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コンビニ眼鏡

作者: のり

「別れたいんだけど」

 唐突に突きつけられた言葉。咄嗟に返す言葉を見つけられず、私は黙り込む。

希美(のぞみ)の事嫌いになったとかじゃなくて… 何て言うか会っても何も感じないっつーか」

 黙ってただ見つめ返すだけの私に、シュウタは言いにくそうにつっかえつっかえ、でも私が聞きたくない言葉を確実に口にしていく。

 正直、何となく予感はあった。この所シュウタは何だか上の空というか、はっきり言ってしまえば楽しくなさそうなのに無理して私に合わせてるっぽいのが丸分かりだったし。

 だからデートの約束もないのに「今から会える?」ってシュウタからメールが来た時には、漠然とした嫌な感じがした。いつも待ち合わせ場所に使うバイト先裏の路地に、自分から呼び出しておいて五分遅れで現れたシュウタの顔を見た途端、私の心臓はドキンドキンと嫌なリズムを刻みだす。そしてそんな私の顔なんて見ようともしないでシュウタは開口一番に言った。「別れたいんだけど」と。

「俺は二股かけたり、好きでもない女と付き合える程器用じゃねーし。だから俺達もう終わりにしよう、な?」

 それって要するに他に好きな女が出来たって事、だよね? 心の声は、だけど本当の声にはならなかった。私は馬鹿みたいに黙ったままシュウタを見ている事しか出来なかった。

「…じゃ、俺行くわ。ケータイのお前のデータ、もう消したから、お前も俺のデータ消しといて。もう連絡取る事無いだろうし」

 沈黙に耐えられなかったのか、シュウタが足早に私の横をすり抜けて行く。「待って」の一言が、どうしても言えなかった。心の中で何度も繰り返すその言葉が、何故だか胸がつかえたようで声にならなかった。

 次第に小さくなっていき、細い路地を抜けて幹線道路へと消えていくシュウタの後姿に、私は何の言葉も掛ける事が出来なかった。

 ポタリ、と握りしめた手の甲に、目から温かい雫が零れ落ちる。こんな悲しい気分でシュウタの背中を見送ったのは初めてだった。

 シュウタは私の初めてのカレシだった。三つ年上で高校生の私から見たら大学生のシュウタは大人で、大好きな自慢のカレシだった。

 ―――なのに。

「…ふ…っ」

 次々と涙が溢れてきて頬を伝い落ちる。頭の片隅で、化粧が落ちるから涙止めなくちゃ、とか考えるけどどうやっても涙は止まってくれなくて。それでも声だけは必死に押し殺す。だけどそれは無駄な努力で、次第に呼吸が乱れて嗚咽が始まる。ああ、こんなに必死に泣くのって、いつぶりだろう。

 子供が泣きじゃくるみたいに、私はしゃがみ込んで膝を抱える。服が汚れたってもういいや。どうせお洒落したって見てくれるシュウタは他の女のとこへ行っちゃったんだから。

「う…うっ、ひっく…」

 段々本格的に止まらなくなる嗚咽に息苦しさを覚えながら、私は空を仰ぐ。さほど高くないテナントビルに切り取られた狭い空は、どんよりと曇っていて今にも雨粒が落ちてきそうだ。もういっそどしゃ降りの雨が降ればいいのに。そんな事を思う。

「おい、ごみ捨てにいつまで掛かってんだ」

 突然背後のビルの裏口から人の声がした。私は慌てて立ち上がると、声のした方を振り返る。忘れてた。ここは場所が悪い。

「…あ。」

 振り返った視線の先で、裏口の壁に背をもたせ掛ける格好でタバコをふかしている人物とバチッと目が合う。冷めた眼差しのせいで冷たい印象を与える、何となく一筆書きで描けてしまいそうな余計な線の無いすっきりと整った顔。私は頭の中が真っ白になった。

 ヤバイ、その人物の整った顔にそう書いてあるのが見えたような気がした。

まさか、今の、見られてた?

 咄嗟の事に逃げ出す事も、見ていたのかと問い掛ける事も出来ず、私は目を見開いてその人物と見つめ合う。肩幅はあるのにほっそりとしていてひょろりと手足が長い、少し猫背気味の立ち姿でタバコをくわえたその人物も、何となく気まずそうに視線を伏せながらも、こちらの様子を伺っているように見えた。

 …油断してた。この路地では滅多に他人に出くわさないから、誰も居ないと勝手に思い込んでた。このテナントビルの一階部分は大手コンビニのフランチャイズ店で、この路地はそのコンビニの裏口に面している。

「そこでタバコ吸うなよ。いつも言ってんだろ」

 裏口の奥の方から再び声が響く。さっきよりも声が近い。私はとっさに隠れようか、逃げ出そうか迷う。だけど今更逃げ隠れしたところで遅いと気付く。だってもう、目の前の人物には見られてしまっているから。

 ぎゅっと唇を噛み締める。私は覚悟を決めて裏口にもたれかかってタバコを吸う人物を睨みすえた。笑いものにしたければそうすればいい。他人の不幸は、絶好の話のネタだ。

 だけどその人物は、深く吸い込んだタバコの煙をふうっと吐くと、温度の低い眼差しを私に向けたまま、言った。

「ねぇ店長。失恋して泣いてる女の子って、どうすりゃ泣き止むんっすかね?」

「はああ?!」

 裏口のすぐ奥で、間抜けな声が上がる。だけど私はそれを笑う事は出来なかった。だって私も心の中で全く同じ声を上げていたから。

定宗(さだむね)、お前何言って…おわっ!」

 奥からコンビニの制服を来た人物の影がちらりと覗いたと思った瞬間、タバコをくわえた人物が目の前のゴミ袋を、その人影目掛けてえいやっと投げ入れていた。

「何してんだっ、せっかく出したゴミをまた戻してどーすんだよ!」

 奥の人影が怒鳴っている。定宗と呼ばれたくわえタバコの人物は

「いやー、捨て猫ちゃんが泣いてるんで、今は外にゴミ出せないっす」

すごい棒読みで奥の人影に答えると、ゴミ袋をぐいぐいと裏口から押し込みながら、私に向かって敬礼をするようにタバコを挟んだ手を上げる。今の内に行けって事だろうか。

「捨て猫だあ? ったく最近はカラスも賢くなりやがるし、何だかわからねー動物がうろうろしてやがるし、ゴミひとつ出すのも楽じゃねー世の中だな!」

「あー、カラス避けネットでも買ったらいーんじゃないすか」

「カラス避けネットって猫にも有効か?」

 ぶつぶつ言う声を最後に、二つの人影はゴミ袋と共に奥へと消え、私はほっと胸を撫で下ろした。だけど問題は、まだ残っている。

「…見られた、よりにもよって、定宗に!」

 私は唇を噛みしめると、その場から逃げ出すように駆け出した。

いつの間にか涙は止まっていた。


 憂鬱だ。

 私は一秒一秒先へしか進まない時計の針を睨みながら、溜息をつく。時刻は夕方の七時五十分。ガラス越しに見える外の景色は、もうすっかり夜の色だ。保温ケースに商品の唐揚げを補充しながら、時間が経つ毎にのしかかってくる憂鬱さに再び溜息が出た。

「何だ、さっきから溜息ばっかりついて。腹でも壊してんのか」

 背後からの声に、私はばっと振り返る。

「お腹痛いと溜息つくんですか、店長! だいたい女の子に向かって腹壊してんのかってフツー聞かないでしょ! ないってソレ」

 店の制服を着た三十代後半のくたびれたおっさんにしか見えない店長が、私を見下ろしていた。背が無駄に高くて痩せている分、余計に何かに疲れて見えるから気の毒な人だ。

「やたら時計見てるし、上がりの時間を待ってトイレでも我慢してんのかと思ってな」

 …デリカシーの無いオッサンだ!

「我慢してません。お腹も痛くないし!」

「…なら別に構わんけどな。…あ、カレシとデートか? だから時間気にしてんだろ」

 ヤラシイ笑みを浮かべ店長が冗談めかして口にした言葉は見事に私の胸に突き刺さった。

 カレシとは昨日別れました、そう叫びたい衝動に駆られる。けどそれを店長にぶつけたところで、ただの八つ当たりだ。店長だって知ってて言ってるんじゃないんだし。

 自分で自分の心を必死になだめながら、私はようやく「オッサンがカレシとか言うな、キモイ」そう言い返す。無神経な店長の言葉に対して、これ位の反撃は許されるだろう。

「お、オッサンって言うな! 俺はまだオニイサンの範疇だろ!」

「キモイ」とがなりたてる店長を一蹴して、仕事に戻る。コンビニのバイトはレジに立つだけが仕事じゃない。やる事は結構あるのだ。

 私はゴミ袋を手に外へ出ると、店の前に設置されたゴミ箱の袋交換とゴミ拾いを始める。店内に居るよりも外での作業の方が時間が経つのが早い気がする。それにアイツと顔を合わせずに済む確率も高いような気がしたから。

「おはやーっす」

 物思いに耽りながら金バサミで店の前に捨てられた吸殻を拾っていた私は、背後から何の気配も無く掛けられた声に、文字通り飛び上がるように驚いた。

「…っ!」

 スーパーボールが跳ね回るように暴れる心臓を押さえながら、私は飛び退る。

「…どーゆーリアクション、それ」

 温度の低い目でぽそり、とソイツは言った。

登場していきなり人の神経逆撫でするその冷めた態度に怒りを覚えながらも、私はとりあえず挨拶を返しておく。

 出た! 私の心の天敵、定宗(さだむね)剣人(けんと)

 金バサミとゴミ袋を構える私に定宗剣人はまるで初めからそこには何も無いかのような無関心さでさっさと店の扉を開け、レジ前の店長に向かって抑揚の無い声で挨拶する。

「…くっそー、今日もムカツク男だな」

 私はメガネのフレームを押し上げ定宗の背中を睨む。私はこの男が大嫌いだった。何が楽しくて生きてんだかわからないテンションの低さとか、人を置物程度にしか認識してなさそうな無関心ぶりは勿論の事、そのくせ店長とか他のバイトの子に時折見せる大型犬みたいな人懐っこい笑顔とか、ほんと大嫌い!

だけど、よりにもよってその大嫌いな男に、シュウタとの別れの場面を見られるなんて。

一生の不覚だった。

 私はゴミ袋と金バサミを持って店の裏口へと回り、それらを片付けるとそのままスタッフルームを通って店内へ向かおうとする。

『だから俺達もう終わりにしよう、な?』

 不意にシュウタの言葉が頭の中でして、思わず足が止まる。薄暗い路地にはシュウタは勿論、他に誰も居ない。私は唇を噛んだ。

 いつもバイトが終わるとこの路地でシュウタと待合わせて、二人で手を繫いで家まで歩いた。ほんの三十分程の道のりだけど、その時間はすごく幸せで家に帰るのが一分でも一秒でも長びくように、わざとゆっくり歩いた。

「…誰も居ない。…当り前、か」

シュウタの居ない路地を見るのは嫌だ。自分達がもう他人になってしまったんだという現実を突き付けられるのが怖かった。涙が滲みそうになって私は咄嗟に鼻をすすってそれを誤魔化し、視線を無理矢理に路地から引き剥がすと裏口をくぐった。

 誰も居ないスタッフルームはしんとしていた。無機質な壁に区切られた、ロッカーと机とパイプ椅子しかない部屋は、やけに白々とした蛍光灯の光に照らされて何とも言えない虚無感が漂っていた。足早にその寂しい空間を抜けて、店内へと出る。定宗の顔を見るのは嫌だったけど、それもあと半時間の辛抱だと思えば、我慢できる。

 ――そう、私と定宗は同じこのコンビニのバイトだ。私は学校が終わってから夜の八時半まで、定宗は夜の八時から朝の五時までのシフトだから、実際に顔を合わせて働くのはほんの三十分だけなのが救いだ。

 レジに立つ店長と定宗の背後を通り、私はさっさと店内の商品の補充作業に取り掛かる。少しでも定宗と距離を取るように。

「そういや定宗、お前昨日ゴミ出しの時、妙な事言ってたよな」

 店長の声が黙々と作業をする私の耳に届く。思わず手が止まり鼓動が跳ねた。

「失恋して泣いてる女がどーのこーのって」

「――あー、あれね」

 私は仕事も忘れて思いきり二人の会話に聞き耳を立てる。それって昨日の事だよね? 手足の先がすーっと冷たくなる。他に客は居ないせいか二人に声を潜める様子は無かった。

「俺、女泣かせるのなんてどーって事無いんっすけどね。たまたま他の男に泣かされた女の子見ちゃって」

 本人を目の前にしてのわざとらしい会話に、私は心臓が止まるかと思った。

「…お前、発言の前半部分は人間としてどーよ、って思うんだが」

 店長の呆れた声は私の耳を素通りする。

「可哀相に、あんな可愛い子泣かすなんて馬鹿な男もいるもんっすよね」

「俺は見てくれに騙されてお前に泣かされてる女の方が、よっぽど可哀相だと思うがな」

「何気に酷い事言われてない、俺? でもそれは自業自得でしょ。俺の性格が悪いのを知ってて。わざわざ寄って来る方が悪いんす」

 いけしゃあしゃあと言ってのける定宗に、店長も呆れた目を向けた。

「…サイテー」

 瞬間、店長と定宗の視線がこっちを向いていた。私は自分が思った事をそのまま口走っていた事に気付き、さーっと血の気が引く。

 何でこんな時だけ。シュウタのとの別れ際には何も言えなかったくせに。自分自身に嫌気がさす。

 視線の先で定宗がいつもの温度の感じられない無表情でこっちを見ていた。

うわ、怒ってるよ…

 私は人の話を盗み聞きした挙句、暴言を吐いた自分が恥ずかしくて居たたまれなくなり、慌てて店を飛び出す。

永澤!?と私の名前を呼ぶ店長の声が閉じる扉に遮られ小さくなる。それでも定宗の冷たい視線がいつまでも追って来るようで、慌てて店の角にある自販機の陰に隠れた。ここなら死角になって二人からは見えない。コンビニのガラス張りの店舗は、こんな時不便だ。

 だけどどうしよう。このままバイトの時間が終わるまでここで隠れてる訳にもいかない。

…もういっそこのまま家に帰るか、私!?

そんな事を必死で悩んでたら。

「人をサイテー呼ばわりしといてかくれんぼって、どーゆー行動パターンだメガネっ娘」

 突然背後から声がして、私はぎやーっ、と変な悲鳴を上げて飛び上がった。

「…だから何だよ、そのリアクション」

感情の薄い顔にそれでも形のいい眉を寄せ、不機嫌さを表した定宗が私を見下ろしていた。

「い、いつの間に!」

 口走ってから気付く。裏口から店を出てぐるっと裏を通って来れば、店の入口だけを気にしていた私の背後に立つ事は簡単な事だ。

「どうでもいいけど、仕事さぼるなよ」

 定宗はそう言うと右手を握りしめ私の顔の前に突き出す。一瞬グーで殴られる!?とぎゅっと奥歯を噛みしめ目を瞑るけど、一向に痛みはやってこず私は恐る恐る目を開けた。

「…ホレ」

 私の目の前で定宗が握っていた右手をそっと開くと、そこにはキラキラとした包装紙に包まれた小さなチョコが二つ。

「え…チョコ?」

 意味が分からず、私は目を見開いて定宗の顔と掌のチョコを交互に見つめた。

「コレやるからさっさと仕事に戻りなさい」

先生みたいな口調で言われて、何だか自分も叱られた生徒みたいな気分になる。でも何でチョコなの、とか思ってたら

「女って甘いもん好きじゃん」

心を読んだみたいに掌をもう一度突きつけられ、仕方なく私は定宗の手からチョコをひとつ受取ると包装紙を開き、口へ放り込んだ。

「………甘い…」

 口の中に広がる甘さに、私は何故だかシュウタのキスを思い出して目の奥がつんとなる。大好きなシュウタとのキスはいつだって甘くて温かくて、とろけそうになった。

「――うえっ、やっぱ甘…。何で女ってこんな甘ったるいもん平気で食えるか…な…」

 もうひとつ余ったチョコを自分で食べながら呟いた定宗の言葉が、不自然に途切れる。

 その理由に思い当たって、私は慌ててそっぽを向いた。

「――泣く程嫌いなら、無理して食うなよ」

 ぶっきらぼうな口調。だけどその裏には動揺が見え隠れしていて、私はつい

「女泣かせるのなんて、どーって事ないって言ったじゃんっ」

なんて憎まれ口を叩いた。失恋現場を見られた上に泣き顔まで見られるなんて、もうあり得ない失態だった。

「あの、これ俺が泣かした事になんの?」

 綺麗な顔に似合わず無頓着にぼりぼりと頭を掻く定宗に、「アンタのせい!」って舌を突き出す。もうこうなったらとことん八つ当たりしてやる。そう決めて私はメガネを押し上げるとぐいっと涙を制服の袖で拭いて、真正面から定宗を見上げた。――その時。

「…希美!」

 名前を呼ばれた。その声に心で何を思うよりも先に、身体が声の主を求めて動いていた。

「…シュウタ…?」

 何で? 胸が詰まるように息苦しくなる。

「ゴメン! ホントゴメン! 昨日はあんな事言ったけど、やっぱ俺お前でないと駄目だわ。だからもう一度俺と…」

 呆然と立ち尽くす私にシュウタは両手を顔の前で合わせて言った。何、どういう事?

 いきなりの展開に頭が着いていけない私は、馬鹿みたいにシュウタの顔を見た。口の中に残るチョコの甘さが急に苦い後味に変わった。

「それって…」

 ヨリを戻そうって事? あんなに一方的に別れ話を切り出して、私を切り捨てたくせに。他に好きな女が出来て、そっちに行ったんじゃなかったの? そうは思うけれど、その一方でシュウタがまた自分の元に戻って来てくれた事を嬉しく思う自分も居て。

 言いたい事はあふれる程あった。だけど昨日と同じでそれはどれひとつとして言葉になって出て来てくれはしない。なのに心の中の声は増えて膨らんでいく一方で、吐き出せない思いが私の中でぎゅうぎゅうとせめぎあう。

 苦しい。苦しい。もしここで私がうんと頷けば、この苦しさから解放されるのかな。そうすればこの心の中の声も、昨日よりも前の私達に戻ることで、消えてくれるのかな…

「希美!」黙ったままの私にじれたのかシュウタがもう一度私の名前を呼ぶ。シュウタに名前を呼ばれるのが好きだった。そうして髪を撫でて身体を寄せ合って、馬鹿みたいな話をして笑い合う時間は私にとって宝物だった。

「…あの。悪いけど今バイト中なんで、私語禁止。って事で帰ってくれる?」

 ほろ苦い場の雰囲気を物ともせず、いきなり定宗が私の腕を強く引っ張ると、シュウタに温度の低い態度で言った。私はその気の抜けたような一言で、胸の中で膨らんでいた様々な思いがすーっと萎んでいき、呼吸が楽になったような気がした。

「な、何だよ! お前に関係無いだろ!」

 シュウタが定宗を睨み付けて怒鳴る。

「あー、無いなぁ。無いけど仕事中にいきなり押し掛けられても迷惑だって、普通は考えると思うけど」

 対する定宗は口調こそ抑揚の無い無感情さだったけど、言ってる内容は事実だけに辛辣だった。私は定宗に腕を掴まれたまま、ハラハラと二人を見る。

「…あの、シュウタ。ゴメンもうちょっとで上がりだから、それまで待ってて?」

 シュウタの、今にも定宗に飛び掛りそうな雰囲気に、私は咄嗟にそう言った。だけどそうして待っててくれたシュウタと、私は何を話せばいいんだろう。思っている事の一つも言葉に出来ないのに。

「…わかった」

 渋々って感じでシュウタが頷く。なのに

「えぇーっ、メガネっ娘まさかコレとヨリ戻すつもり?」

定宗が思いっきり眉をしかめてシュウタを指さし私にそんな事を言ったもんだから、せっかく収まりかけていた場の雰囲気が、一気に剣呑なものになってしまった。

 な、何でアンタはそんな余計な事を言うの! せっかくの私の努力が水の泡でしょ!

「さっきからムカつくなっ、お前! だいたいお前店長でもないただのバイトだろ!?」

 激怒したシュウタは、定宗のお仕着せの制服の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。

「やめ…っ」

 慌てて二人の間に割って入ろうとするけど、定宗に腕を引かれて逆に背中に庇われる。胸ぐらを掴まれた定宗は平然と温度の低い眼差しをシュウタに向け吐き捨てるように言った。

「ただのバイトでも社会のルールは知ってる」

ぐっとシュウタが言葉に詰まる。それを見た定宗がシュウタの手を払い除け、私の腕を引いて店に戻ろうと踵を返した。私はどうすればいいのか分からずシュウタを振り返る。

「…お前! この店に居られなくしてやる」

 私の視線の先で憎々しげに歪めた顔を上げたシュウタが、絞り出すように呟いた。それは私が知ってる優しいシュウタじゃなかった。

「どうぞ、別に俺は困らないから」

 さらりと受け流す定宗に私はぎょっとした。

「ふ、二人共冗談だよね…?」

「この店だけだと思うなよ! 俺の先輩でこの辺に顔の利く人が居るから、お前なんかどの店でも働けなくしてやるよ!」

 そう怒鳴るシュウタの顔は醜悪で、テレビのドラマでよく見るチンピラの顔にそっくりに思えて、私は何だか怖くなってしまうと同時に、自分の中にあったシュウタへの想いがすぅと熱を失っていくのを感じた。

 ピタリと定宗の足が止まる。シュウタはそんな定宗を見て満足げに顔を歪めた。だけど振り返った定宗は今までで一番温度の低い、まるで触れるとこっちの手まで凍りつきそうな冷たい目をして、シュウタに言った。

「どうぞご自由に」

 とうとうシュウタが怒りを爆発させた。

「何様だよ、お前!」

 人目も何も気にする余裕無く、シュウタが怒鳴り散らす。対して定宗は憎らしい程の冷静さでとんでもない事を口にした。

「ここのコンビニのオーナーですが。ちなみにこの辺一帯のコンビニも、全て俺がオーナーです」

 冷静な表情とは裏腹に、エヘン、と小学生が百点のテストを見せる時の自慢げな態度そのままに、手を腰に当てて胸を張るポーズで。

「えええええええええええっ!?」

 辺りに響き渡るような大声を上げ、シュウタと私は一斉に定宗を見た。

「…何だあ、お前らうるさいな! いつまでサボってんだ。とっとと仕事に戻れよ」

 店の扉から店長が顔を出し、何とも場違いな声を掛けるのに「あー、スンマセン。今戻るっす」と定宗はいつもの冷めた口調で返し、

「そういう訳で、キミ。今すぐ帰って、もう二度とメガネっ娘に近づかないように。でないと営業妨害で訴えちゃうぞー」

唖然としたままのシュウタにビシッと指を突きつけたんだった。


「ったく何揉めてんだ。こっちは客商売なんだから、余計な揉め事は勘弁してくれよ」

 店に戻ると店長が渋い顔で私達に言った。

以後気をつけます、とか適当な謝罪で定宗がまるで何も無かったように仕事に戻るのを、私はまだ信じられない思いで見ていると、

「永澤、サボった分残業してけ」

店長がぼそっと恐ろしい事を言った。だけどそんな事は些細な事だ。私はガシッと店長の制服を掴むと、

「店長ってここのオーナーじゃないの!?」

声をひそめて問い詰める。一瞬ぎょっとした目になった店長は、やがてふうと息を吐くと

「アイツが自分で言ったのか?」と目で定宗を指した。頷くと店長はそうか、と呟いて困ったような顔をしながらも、話してくれた。

「俺はまー、なんちゅうか雇われ店長? んでアイツがここのオーナー」

「何でそんな事になってんですかっ、だいたいいっつも店長は偉そうで、定宗は下っ端っぽい態度ですよね!?」

「下っ端って…あれはアイツが歳相応のバイト扱いしてくれって言うからだな…」

 そう一旦言葉を切って、店長はちらっと定宗の方を窺うと、言った。

「定宗の事が知りたいなら直接本人に聞け」

 …っていう事は、本当なんだ。定宗が少なくともこのコンビニのオーナーだって事は。――いや、待った。そういえば聞いた事がある。この一帯は元々とてつもない大金持ちの爺さんの所有地で、大部分の店舗やビルはその爺さんが経営しているんだって。確かその大金持ちの爺さん…何だっけ、一升瓶にでも貼ってありそうな名前だったような気が。もし定宗がその爺さんの身内だとしたら、この辺りの全てのコンビニのオーナーだっていうあの言葉は本当なのかもしれない…

「あ、あり得ない…」

 蒼白になる私の耳元で、

「何があり得ないって?」

ボソリと温度の感じられない声がして、またまた飛び上がらんばかりに私は驚いてしまう。

「……だから何でそのリアクション」

 それはアンタが気配無くいつもボソッと囁くからでしょ! バクバク言ってる心臓をなだめつつ、私を覗き込む定宗を睨み付けた。

「何でオーナーのくせに深夜バイトなのよ」

 オーナーなら別に働かなくっても儲けはあるはず。定宗はきょとんとした顔で私を見ると、ああ、と納得したようにぽんと手を叩いた。…そのリアクションこそ、何なんですかと聞きたいわ。

「人間、働かないと視野が狭くなるし」

 ちょっとなるほど、とか思った私は、だけど続く定宗の言葉に硬直してしまった。

「メガネっ娘って、もしかして…昨日裏口でさっきの男にフラれてた女の子?」 

 カッと頬に血が上るのが自分でもわかった。

薄々そうかなと思ったけど、コイツは昨日の女の子が私だってわかってなかったんだ!

 まあでもそれも無理ない事かもしれない。私は普段コンタクトをしていて化粧もそれなりにしている。だけど朝からずっとコンタクトを入れているととても目が疲れるから、コンビニのバイトの時はコンタクトを外して、ついでに化粧も落としているのだ。バイト中の私しか知らない定宗がメガネにすっぴんの私と、コンタクトをして化粧で顔を作っている私を同一人物だと気付くのは難しいと思う。 

「何か昨日見た子と一致しないんだけど…」

 そう言うといきなり手を伸ばして私のメガネを取り上げてしまった。まさかそんな事をされるとは思わなかった私は、ぼやける視界に慌ててメガネを取り返すべく腕を伸ばした。

「返してっ」

「――あ。昨日の女の子だ」

 定宗の手からメガネを奪い再び掛けると、はっきりと見えるようになった視界のど真ん中で定宗が意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「…やっぱ泣いてる顔がかわいいな」

 私は顔から火を噴きそうになった。な、何を言うんだ、この男は!!

「あー、だけど俺基本メガネっ娘って全く興味無いんだよなー。メガネ掛けてる時点で顔の区別あんまつかないし。だから次のシフトからちゃんとメガネは外して来るように!」

「ええーっ!?何でよ!」

 抗議の声に定宗は、レトリバーみたいな人懐っこい笑顔を浮かべ、「俺の好みだから。特に泣き顔が」と呆れる程あっさりと言ってのけたんだった。

「それに言ったよな俺。女泣かせるのなんてどーって事ないって。いろんな意味で泣かせてあげよっか。いやー今から楽しみだなあ」

 急に定宗が悪魔に見えて来た。レトリバーの人懐っこい笑顔の裏に、気紛れでわがままなシャム猫が顔を覗かせているように思えた。

「わ、私ここのバイト考え直そっかなとか」

 何だかとんでもない事になりそうな予感に、私は尻込みする。

「全然構わないけど。だってどこでバイトしようが、所詮は…ね」

 ニヤリ、と定宗が笑った。それはいつもの温度の低い顔じゃなく、きっとこれがこの男の本性なんだと直感する。私は背筋が薄ら寒くなった。

「さて。じゃ、とりあえず今日はサボった分しっかり残業よろしくね。…あ、店長休憩入っていいっすよ。後は俺達で」

「いやいやいやいやっ! 店長が居てくれないと! 例え雇われでも頼りになる店長が居てくれないと!」

「…何か腹立つな、永澤…」

 気を利かせたのか、店内の掃除を黙々とこなしていた店長が恨めしげに私を睨んだんだった。


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