでいる。

 れっきとした身元不明人である。辻番に届けるか、それとも吉原の上流にある投げ込み寺にでも置いて行くかと迷うが、震える姿は哀れである。新吉にあてがなかったわけではない。

「仕方ねぇ、何とかするよ」

娘は、新吉の言葉を分かったのか分からないのか、曖昧な表情を見せた。

 愛想のない娘である。竹筒の水を飲みほした時も、新吉が取っておいた握り飯を二口で食べた時も、礼の一つも言えなかった。だが、何とかすると言った以上、何とかするのが江戸っ子だ。


 結局、新吉が頼れるのは、本家の霧嶋屋伊藤家であった。住み込み下女のウメばあに

「行き倒れだ。何とかしてくれ」

と言って、娘を預けると、新吉は逃げるように自分の離れに帰っていった。ようするに、新吉は、面倒な事は、他人に任せるに限ると考えている今どきの若者であった。

 ウメは溜息をつきながらも、娘の体を拭き、粥を食わせて、事の次第を当主の伊藤伊兵衛政武に報告した。


 翌朝、新吉は政武から呼び出された。

「新吉、なんのことかわかっておろうな」

 政武は火の入っていない長火鉢の向こうから鋭い視線を投げかけた。

 暖簾分けした植木屋も入れれば、人足百人余りの一門の頂点に立つのが四代目伊藤伊兵衛政武である。彼は、頂点に相応しい厳格な当主であったが、それは仕事に対してであり、それ以外の事では、至って温厚であった。ただ、この日は違った。それを敏感に感じ取った新吉は

「父上、申し訳ございません」

素直に謝りながらもこう言い足した。

「溺死しかけていた小娘、私が息戻しの術で生き返らせました。これも何かの縁、面倒を見てやるのが霧嶋屋の矜持と心得ます」

「新吉、もってまわった言い方はやめぬか。犬猫じゃないんだ。一体、どうするつもりだ」

「どうも、こうも、あの小娘はウメばあに任せるしか……」

「つまり、何も考えていないと言うことだな。お前はいつも、そうだ」

「へい、生まれが悪いもので」

減らず口は今どきの若者の特権である。

「それも聞き飽きたわ。嫡男ではないとはいえ、お前は伊藤家の一員。もう少し、しっかりしてもらわねば……」

 新吉は、政武の妾腹の子とされているが、実際の所、政武と血のつながりはない。もちろん、新吉は知らない。それでもわが子同然に育てて来た政武には愛しい子には違いない。その新吉がことあるごとに妾の子だからと言い訳するのだ。面白いわけがない。

 政武は、大きな溜息をついた。

「もうよい。お前にはあの娘を弟子として面倒を見てもらう」

「へっ、弟子?」

「そうだ」

「まさか!」

「そのまさかだ。兎に角、今日からあの娘は、霧嶋屋の者だ。弟子として大切に育てよ」

「それはまた、一体どういうことですか? どこの馬の骨とも分からぬ女子おなごを植木屋にしろとは……」

「馬の骨ではないかもしれぬ」

「何故ですか?」

新吉の問いに、政武は一瞬黙ってから口を開いた。

「……これを見ろ」

そう言って、政武は長火鉢の引き出しを開けて、木綿の包みを手渡した。

 くるまれていたのは、黒光りする円盤で、端に丸い穴が空いている。

「銅銭ではねぇな」

大きさは大銭と呼ばれた寳永通宝よりもさらに一回り大きいが、重量はそれほどでもない。

「表を見てごらん。紋が入っている」

新吉がひっくり返すと円周にそって七つの円が描かれ、内一つが裏側から見えた穴になっていた。

「ああ、ほんとだ。丸に星梅鉢? 梅紋なら花弁は五枚だが、こりゃ、七枚だから……」

「見たことがない紋だ。八丁堀の紺屋にでも聞いてみてくれ。染物屋なら紋の一覧ぐらいはあるはずだ」

「ってことは…… そいつがわかれば、娘がどこの家の者かわかるという算段か…… どこかのお姫様かもしれねぇのか」

「かもしれぬ」

「あんな案山子みたいな童女が……」

新吉は宙を睨み、何やら考えている様子。その頭の中に政武が割り込む。

「これ、新吉! めったなことをするでないぞ」

「へい!」

「へい、ではない。はいと言え」

「はいはい。所で、父上、姫様なら植木屋の弟子になんぞしなくともよいのでは?」

「新吉、お前は、虫愛づる姫君という話を知っているか?」

「最近はやりの赤本ですか」

「違う。虫愛づる姫君というのは、眉も剃らず、お歯黒もせぬ姫だ。堤中納言物語の一節で……」

「ふぁ~」

 あくびをかみ殺す新吉に、政武は怒りを覚えた。霧嶋屋伊藤家は一介の植木職人ではない。元は、大名の下屋敷に出入りし、露除けを仕事としていたが、才覚と熱意で植木屋になった。だが、その後、植木屋の頂点に登り詰めたのには、学があったからである。育種の知識だけではなく、古典にも造詣が深かったからこそ、時の将軍吉宗にも認められたのである。が、今どきの若者は古典なんぞ読まぬ。怒った所で、何も変わらない。政武は、怒気を霧散させた。

「……仕方ない。会えば一目瞭然であろう。行くぞ」

「へい、へい」

「一目瞭然とはいかぬ者もいるか……」

しゃきっとしない新吉を見つめ、政武は呟いた。


 政武は初めて新吉が霧島屋にやってきた時のことを思い出していた。宵五ツに突然訪れたお武家様は、人払いをさせてから、絹の産着に包まれた赤子を差し出した。紋のついた産着を取り去り、育てよと言って政武に裸の男児を手渡したのだ。勝手に使っては死罪となるやも知れぬ紋を、政武に見せつつ、それを己の懐にしまったのである。暗黙の了解である。このようなことが理解できねば、武家とは付き合えない。政武は黙って頭を下げた。

 以来、我が子として育てつつも、どこかしら、遠慮があったのかもしれぬ。子育ては植木のようにはいかぬ。厳しくすればいいと言うものではないし、甘やかせばいいと言うものでもない。

 人の親と植木屋とどちらが難しいだろうか。

「だが、思わぬ花を咲かせることもある」

政武は思わず、心の内を声に出していた。

「父上、何か言いました?」

新吉が先を歩く政武に問うた。

「いや、何でもない」

 政武は、濡れ縁で足を止めた。

「見よ、もう咲いている」

「寒桜ですね。もともと早咲きの種ですが……」

「だが、畑の寒桜はまだ咲いておらぬ。昨日は蕾も膨らんでおらなんだ」

「……」

新吉は首を傾げた。

「あの娘の所為かもしれぬ。冬を越した花潜り(ハナムグリ)も飛んでおった」

「はあ?」

新吉には父の言いたいことが分からなかった。

「あの娘は自分の名前も歳も覚えておらぬらしい」

「はい」

わからなくとも返事は出来る。

「娘にはさくらと名乗らせよう。そして、新吉、お前が六情を教えるのだ」

「六情?」

 六情とは喜怒哀楽愛憎である。そんなものは教えるものではないはずだが。

「そうだ。わかったか? 返事は?」

「はい」

 新吉はこの生返事にすぐに後悔することになった。



「美味いだろう?」

新吉は茶をすすりながら、横目でさくらを見やった。

 さくらは、濡れ縁に座って饅頭を頬張っていた。まるで童女のように嬉しそうにしているが、湿った黒髪と真っ白なうなじが匂い立つような色香を放っている。湿っているのには理由がある。つい先ほど、池の鯉を覗き込んでいたさくらは、水に落ちたのである。

「美味いなら、ウメに礼を言え」

さくらはきょとんとして、座敷でにこにこしているウメを見やった。そして、なるほどと頷くと、

「おウメさん、ありがとうございます」

と言って、ぺこりと頭を下げた。

「どういたしまして」

とウメはにこにこしたまま言った。

「新吉さんは、お礼は言わないの?」

「へっ? 何を!」

「美味しそうにお茶を飲んでいるではないですか?」

「茶?」

「美味しくないのでございますか?」

「う、美味いぞ。ウメばあの茶は美味いに決まってらぁ」

「ぷっ」

ウメが吹きだしながら、

「素直な新吉さまも珍しいですのう」

「め、珍しくなんかねぇ」

新吉は真っ赤になって、横を向いた。

「あはっはっはは」

「ほっほっほほ」

にぎやかな女子の笑い声に

「げ、下品な笑い方をするな!」

「あははは」

「おほほほ」

笑いは笑いを誘う。終いには、新吉も笑い出した。

「がははは、はっははー はっはっはー」


 最初のころは、笑うこともなかったさくらであるが、この三月ほどでずいぶん変わった。トンボを追いかけ、水琴窟の音に驚き、芋虫の羽化に感動し、毬つきを練習し、勧進相撲では手に汗を握っていた。

 さくらが、虚無僧の托鉢椀に芋虫を入れて、『楽しんでくださいませ』と言った時は、新吉は冷や汗をかいた。そして、慌てて、文銭一結を差し出した。

 人の感情を解せぬのかと思うと、虫や鳥獣の気持ちはわかるようである。器用に蝶を指先に留まらせたこともあったし、芋虫の好む葉を見つけ出すのも上手かった。巣から落ちた雀の雛が、介抱のかいもなく死んで、涙を流したのはつい先日のことである。


 頭はいいようである。新吉に赤本を読んでくれとせがんでいたと思ったら、いつの間にか、市中を練り歩く貸本屋の後を追うようになったし、白山権現前の露店の詰将棋屋では、煎餅をやるから帰ってくれと言われるほどの腕である。

 もっとも、意味不明な言動を吐くことも多かった。『黄色い太陽は目に優しいわね』と呟いたり、にわか雨に『危ない、危ない、肌が溶ける』と叫びながら、軒下に飛び込んだこともあった。何か怪しげな本でも読んだのかと新吉は頭をひねったが、彼にはわからなかった。


 新吉だけでなく、周りの者皆が驚いたのは、身体つきの変わりようである。伊藤家に来たころは、がりがりに痩せ、案山子か、即身成仏ではないかと思ったものである。

 ところが、あれよあれよという間にふくよかになっていった。白米を食べるたびに、それが肌に吸い付いていくような錯覚を新吉は覚えた。態度はまるで子供であるが、体は女である。見ようによっては、二十歳と言われてもおかしくない。立っているのが不思議なぐらい細かった脛が、大根のように太くなり、艶めかしくなっていた。



 飛鳥山手前の一里塚のそばでたけのこを堀った帰り。さくらを背負った新吉は、さくらが成熟した女子おなごであることを実感していた。

「さくらは食いすぎだ」

「だって、酸っぱくて、甘くっておいしかったんだもの」

さくらは唇を尖らせて言った。

痛取いたどりは生でも食えるが、あんなに食っては気分が悪くなるのも道理だ」

「いいじゃない、たまには」

そういう口調は子供だが、新吉の首筋にかかる息は、最近はやりの乳香散の臭いがする。大人の臭いである。背に触れる餅のような感触と生暖かい息に、新吉は

「なんまんだぶ、なんまんだぶ」

と唱えて、身体が火照るのを抑えた。

「あっ、それ知っている。阿弥陀仏様、お救い下さいって意味でしょ?」

「まっ、そんなとこじゃねぇか」

「やっぱり」


 存外元気のいいさくらに、新吉がほっとしたのも束の間。疲れて寝入ったさくらは意外に重い。筍もたっぷり持たされているから、新吉には一歩、一歩がつらい。

「千里の道も一歩からって誰かが言ってたが、こんなに重い荷を背負っている俺は、よっぽど偉いに違いねぇ……」

霧降橋を渡りながら、新吉はぼやいた。

「おい、そこのメジロ! 突っ立ってねぇで、俺を手伝え!」

その冗談に、欄干に止まっていたメジロが呼応する。

『チュッ、チュッ、チュルル』

さくらの腕にそのメジロが留まった。新吉が横を向いたすぐの所だ。目の周りが筆で描いたように白く、その中にはきれいな褐色の宝石が埋め込まれている。その瞳の中で星が煌めいた気がした。


<<<現地暦平成二十六年四月)>>>


『チュッ、チュッ、チュルル』

メジロが鳴き、鳥山桜は我に返った。

「あれっ? 夢?」

桜は欄干から半ばのりだしていた。両手はペンキを塗った欄干を強く握りしめていた。もう少し、身をのりだしていたら川に落ちてもおかしくない。

「ひっ!」

両手を突き出すようにして慌てて飛び退り、歩道に尻餅をつく。

「あ、危なかった―っ…… 無意識に身投げしようとしていたとか? 就活ノイローゼで自殺とか? ニュースにもならないわね……」

桜は胸に手をあて、次第に落ち着いていく鼓動を確かめた。


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