「愛のある部屋」
黒い背表紙に、白に近い明るいグレーでタイトルが描かれている。そして、本屋にやって来た客がそれを手に取るか取るまいかの要である肝心の表紙は、ふたりの人間が向き合う形のあの有名な騙し絵をモチーフにした影絵だ。
手に取って裏返すと、定価1800円のバーコードの上に500円のシールが貼ってある。それだけでも安い。だがそれに加えて、500円シールに半分重なるくらいのところに105円シールが貼られている。つまり、中古本として100円にも満たない値段で買い取って500円という値を付けたものの、それでも売れない為に、セール品の105円コーナーに移動させられたのだ。
そこには同じ表紙の本がまだまだ数冊並んでいる。105円が一冊二冊三冊…。周りに並んでいる本は、黄ばみや日焼けが目立つような古いものばかりだった。
急に悲しい気分になって「愛のある部屋」をもとあった場所に戻す。
俺は、中古本や古本という類いの店では本を買わない主義だ。それが例え自分の書いたものでも。いや、自分のものなら尚更。
本は、誰にも触れられていない――暴かれてないまっさらな新しいものを正規の値段で買いたい。年代物や初版や絶版したものなど特定のものを求めて古本屋を物色するのならともかく、新書として本屋に並んでいるものをわざわざ中古で買うのは、未だに納得出来ない。
そもそも、一度か二度読んだだけで本を売ってしまう人は、どんな頭をしているのか気になる。本は夢中になって読んで、その興奮が醒めない内にまた何度か読んで、そして飽きた頃もしくはあえて時間を置いて忘れかけた頃にまた読むとおもしろいのだ。紙面上の文字だけじゃなく、その裏側に隠された意味――言葉にならない透明の何か――著者が真に伝えたかった何かがじわじわと染み出てきて、初めて読んだ時と違った味わいに気付くことが出来る。
職人が何年も何十年も使い込んでようやく手に馴染んだ道具は、もはや腕の延長というに相応しいのと同じように、その本に込められた著者の思いと重なって、いつの間にか読者は本を書く著者自身になるのだ。
その時こそ、読者の最高の楽しみの瞬間であり、読書の醍醐味だろう。
「愛のある部屋」は、去年作家としてデビューして10年の節目に書いた作品だ。
仕事場となっている自宅のリビングでその原稿用紙の束を見ていると、随分苦労して書き上げたのであろうひどく乱れた字と、推敲の跡があちこちに残っている。
小説はあくまでフィクションであり虚構であり、現実のものではない。登場人物たちも、探せばすぐそこにいそうな人間でありながら、実はそうではない。そんな虚構を虚構とせず、生々しく肉感的に、読者にとって身近なものにするには、やはり虚構の中に自分自身も飛び込まなくてはならない。
俺はいつもひとつの本を書き上げた後には、自分が磨り減って魂が半分以上持っていかれたような気分になる。そして改めて読み返すと、そこかしこに俺自身を感じる。よく、小説に登場する人物を自分の息子のようだ、分身のようだなどと話す作家がいるが、それも頷ける。
俺にとっては、どの登場人物も俺なのだ。
男でも女でも、例え真逆に思える性格の人物たちでも、彼らは俺だった。売れない画家の嶋津豊はもちろん、同棲8年目になってもプロポーズしてくれない恋人に不満を募らせる秋元由香里も、世間には公表出来ない同性愛に悩む真宮光一と崎原佳那汰も、旦那に愛想つかしてホステスとして働き始めた主婦・深津亜美も、ひとりで三つ子を育てるシングルマザー・小林裕美子も、独身のまま四十代になって将来に不安を感じ始めた雑誌編集長・野中一義も不倫問題で家庭に居場所のないタクシー運転手・廣瀬達也も。
「読者は嘘が好きなんだ、半分以上は嘘だと分かっていて騙される。でっち上げの何が悪い。嘘だって、誌面に並べば現実になるんだ」――そう豪語し、売上の為には多少の不正も厭わない野中や、そんな上司に対して「悪魔に魂を売る気か!」と一喝する部下、「僕は何十万何百万にもなる偉い絵を描きたいんじゃない…見る人の心に、絵を見ているその一瞬が永遠に感じてもらえるような絵が描きたいんだ」――無名画家・嶋津の純粋で真摯な言葉や、「私もお父さんの夢を応援したい。でも生きていくには稼がなくちゃ駄目なの。何をするにもお金がかかるの。結婚してから何十年私が働いてると思ってる? 頭が白くなっても働いていなくちゃならないの?」――嶋津の妻・貴子の切実な言葉も、全て俺の本音であって本音でない言葉だ。
彼らの中あちこちに、俺が持つあらゆる一面、一面が現れている。しかしそれは、例えば嶋津豊個人を通して、嶋津豊個人の言葉でもある。
彼らの言葉は俺の言葉でありながら、彼らの唯一のものだった。
例えばふたりの人間に全く同じ科白を言わせたとしても、そこに含まれる意味は決して同じにはならない。それを言わしめた背景、その言動の根拠――その人物の人生においての経験によって、その科白の必然性が際立ち個として確立する。単純な一言でさえ、根拠――その人らしさがあるからこそだった。
小説とは、そういうものでないといけない。
そしてまた、語りすぎてもいけない。小説は豊潤な「偽り」に満ちたものだからだ。
小説の言葉にリアリティーや真実味を生み出すものは、その「偽り」でもあった。例えば「愛」という言葉はもちろん「愛」を語ると同時に「憎しみ」をも、その他の感情をも表すだろう。「真実」のみを描写するのでなく、あえて「偽り」の描写で「真実」を語るものこそ、本物だ。
その「欺瞞」の裏には「真実」はない。それは、「欺瞞」こそが「真実」になってしまうからだった。
「…――こないだのインタビューが載ってる文芸座談2月号、送っといたけど見た?」
しばらく鳴り続けていた電話を取れば、お世話になっている出版社の編集者の、相変わらずのだみ声が聞こえてきた。
「……すぐに返事しないってことは、その辺探してんだろ?」
石田は俺と同い年で、デビューした当時からの付き合いだ。
呆れたような雰囲気のだみ声に、忘れてた…いつもの封筒か? と素直に答える。受話器を肩と頬で挟んで、デスクの右側に積み上げられた本やら資料やら原稿用紙やらを一塊ずつ床に下ろしていく。すると厚い歴史書の下にA4より少し大きめの封筒が出てきた。封筒の薄い黄緑色はいつも石田の出版社が使っているものだから一目で分かるし、掴んだ感触で、中身が石田の言う雑誌だと分かる。
あまり見たいとも思わないが、仕方なしに封筒を千切る。文芸座談、と茶に近い橙色の文字が見えた。
「あーああ、俺こういうのもう御免だからな。嫌だぜ、インタビューとか対談とかって、…」
言ったことが全部、勝手に編集されるんだから。
こういう類のものは、記事になったものに、自分が喋ったことの3分の1でも載っていれば万々歳というほどだ。記事にする過程で既に、俺の手から離れて他人の意図するものになるのだから、とても危険なのだ。もしこういうインタビューを読んで勘違いされたら、堪ったものじゃない。
俺は記事として出来上がったものをこの目で確かめるまでは、自分の言葉を他人に弄くられているような嫌な気分のまま、できることならそのままそっと忘れてしまいたいと思う。
そうして都合よく忘れた頃、わざわざ俺に思い出させる嫌なやつは、いつも石田だ。やつの電話はいつも連載の催促や出版のトラブルや、俺が嫌いな仕事の依頼の連絡ばかりだ。
「…ん? ああ、分かった分かった。目え通しとくから、じゃあな、」
問答無用で受話器を置くと、途端に辺りが静かになる。石田のだみ声はとても耳障りだということだ。
記事にはやはり、俺の意図しない言葉や表現がふんだんに使われていた。あれほどこの言葉を使うなと注文したはずだが、どうやら正確に伝わらなかったらしい。
そもそもこれじゃあ、俺が言ったみたいに見えるじゃないか。何も知らない読者は、誌面通りに受け取ってしまうだろう。ああ、嫌だ。こういうものは「偽り」でも何でもなくて、ただの質の悪い「嘘」だ。予測不能の子供の悪戯に遭遇するよりも酷い。
「ちっ……だから嫌なんだよ、…」
不愉快な雑誌を本棚に押し遣って、椅子に凭れる。
今はもう、原稿に向かう気が起きない。石田には悪いが、また催促の電話の一本や二本いくらでも掛けてくればいい。しばらく電話線を抜いてしまおう。
だが、……情けない悩みだ。
自慢ではないが、俺が書く本の読者は作者に似ず頭のいい人間ばかりだから、例えば誰もが騙されるような「嘘」でも彼らは見抜いてしまうだろう。…――それだけで十分なのだ。俺の読者でない読者にも、そんな風に理解してもらいたいなんて、烏滸がましいにも程があるってものだろう。